8 / 23
賢王の裏側1
しおりを挟む
(……それからアレシュ様は、数日のうちにブレイハの領地を去って、王宮に戻られたのだったわ……)
心身共に健全となったアレシュは、自分の改革に賛成する者達を集め、手際良く素早く王宮内の改革に乗り出したと聞いている。
その手腕は見事で『幼き少年王』と囁かれていた異名から『賢王』と変わり、王宮内だけでなく、国中からも讃えられるようになった。
とはいえ、すぐに内政が改善された訳ではない。
やはり、古い貴族の思考に沿ったしきたりや政治は、全てを取り除くことは難しく、民と貴族達の意見を擦り合わせながら今の『国と全ての民のための政治』を築いていった。
――そして今、二十歳の若き王は、ようやく安定を始めた王宮に、共に住まう伴侶を探しているという。
その噂を聞いたエステルは、安堵感と、そして言い様のない寂しさが襲った。
八年前のあのプロポーズは、彼にとって思い出に変わり、あの口付けは彼の胸中に封印される。
(それで良いんだわ。彼を支えていけるだけの、若く美しい女性が世の中には沢山いる)
――私は、行き遅れの、しがない家庭教師
少しは、ほんの少しだけ自分のことを思い出して、懐かしんでくれればそれで良い。
そう言い訳しても寂しさに苛まされるのは、あれから手紙一つも寄越してくれないアレシュに対して、
「やはり子供の一時的な熱情で、王宮に戻ったら忘れてしまったのだろう」
という虚しさからだろうか?
エステルは独り身の自分が、酷く惨めだった。
――あの口付けから、私の人生は変わってしまった。
そんな過去を追懐していたエステルに、まさか王宮から迎えにくるとは思わずにいて……
きちがいじみた歓喜に包まれた家族に、迎えの馬車に押し込められ見送られ、エステルは茫然自失のままに王宮に向かう。
徐々に冴えていく頭は事の重大さに、心と身体に、覚悟か拒否か逃避かを選択させようと迫る。
だが、エステル自身で決着がつかないままに、リベラ城に到着してしまった。
――そして
エステルは今、王宮内の一室にいる。
形式に沿った挨拶を交わし――これも事前に、しっかりと叩き込まれた謁見の挨拶だ。
それからエステルは旅の疲れを癒すため、今日一日はゆっくりと休むことを言い渡された。
正式な「王妃教育」は早速明日から始まると伝えられ、与えられた部屋に一人になる。
ぐるりと部屋を見渡せば、目眩を起こしそうなほど、素晴らしく豪奢な内装。
そして室内着も最上の布で仕立てられた、着心地もデザインも素晴らしいティーガウン。
手の甲にかかる半透明のレースには、細やかな刺繍が縫われていた。その図柄の何て素晴らしいことか。
畏まって部屋の隅に控えている侍女に、何て声をかけたら良いのかさえも分からない。生活に余裕のなかったエステルの家庭には、侍女などいたことがなかったからだ。
(せめて迎えにきた侍女頭の方だったら、少しは気安いのに……)
そう思いながら頬に手をあて、息を吐いた。
とはいえ、グダグタしているわけにもいかない。もう、用事はないのだから、侍女には下がってもらおう。
「――あの、あな……」
思い切って声をかけたら、扉からノック音が届く。侍女は、足音も立てず滑るように扉に向かい、開けた。
夜半の訪問者の顔を見てよほど驚いたのか、「あっ……!」と悲鳴のように小さく声をあげ、慌てて大きく扉を開ける。
入ってきた相手にエステルも驚いて長椅子から立ち上がり、略式のお辞儀をした。
突然の訪問者――アレシュは、口元だけ笑みを作り頷くと、侍女を下がらせる。
閉まる扉の音がやけにエステルの耳に響く。徹底的に躾られた侍女の動作だ。実際は大きな音など、たてるはずもないのに。
「エステル?」
アレシュに話しかけられて、我を取り戻したエステルは悩んだ。
何を話して良いか、分からなかったからだ。
昼間に謁見時に交わしたような挨拶で良いのか、それとも、くだけた感じで良いのか――そもそも、どのくらい、くだけていいのか。
(情けない……田舎の家庭教師なんて、この程度だわ)
自分を卑下し落ち込みそうだ。
顔ごと視線をそらし、目を合わせようとしないエステルを見て、アレシュは、
「そんなに緊張しないで。僕は外観は変わったけど、中身はそう変わってはいないよ?」
と微笑んで見せる。
「……変わりました。貴方はもう、あの小さな少年ではありません」
そう言いながらエステルは、反らしていた顔をアレシュに向けて上げた。
なんて眩しいんだろう、彼は。その微笑みはとても甘くて、自分を溶かしてしまいそうだ。
謁見時には整髪剤でまとめていた髪も今は下ろし、額や耳にかかる髪が微かな動きにも揺れ、室内の灯りを取り込み輝く。
自分より背丈も伸び、自分同様に楽な、薄めの生地の服装に着替たせいだろうか? 首筋から肩にかけての男らしいラインがよく分かる。
途端、自分の姿が気になる。
八年の間、彼は子供から大人になり、こうも素晴らしい青年へと変貌を遂げた。
(――私は?)
