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第3章 大切なもの
凛と翔の大切なもの⑥
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わからない。それも理由の一つかもしれないとは思っていた。でも、当時の俺と今の俺とはではかけ離れていて⋯⋯今の俺は何もないから。自信も誇れるものも何もない。だから、不安なのかもしれない。
答えなかったのがダメだったのか、凛はムスッとした顔をしてから、俺のほっぺたを摘まんで横に引っ張った。
「いひゃいです、凛さん」
「あははっ。翔くん、変な顔」
「いひゃいいひゃい」
「さっき私はもっと痛い思いをしたんだぞ?」
からかうような軽い口調で、悪戯な笑みを作って言った。
それを言われると何も言えない。
俺のほっぺたを弄んでから、手を離すと⋯⋯彼女は、俺の頬を両手で優しく挟んで、口付けてきた。
また頭の中で白いふわふわしたものがたくさん浮かんでくる。
唇を離すと、彼女はまた優しく微笑んで、愛しそうにさっきこねくり回した頬を撫でてくる。
「⋯⋯自覚ないかもしれないけどさ、翔くんは、私が一番しんどくてつらくてどうしようもなかった時に、ふらっと現れて、私を導いてくれたんだよ」
彼女は少しだけ身を起こして、俺の頭をぎゅっと抱き締めてきた。
「あの夏の終わりに、この場所で、自信も何もかんも全部なくなって、ここから身を投げた方が楽なんじゃないかってくらい途方にくれてた私に⋯⋯確かな道しるべを示してくれたのが、翔くん」
その言葉に、心がぎゅっと握られた感覚になって、目頭が熱くなった。
あの時俺が言った言葉なんて、ほんとにただ思いつくままに言っただけだ。そんな俺の何気ない言葉が、それほど彼女を救っていたなんて、思っていなかったのだ。
彼女はそんな俺をあやすように、髪を優しく撫でてくれた。
「あの時の私の挫折感と敗北感を理解できるのは、この世界で翔くんしかいないからさ。私の弱いところも、かっこ悪いところも、恥ずかしいところも⋯⋯全部見せられるのも、受け止めてくれるのも、世界でたった一人。翔くんだけ」
そこにいてくれるだけでいいよ──そう、彼女は言ってくれた様な気がした。
この言葉を聞いた時、涙が溢れていた。彼女は、俺に対して特別な事なんて、何も求めていなかったのだ。
俺はこの通り弱いし、優柔不断だし、流されやすいし⋯⋯凛を不安にさせてしまうような男で、俳優でもなければ突出した学力や能力が何かあるわけでもない。俺なんかよりも凛を幸せにできる男なんてたくさんいると思っていた。
でも、そんな俺に対して、彼女はただいてくれるだけでいい、と言ってくれた。弱みを見せられるから、痛みを共感できるから、と⋯⋯そんな俺の隣にいたくて、彼女はわざわざ東京での生活を捨てて、ここまで来てくれたのだ。
もう解消されてしまったけれど、俺はこの時、初めて『逃亡者同盟』の本質を理解した気がした。
俺と凛は、互いに同じ傷を持っていて、互いにそれを理解している。同じものを見て、同じものに抗い、そして同じものに屈した。だからこそ、その痛みも恥も、全て理解できるし、受け入れられる。
かっこつけていなくても、無理していなくても、何か称号や肩書きがなくても、強者でなくても、ただそこにいるだけで安心できて、敗北者の自分を無条件に受け入れてくれる存在。それこそが、俺達の間で言う『逃亡者同盟』だったのだ。
思えば、俺だって同じだったじゃないか。ずっと凛に対して、そう思っていたじゃないか。彼女だけが俺を理解できていて、寄り添ってくれている、と。だから、玲華にどれだけ正論を言われても、凛が悪いと言われても、俺だけは彼女の味方で在りたいと思えた。俺が悪者になってもいいから、ミスコンの会場から連れ去ろうと思った。
どっちが正しいだとか、どっちが凄いだとか、どっちが綺麗だとか、そんな事は俺にとってはどうでもよかったのだ。
ただ、彼女が彼女でさえあればいい。そう、思っていたじゃないか。
(これが俺の大切なもの、だったのか⋯⋯)
凛が大切なものをくれて、大切な気持ちを打ち明けてくれて⋯⋯俺は、ようやく俺の中にある大切なものに気付けた気がした。
玲華と再会して、この町にも現れて、散々振り回されて、掻き回されて⋯⋯色んなもののせいで見えなくなっていたけれど。
(俺と凛の大切なものは、同じだったんだな)
