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第1章 雨宮凛

好きだった③

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「だから、モデルじゃなくて女優になれば……もっと上に行けば、玲華に勝てると思った。勝ち負けの勝負じゃないかも知れないけど……少なくとも、自分の力だと証明出来るって。でも……」

 凛は口を噤んだ。
 ここからはさっきマネージャーの前で話した通り、という事だろう。枕営業を強いられ、それに応えなければ上には行けない。
 もしかしたら、それも自分の力の一つなのかもしれない。枕営業をしてチャンスを掴み取って、上にのし上がっていった人も多いだろう。
 しかし、それは凛の求めた力では無かった。

「マクラ要求してくるとか……ほんとにあのエロオヤジは最っ低。でも、それってさ『体の関係がなければ主演にしてやる価値はない』って事なんだよね。どうしても私じゃないとダメ、って訳じゃなかった。結局、私にはそれくらいの価値しかなかった」

 そんな方法で上に行ったとしても、少なくとも凛にとっては何の解決にもならない。余計に自分が惨めになるだけだろう。

「そんなので……玲華には勝てないよね」

 そう言って、凛は黙った。
 結局、これが凛が芸能界を辞めた理由なのかもしれない。自分の限界を知った。越えられないと悟った。枕営業を強いられたのも大きな理由であるかもしれないけど、原因ではなかった。
 人が空を飛べないのを悟る様に、人が地面で暮らすしかないと理解する様に、彼女は空を羽ばたく事を諦めたのだ。その気持ちは、俺もよく分かる。

「ねえ……どうして翔くんは玲華と別れたの? 引っ越したから?」
「聞いてないのか」
「うん……玲華から翔くんと付き合ってるって聞かされてから、私が玲華から距離を置いたの。玲華の幸せそうな顔見るの、辛かったから」

 高校も違ったしね、と彼女は付け足した。
 玲華は幸せだったのかな……俺と居ても楽しくないとばかり思っていたのに。

「別れた理由は……凛と一緒だと思う」
「え?」

 今までの凛の話を聞いていて、色んな感情が蘇って、溢れかえってくる。
 忘れていたはずの気持ちが蘇ってきて、胸の中をいっぺんに満たしていってしまった。まるで、塞いでいた蓋が決壊してしまったように、どばどばと溢れて止まらなくなっていた。

「惨めだった」

 玲華の笑顔が脳裏に浮かんで。

「情けなかった」

 受験で落ち込んでいた中学卒業後の春休みに、毎日どうでもいい用事を見つけて電話をかけてきたり、引っ張り回したりして。

「玲華に慰められている自分を許せなかった」

 挙げ句、慰めようとして自分の身体まで差し出して。自分だって怖かったくせに無理してリードしてみせて。

「気を遣わせている自分に……耐えられなかった」

 あんなに想われていたのに、何やってたんだ……俺は。『守ってあげてね』と市川サユに言われたのに、傷つけていただけだった。
 ぶわっと、自分の中でいろんな感情が溢れたのがわかった。
 玲華の事は──好きだった。
 でも、俺は自分の惨めさに耐えられなくて。玲華の優しさに耐えられなくて。彼女を拒絶した。
 会う度に彼女を傷つけていた。それに彼女は愛想を尽かして去った。
 本当に惨めだ。惨めすぎて、涙が溢れた。

「翔くん……」

 この涙がどういう意味なのか、わからない。

 悔しさ。
 情けなさ。
 悲しさ。
 寂しさ。
 申し訳なさ。
 色んなものが混じっていて……でも、一つだけ確かな感情があって。
 玲華のことを好きだった気持ちが確かに俺にはあって、それを相手諸共踏みにじった。
 そんな自分が許せなかった。

「……ごめんね」

 凛が俺の頭を抱え込む様にして抱きしめて、涙声で訊いてきた。

「本当に、私でいいの……?」

 良いも悪いもない。もう俺の心は決まっているのだから。

「俺は……」

 袖で涙を拭いて、必死に強がる。

「玲華のことを引きずってるわけじゃない。ただ、自分が死ぬ程情けなくて……悔しいだけなんだ」

 仮に好きだったとしても、どうやっても上手く行かなかったのは明白だ。
 俺が劣等感を持っている限り、玲華とはどのみち別れていた。また再会しても、それは変わらないだろう。
 今の俺にとって玲華とは……劣等感と惨めさの象徴なのだ。

「お前こそ……こんな俺でいいのか。凛が憧れてた俺は……もうどこにもいないんだぞ」

 凛は頭を振った。

「……私も同じ」

 ぎゅっと、また俺を抱き締めた。

「私も同じだから……二人で一緒に乗り越えよ?」

 頷いて、彼女の細い身体を強く抱き締め返した。
 同類相憐れむ、というやつなのかもしれない。それでも俺は、凛に対して暖かい気持ちを持っていた。デートをしていたさっきまでとは違う新しい感情。
 昨日、半分流れで付き合ってしまった感は否めない。元々凛に好意を抱いていたのは確かだが、その感情をどうしていいかわからず、凛が俺に好意を寄せる理由もわからなくて、どこか不安があった。
 だが、今は違う。
 俺達は確かな理解者として──とても後ろ向きな関係かもしれないけれど──二人で支え合っている。 きっと、過去を乗り越える為には、凛が必要だ。凛もまた、俺を必要としている。
 それが解った。だから、俺達は二人で歩いて行こうと決意した。一人では超えられない壁も、二人なら超えられるかもしれない。
 そんな諦観と希望を持って、俺達はもう一度、唇を重ねた。
 その時に重ねた唇は、涙でしょっぱくて、でも、優しくて。俺はこの時の口づけを、一生忘れないと思った。
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