自分は、婚期を逃した二十代後半の女。若さも張りも絶頂期から過ぎて、後は衰えていくだけ。
そう自分の今を改めてみると、急激に恥ずかしくなった。
その老いた自分の姿をアレシュは、瞳を輝かせて見つめているのだから。
恥ずかしく、また腹立たしい。
アレシュに腹を立てることではないのは理解しているのに、この今の憐れな自分の姿を見せなくてはならない状況に、エステルは憤りを感じていた。
「……まさか、あの時の・・・・約束を覚えていらっしゃるとは思いませんでした」
怒りを抑えて絞り出した言葉も、恨み言だ。
「忘れたことなど一度もない。僕はあの約束があったから、こうしてやってこれたのだから」
無邪気な応えにエステルはまた俯き、そっと唇を噛み締める。
「エステル?」
「私を……笑い者にしたいの?」
「……何故?」
「私は世間からしたら行き遅れ。しかも、婚約者に捨てられケチがついて、まともな結婚話も来ない女。――そんな女を何故『妃候補』として私を呼ぶのです?」
――不幸は八年前。
アレシュが王宮に戻ってから、まもなくのことだった。
オルクが首都にある図書館に、所員として推薦されたのだ。そこは王族の縁の施設であるが民にも解放されている場所で、働いている所員も半数は一般からの推薦だった。
とはいえ、ある程度の学を修めた者達の働き先として羨望の場所である。
その図書館に推薦されたオルクは、嬉々として働きに出た。
『約束通り、一年後に式を挙げて首都で夫婦として住もう』
そのオルクの言葉を信じ、エステルは彼を見送った。
最初は頻繁に手紙のやり取りをしていたが、次第に減っていき、半年後には一通も来なくなった。
エステルから出し続けても、返事は帰ってこない。
不安な日々を過ごし、半年が経ち、エステルは思い切って彼を訪ねに行こうとした矢先――オルクが帰ってきた。
エステルに、別れを告げるために。
首都で彼の上司から、とある女性を紹介され、付き合っていた。
相手は貴族の身分ではないが、羽振りの良い商家の次女で――既に腹に子が宿っているという。
『身の丈に合った家柄の女性の方が、僕にはあっていた』
そう言い残して、恐らく相手の女性の家から積まれた金を置いていった。
『身体を許さなくて良かった』と母は憤慨しながらも、娘の身の固さに安堵していたようだったが、エステルにはかなり堪えた。
二人の間にあった愛は、どこへ消えたのか?
身体を許していれば、違う今があったのか?
悲しみに打ちひしがれている間にも、時は流れる。
アレンカの家庭教師はエステルの結婚まで一年という契約で、ダリナの意見で延期されることはなかった。
それはそうだろう。花嫁教育の一貫なのに、教えを乞う教師が婚約破棄されては、信用して任せられない。
それでも、ブレイハ領主の伝で民間の教室に教師として教壇にたてたのは、幸運だった。
その間にも、幾つか見合いの話がきて幾人かと会ったが、いつの間にか立ち消えた。
そんなことが続き八年。
もう結婚は諦めて、自ら教室を開き子供達に勉強を教えて過ごそうかと、真剣に考えていたのだ。
――そう覚悟を決めた矢先の、王宮からの迎え。
戸惑うのも当然だろう。
「本当は僕が直接、迎えに行きたかったんだよ。ここに来るまでの間、不安だっただろう? すまなかった」
「……本気なのですか? まさか本気で、私を王妃として迎えるつもりなのですか?」
「本気だよ。この想いは八年前から変わっていない」
「こんな……! 行き遅れの……、もう二十代の後半の女など……! お考え直して下さい。私を側においても、王には何も利益もありません!」
アレシュに向かって、きつい表情と声を上げるエステルの瞳には涙が浮かび、今でも溢れ落ちそうだった。
惨めだ。こんな惨めな今の自分を見せることになるなんて。
(どうして、思い出にしておいてくれなかったの!)