この時、ようやく俺は、まだ凛の中に存在していていいのだと、彼女の横にいていいのだと、確信が得られた。今までどうして彼女がこんなにも俺が想ってくれているのかわからなかったけども⋯⋯彼女がこうして言葉にしてくれた事で、ようやく全てが理解できた。
「何もないなんて言わないで。翔くんは、私にとって一番大切なものを持ってるからさ」
彼女も涙を流していた。気持ちがシンクロしたからかもしれない。
そんな彼女の胸の中で、俺は小さく頷いた。
この時、俺は彼女と初めてデートした日の夜の時の事を思い出していた。
あの日も、俺達はこの場所で本音を見せ合って、二人で泣いていた。そして、あの時こう思っていたはずである。
『一人では超えられない壁も、二人なら超えられるかもしれない』
それがまさしく今なのではないだろうか。
だから、凛は玲華から逃げるのをやめて、今回女優の代役を申し出たのではないだろうか。
彼女はさっきこう言っていた。
『玲華に怯え続けて生きて行くなんて⋯⋯もう嫌だから』
彼女はまだ怖いのである。犬飼監督の映画だからとか、初めての女優だからとかではなく、ただ玲華と対峙するのが怖いのだ。それは先日の文化祭で、彼女が玲華の挑発を受けて対峙する事になった時、どれだけ怯えていたかを思い出せば、想像にたやすい。
でも、もしかすると⋯⋯俺がいれば、彼女のその恐怖心を少しは緩和できるのではないだろうか。
だとすると⋯⋯それは、俺にしかできない役目だった。
この世界でたった一人、挫折と敗北を共有するものとして。
「凛」
「なあに?」
「乗り越えよう。二人で」
凛は小さく頷いた。
あの時は諦観をどこかに含んでいた。乗り越えられない、という諦めがどこかにあった。だから、俺達はお互い依存する方向に進んでしまった。
でも、あの時とは違う。
今、俺達の中で、確かな意志がある。その機会も、運よく降ってきた。
俺達は、ここで乗り越えなければいけないのだ。挫折した過去を。その為に俺ができる事は⋯⋯凛をとにかくサポートしてやる事だ。
俺一人ではどうにもならないかもしれない。でも、凛がいれば⋯⋯俺達二人なら、きっと不可能を可能にできる。そう思えた。
「翔くんがいてくれたら、私、もっと強くなれる気がする」
それは凛だけじゃない。俺も同じだった。
「離さないでね」
凛は幸せそうな笑みを浮かべていた。
当たり前だ、と。その笑顔と言葉に応えるように、彼女の体を強く抱きしめた。
離したくない。
彼女をずっと、離さない。
そう、満月に誓った。
答えなかったのがダメだったのか、凛はムスッとした顔をしてから、俺のほっぺたを摘まんで横に引っ張った。
「いひゃいです、凛さん」
「あははっ。翔くん、変な顔」
「いひゃいいひゃい」
「さっき私はもっと痛い思いをしたんだぞ?」
からかうような軽い口調で、悪戯な笑みを作って言った。
それを言われると何も言えない。
俺のほっぺたを弄んでから、手を離すと⋯⋯彼女は、俺の頬を両手で優しく挟んで、口付けてきた。
また頭の中で白いふわふわしたものがたくさん浮かんでくる。
唇を離すと、彼女はまた優しく微笑んで、愛しそうにさっきこねくり回した頬を撫でてくる。
「⋯⋯自覚ないかもしれないけどさ、翔くんは、私が一番しんどくてつらくてどうしようもなかった時に、ふらっと現れて、私を導いてくれたんだよ」
彼女は少しだけ身を起こして、俺の頭をぎゅっと抱き締めてきた。
「あの夏の終わりに、この場所で、自信も何もかんも全部なくなって、ここから身を投げた方が楽なんじゃないかってくらい途方にくれてた私に⋯⋯確かな道しるべを示してくれたのが、翔くん」
その言葉に、心がぎゅっと握られた感覚になって、目頭が熱くなった。
あの時俺が言った言葉なんて、ほんとにただ思いつくままに言っただけだ。そんな俺の何気ない言葉が、それほど彼女を救っていたなんて、思っていなかったのだ。
彼女はそんな俺をあやすように、髪を優しく撫でてくれた。
「あの時の私の挫折感と敗北感を理解できるのは、この世界で翔くんしかいないからさ。私の弱いところも、かっこ悪いところも、恥ずかしいところも⋯⋯全部見せられるのも、受け止めてくれるのも、世界でたった一人。翔くんだけ」
そこにいてくれるだけでいいよ──そう、彼女は言ってくれた様な気がした。
この言葉を聞いた時、涙が溢れていた。彼女は、俺に対して特別な事なんて、何も求めていなかったのだ。
俺はこの通り弱いし、優柔不断だし、流されやすいし⋯⋯凛を不安にさせてしまうような男で、俳優でもなければ突出した学力や能力が何かあるわけでもない。俺なんかよりも凛を幸せにできる男なんてたくさんいると思っていた。