そう叫びたかった。
「エステル……何故、そんなに自分を見下すんだ? 貴女は変わっていない。今も美しく知性に溢れているよ。」
「――冗談を……!」
頬に近付くアレシュの大きな手に、エステルは息を飲む。
触れようとする手の何て熱いことか。
「君を妃として迎え入れたいと家臣達に伝えた時、君が言ったことと似たような意味を告げて、反対した者もいた。――でも、僕は根気よく説得を繰り返した。今は君との結婚に反対するものはいない」
「……それは、嘘です……」
エステルは、アレシュの熱い手から逃れるように首を振る。
「恐らくね、表面だけの賛成の者達もいるだろうよ」
そう言いながら、後ろに下がっていくエステルの腰を掴むと、強引に引き寄せた。服の上から触れられても、アレシュの熱が伝わる。
エステルにはこの熱さが怖い。遠い過去に感じたことのある、欲を孕んだものだ。
オルクだったか
幼き王だったか
だが――それを身に受けたことのない彼女には、恐怖でしかなかった。
「……賛同の裏の顔で、僕と君の結婚を無いものにしようと動く者達が、現れるかもしれない。そんな者達が恥ずかしくなるほどに、僕達の仲睦まじい様子を見せないとならない」
「そんな必要はありません……!」
アレシュの身体の熱さから逃れようと、無理矢理彼から離れる。それでも迫ってくる彼からエステルは、よろめきながらも後退した。
「何故?」
逃げるエステルに、絶えず微笑み迫るアレシュは、何度も彼女にそう問いた。
「私は、この結婚も王妃になることも、承諾はできないからです……!」
「――そう言うと思っていたよ」
長椅子に躓き、倒れるようにそこにしゃがんだエステルに、アレシュは覆い被さるように手を付いた。
「僕の意思は変わらない。君を妃に迎え入れる。大丈夫、その為に明日から王妃教育が始まるのだから。保証する、君は立派な素晴らしい王妃になれる」
どこから、そんな確信が生まれるのか?
――真っ直ぐに自分を見つめる、アレシュの笑顔が怖い。
どうして自分がこうして理由があって拒否をしているのに、それをかわして無視をして勝手に話を進めているのか。
「なれるはずがないのです……! 私は王妃として相応しい女ではありません! お考え直して! 幼い頃の恋心が妄想に膨らんだだけです!」
不意にアレシュの指がエステルの唇に触れ、なぞる。
「妄想かどうか、これからすぐに分かる。僕の思うエステルと同じ熱さを持つのか……分からせてあげよう、皆に」
「……アレシュさ……!」
アレシュの顔が近付き、あっという間に唇を塞がれた。湿った唇に、自分の熱よりずっと高い体温を感じる。押し付けられる身体は、重くも逞しい。
「い……や! ……お、う……!」
角度を変えて唇をずらされる度にエステルの口から、呼吸と共に拒絶の言葉が吐き出される。
どうにかして逃れようと自由のきく腕で、アレシュの肩を必死に引き離そうとするが、びくともしない。
そのうちにアレシュの手が胸に触れはじめ、エステルは短い悲鳴を上げて身体を固くした。
「まだ男と身体を添わしたことはないようだ、と報告があったけど事実なようだね。――良かった」
安堵のような息を吐かれ、呟かれた言葉にエステルは、顔を真っ赤にするほどに動揺する。
「――なっ……! わ、わるうございました! 行き遅れですから! だから……! こんな女、人から見ればきっと、どこか問題があるのです! 諦めてください!」
顔を赤くして怒りを見せたエステルだったが、アレシュの言葉に、今度は真っ白に顔色を変える。
「エステルに問題など無い。君の結婚を潰したのは僕だから」
心身共に健全となったアレシュは、自分の改革に賛成する者達を集め、手際良く素早く王宮内の改革に乗り出したと聞いている。
その手腕は見事で『幼き少年王』と囁かれていた異名から『賢王』と変わり、王宮内だけでなく、国中からも讃えられるようになった。
とはいえ、すぐに内政が改善された訳ではない。
やはり、古い貴族の思考に沿ったしきたりや政治は、全てを取り除くことは難しく、民と貴族達の意見を擦り合わせながら今の『国と全ての民のための政治』を築いていった。