でも、そんな俺に対して、彼女はただいてくれるだけでいい、と言ってくれた。弱みを見せられるから、痛みを共感できるから、と⋯⋯そんな俺の隣にいたくて、彼女はわざわざ東京での生活を捨てて、ここまで来てくれたのだ。
もう解消されてしまったけれど、俺はこの時、初めて『逃亡者同盟』の本質を理解した気がした。
俺と凛は、互いに同じ傷を持っていて、互いにそれを理解している。同じものを見て、同じものに抗い、そして同じものに屈した。だからこそ、その痛みも恥も、全て理解できるし、受け入れられる。
かっこつけていなくても、無理していなくても、何か称号や肩書きがなくても、強者でなくても、ただそこにいるだけで安心できて、敗北者の自分を無条件に受け入れてくれる存在。それこそが、俺達の間で言う『逃亡者同盟』だったのだ。
思えば、俺だって同じだったじゃないか。ずっと凛に対して、そう思っていたじゃないか。彼女だけが俺を理解できていて、寄り添ってくれている、と。だから、玲華にどれだけ正論を言われても、凛が悪いと言われても、俺だけは彼女の味方で在りたいと思えた。俺が悪者になってもいいから、ミスコンの会場から連れ去ろうと思った。
どっちが正しいだとか、どっちが凄いだとか、どっちが綺麗だとか、そんな事は俺にとってはどうでもよかったのだ。
ただ、彼女が彼女でさえあればいい。そう、思っていたじゃないか。
(これが俺の大切なもの、だったのか⋯⋯)
凛が大切なものをくれて、大切な気持ちを打ち明けてくれて⋯⋯俺は、ようやく俺の中にある大切なものに気付けた気がした。
玲華と再会して、この町にも現れて、散々振り回されて、掻き回されて⋯⋯色んなもののせいで見えなくなっていたけれど。
(俺と凛の大切なものは、同じだったんだな)
この時、ようやく俺は、まだ凛の中に存在していていいのだと、彼女の横にいていいのだと、確信が得られた。今までどうして彼女がこんなにも俺が想ってくれているのかわからなかったけども⋯⋯彼女がこうして言葉にしてくれた事で、ようやく全てが理解できた。
「何もないなんて言わないで。翔くんは、私にとって一番大切なものを持ってるからさ」
彼女も涙を流していた。気持ちがシンクロしたからかもしれない。
そんな彼女の胸の中で、俺は小さく頷いた。
この時、俺は彼女と初めてデートした日の夜の時の事を思い出していた。
あの日も、俺達はこの場所で本音を見せ合って、二人で泣いていた。そして、あの時こう思っていたはずである。
『一人では超えられない壁も、二人なら超えられるかもしれない』
それがまさしく今なのではないだろうか。
だから、凛は玲華から逃げるのをやめて、今回女優の代役を申し出たのではないだろうか。
彼女はさっきこう言っていた。
『玲華に怯え続けて生きて行くなんて⋯⋯もう嫌だから』
彼女はまだ怖いのである。犬飼監督の映画だからとか、初めての女優だからとかではなく、ただ玲華と対峙するのが怖いのだ。それは先日の文化祭で、彼女が玲華の挑発を受けて対峙する事になった時、どれだけ怯えていたかを思い出せば、想像にたやすい。
でも、もしかすると⋯⋯俺がいれば、彼女のその恐怖心を少しは緩和できるのではないだろうか。
だとすると⋯⋯それは、俺にしかできない役目だった。
この世界でたった一人、挫折と敗北を共有するものとして。
「凛」
「なあに?」
「乗り越えよう。二人で」
凛は小さく頷いた。
あの時は諦観をどこかに含んでいた。乗り越えられない、という諦めがどこかにあった。だから、俺達はお互い依存する方向に進んでしまった。
でも、あの時とは違う。
今、俺達の中で、確かな意志がある。その機会も、運よく降ってきた。
俺達は、ここで乗り越えなければいけないのだ。挫折した過去を。その為に俺ができる事は⋯⋯凛をとにかくサポートしてやる事だ。
俺一人ではどうにもならないかもしれない。でも、凛がいれば⋯⋯俺達二人なら、きっと不可能を可能にできる。そう思えた。
「翔くんがいてくれたら、私、もっと強くなれる気がする」
それは凛だけじゃない。俺も同じだった。
「離さないでね」
凛は幸せそうな笑みを浮かべていた。
当たり前だ、と。その笑顔と言葉に応えるように、彼女の体を強く抱きしめた。
離したくない。
彼女をずっと、離さない。
そう、満月に誓った。
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