――そして今、二十歳の若き王は、ようやく安定を始めた王宮に、共に住まう伴侶を探しているという。
その噂を聞いたエステルは、安堵感と、そして言い様のない寂しさが襲った。
八年前のあのプロポーズは、彼にとって思い出に変わり、あの口付けは彼の胸中に封印される。
(それで良いんだわ。彼を支えていけるだけの、若く美しい女性が世の中には沢山いる)
――私は、行き遅れの、しがない家庭教師
少しは、ほんの少しだけ自分のことを思い出して、懐かしんでくれればそれで良い。
そう言い訳しても寂しさに苛まされるのは、あれから手紙一つも寄越してくれないアレシュに対して、
「やはり子供の一時的な熱情で、王宮に戻ったら忘れてしまったのだろう」
という虚しさからだろうか?
エステルは独り身の自分が、酷く惨めだった。
――あの口付けから、私の人生は変わってしまった。
そんな過去を追懐していたエステルに、まさか王宮から迎えにくるとは思わずにいて……
きちがいじみた歓喜に包まれた家族に、迎えの馬車に押し込められ見送られ、エステルは茫然自失のままに王宮に向かう。
徐々に冴えていく頭は事の重大さに、心と身体に、覚悟か拒否か逃避かを選択させようと迫る。
だが、エステル自身で決着がつかないままに、リベラ城に到着してしまった。
――そして
エステルは今、王宮内の一室にいる。
形式に沿った挨拶を交わし――これも事前に、しっかりと叩き込まれた謁見の挨拶だ。
それからエステルは旅の疲れを癒すため、今日一日はゆっくりと休むことを言い渡された。
正式な「王妃教育」は早速明日から始まると伝えられ、与えられた部屋に一人になる。
ぐるりと部屋を見渡せば、目眩を起こしそうなほど、素晴らしく豪奢な内装。
そして室内着も最上の布で仕立てられた、着心地もデザインも素晴らしいティーガウン。
手の甲にかかる半透明のレースには、細やかな刺繍が縫われていた。その図柄の何て素晴らしいことか。
畏まって部屋の隅に控えている侍女に、何て声をかけたら良いのかさえも分からない。生活に余裕のなかったエステルの家庭には、侍女などいたことがなかったからだ。
(せめて迎えにきた侍女頭の方だったら、少しは気安いのに……)
そう思いながら頬に手をあて、息を吐いた。
とはいえ、グダグタしているわけにもいかない。もう、用事はないのだから、侍女には下がってもらおう。
「――あの、あな……」
思い切って声をかけたら、扉からノック音が届く。侍女は、足音も立てず滑るように扉に向かい、開けた。
夜半の訪問者の顔を見てよほど驚いたのか、「あっ……!」と悲鳴のように小さく声をあげ、慌てて大きく扉を開ける。
入ってきた相手にエステルも驚いて長椅子から立ち上がり、略式のお辞儀をした。
突然の訪問者――アレシュは、口元だけ笑みを作り頷くと、侍女を下がらせる。
閉まる扉の音がやけにエステルの耳に響く。徹底的に躾られた侍女の動作だ。実際は大きな音など、たてるはずもないのに。
「エステル?」
アレシュに話しかけられて、我を取り戻したエステルは悩んだ。
何を話して良いか、分からなかったからだ。
昼間に謁見時に交わしたような挨拶で良いのか、それとも、くだけた感じで良いのか――そもそも、どのくらい、くだけていいのか。
(情けない……田舎の家庭教師なんて、この程度だわ)
自分を卑下し落ち込みそうだ。
顔ごと視線をそらし、目を合わせようとしないエステルを見て、アレシュは、
「そんなに緊張しないで。僕は外観は変わったけど、中身はそう変わってはいないよ?」
と微笑んで見せる。
「……変わりました。貴方はもう、あの小さな少年ではありません」
そう言いながらエステルは、反らしていた顔をアレシュに向けて上げた。
なんて眩しいんだろう、彼は。その微笑みはとても甘くて、自分を溶かしてしまいそうだ。
謁見時には整髪剤でまとめていた髪も今は下ろし、額や耳にかかる髪が微かな動きにも揺れ、室内の灯りを取り込み輝く。
自分より背丈も伸び、自分同様に楽な、薄めの生地の服装に着替たせいだろうか? 首筋から肩にかけての男らしいラインがよく分かる。
途端、自分の姿が気になる。
八年の間、彼は子供から大人になり、こうも素晴らしい青年へと変貌を遂げた。
(――私は?)
自分は、婚期を逃した二十代後半の女。若さも張りも絶頂期から過ぎて、後は衰えていくだけ。
そう自分の今を改めてみると、急激に恥ずかしくなった。
その老いた自分の姿をアレシュは、瞳を輝かせて見つめているのだから。
恥ずかしく、また腹立たしい。
アレシュに腹を立てることではないのは理解しているのに、この今の憐れな自分の姿を見せなくてはならない状況に、エステルは憤りを感じていた。
「……まさか、あの時の・・・・約束を覚えていらっしゃるとは思いませんでした」
怒りを抑えて絞り出した言葉も、恨み言だ。
「忘れたことなど一度もない。僕はあの約束があったから、こうしてやってこれたのだから」
無邪気な応えにエステルはまた俯き、そっと唇を噛み締める。
「エステル?」
「私を……笑い者にしたいの?」
「……何故?」
「私は世間からしたら行き遅れ。しかも、婚約者に捨てられケチがついて、まともな結婚話も来ない女。――そんな女を何故『妃候補』として私を呼ぶのです?」
――不幸は八年前。
アレシュが王宮に戻ってから、まもなくのことだった。
オルクが首都にある図書館に、所員として推薦されたのだ。そこは王族の縁の施設であるが民にも解放されている場所で、働いている所員も半数は一般からの推薦だった。
とはいえ、ある程度の学を修めた者達の働き先として羨望の場所である。
その図書館に推薦されたオルクは、嬉々として働きに出た。
『約束通り、一年後に式を挙げて首都で夫婦として住もう』
そのオルクの言葉を信じ、エステルは彼を見送った。
最初は頻繁に手紙のやり取りをしていたが、次第に減っていき、半年後には一通も来なくなった。
エステルから出し続けても、返事は帰ってこない。
不安な日々を過ごし、半年が経ち、エステルは思い切って彼を訪ねに行こうとした矢先――オルクが帰ってきた。
エステルに、別れを告げるために。
首都で彼の上司から、とある女性を紹介され、付き合っていた。
相手は貴族の身分ではないが、羽振りの良い商家の次女で――既に腹に子が宿っているという。
『身の丈に合った家柄の女性の方が、僕にはあっていた』
そう言い残して、恐らく相手の女性の家から積まれた金を置いていった。
『身体を許さなくて良かった』と母は憤慨しながらも、娘の身の固さに安堵していたようだったが、エステルにはかなり堪えた。
二人の間にあった愛は、どこへ消えたのか?
身体を許していれば、違う今があったのか?
悲しみに打ちひしがれている間にも、時は流れる。
アレンカの家庭教師はエステルの結婚まで一年という契約で、ダリナの意見で延期されることはなかった。
それはそうだろう。花嫁教育の一貫なのに、教えを乞う教師が婚約破棄されては、信用して任せられない。
それでも、ブレイハ領主の伝で民間の教室に教師として教壇にたてたのは、幸運だった。
その間にも、幾つか見合いの話がきて幾人かと会ったが、いつの間にか立ち消えた。
そんなことが続き八年。
もう結婚は諦めて、自ら教室を開き子供達に勉強を教えて過ごそうかと、真剣に考えていたのだ。
――そう覚悟を決めた矢先の、王宮からの迎え。
戸惑うのも当然だろう。
「本当は僕が直接、迎えに行きたかったんだよ。ここに来るまでの間、不安だっただろう? すまなかった」
「……本気なのですか? まさか本気で、私を王妃として迎えるつもりなのですか?」
「本気だよ。この想いは八年前から変わっていない」
「こんな……! 行き遅れの……、もう二十代の後半の女など……! お考え直して下さい。私を側においても、王には何も利益もありません!」
アレシュに向かって、きつい表情と声を上げるエステルの瞳には涙が浮かび、今でも溢れ落ちそうだった。
惨めだ。こんな惨めな今の自分を見せることになるなんて。
(どうして、思い出にしておいてくれなかったの!)
そう叫びたかった。
「エステル……何故、そんなに自分を見下すんだ? 貴女は変わっていない。今も美しく知性に溢れているよ。」
「――冗談を……!」
頬に近付くアレシュの大きな手に、エステルは息を飲む。
触れようとする手の何て熱いことか。
「君を妃として迎え入れたいと家臣達に伝えた時、君が言ったことと似たような意味を告げて、反対した者もいた。――でも、僕は根気よく説得を繰り返した。今は君との結婚に反対するものはいない」
「……それは、嘘です……」
エステルは、アレシュの熱い手から逃れるように首を振る。
「恐らくね、表面だけの賛成の者達もいるだろうよ」
そう言いながら、後ろに下がっていくエステルの腰を掴むと、強引に引き寄せた。服の上から触れられても、アレシュの熱が伝わる。
エステルにはこの熱さが怖い。遠い過去に感じたことのある、欲を孕んだものだ。
オルクだったか
幼き王だったか
だが――それを身に受けたことのない彼女には、恐怖でしかなかった。
「……賛同の裏の顔で、僕と君の結婚を無いものにしようと動く者達が、現れるかもしれない。そんな者達が恥ずかしくなるほどに、僕達の仲睦まじい様子を見せないとならない」
「そんな必要はありません……!」
アレシュの身体の熱さから逃れようと、無理矢理彼から離れる。それでも迫ってくる彼からエステルは、よろめきながらも後退した。
「何故?」
逃げるエステルに、絶えず微笑み迫るアレシュは、何度も彼女にそう問いた。
「私は、この結婚も王妃になることも、承諾はできないからです……!」
「――そう言うと思っていたよ」
長椅子に躓き、倒れるようにそこにしゃがんだエステルに、アレシュは覆い被さるように手を付いた。
「僕の意思は変わらない。君を妃に迎え入れる。大丈夫、その為に明日から王妃教育が始まるのだから。保証する、君は立派な素晴らしい王妃になれる」
どこから、そんな確信が生まれるのか?
――真っ直ぐに自分を見つめる、アレシュの笑顔が怖い。
どうして自分がこうして理由があって拒否をしているのに、それをかわして無視をして勝手に話を進めているのか。
「なれるはずがないのです……! 私は王妃として相応しい女ではありません! お考え直して! 幼い頃の恋心が妄想に膨らんだだけです!」
不意にアレシュの指がエステルの唇に触れ、なぞる。
「妄想かどうか、これからすぐに分かる。僕の思うエステルと同じ熱さを持つのか……分からせてあげよう、皆に」
「……アレシュさ……!」
アレシュの顔が近付き、あっという間に唇を塞がれた。湿った唇に、自分の熱よりずっと高い体温を感じる。押し付けられる身体は、重くも逞しい。
「い……や! ……お、う……!」
角度を変えて唇をずらされる度にエステルの口から、呼吸と共に拒絶の言葉が吐き出される。
どうにかして逃れようと自由のきく腕で、アレシュの肩を必死に引き離そうとするが、びくともしない。
そのうちにアレシュの手が胸に触れはじめ、エステルは短い悲鳴を上げて身体を固くした。
「まだ男と身体を添わしたことはないようだ、と報告があったけど事実なようだね。――良かった」
安堵のような息を吐かれ、呟かれた言葉にエステルは、顔を真っ赤にするほどに動揺する。
「――なっ……! わ、わるうございました! 行き遅れですから! だから……! こんな女、人から見ればきっと、どこか問題があるのです! 諦めてください!」
顔を赤くして怒りを見せたエステルだったが、アレシュの言葉に、今度は真っ白に顔色を変える。
「エステルに問題など無い。君の結婚を潰したのは僕だから」
0
お気に入りに追加
131
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる