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第4章 事件と運命(原点編)
20-ひざまずく(痛い)
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高貴な人は急に表情を引き締め、声色を変えた。
――はあっ?
彼の目力に射抜かれ、私は腰の痛みに耐えながら寝台から降り、恭しくひざまずいた。その姿勢は予想より楽だったが、もちろん痛みはあった。
初対面の時は王宮における謁見の作法に従い、ガスパールとふたりでそうしようとしたが、「良いから良いから」と公爵令息ランスに止められていた作法だ。
公爵はそのときとは別人のように改まった口調で続ける。
「そなたが我が妹フェリ=ベアトリーチェ・クレイドーレが死の危機に瀕したとき、身をもって救ったことは、まことに大義であった」
私はひざまずいたまま、更に深く頭を下げた。
――痛い。しかし、私に鼻の骨を折られた公爵令嬢はもっと痛かっただろう。
***
あのとき私を突き動かしたのは、初対面のとき公爵令息だったランスの言葉だ。
「妹が王太子殿下と成婚する約束は、臣下の希望では覆せません。たとえば、妹が大病を患ったりして、ふさわしくないと陛下がお思いにならないと、破棄されないでしょう」とランスは言った。
私もそう思った。
ランスは続けて言った。
「そのようなことは望んでいませんが、いっそそうなった方がましと思うこともあります」
だから、私は故意に彼女の顔を傷つけた。彼女の気高さを守るためだ。フェリの価値は、その美しい容貌にあるのではない。その内面の強さと美しさが、初恋の愛しい彼女を私にとってかけがえのない存在にしている。
責任を負うために自分を犠牲にしながら、周りの人に気を配る彼女の心の美しさ。楽しそうに兄の思い出を語りながら、手仕事の工夫を話す彼女の愛らしさ。健やかで美しい内面が、行動ににじみ出ている。
顔の負傷によって、その美しい人が大切な人と共に自由でいられるなら、それで良いのではないだろうか。
外見は儚く移ろう。虐待で傷ついた心の苦しみは、簡単には取り戻せない。
彼女の心には、健やかでいてほしい。
***
「顔を上げよ……しかし、妹は鼻を骨折し、その不運は彼女の顔の中心に残酷な歪みを刻んだ。傷ついた身体では、孕み腹の職務を全うすることも叶わぬ。御子を授かれたとしても、健やかに育めるかも怪しい」
険しい表情だが、口調には少しばかり芝居がかった陶酔が滲んでいた。
「哀れにも、いまや国母には相応しくない傷物。時代の輝ける星である王太子殿下の正妃となる妹の婚約が、我が国の太陽たる国王陛下の尊きご判断で、破棄されること、当然のことと思量する。彼女は王国正教神殿付属の修道院に行くか、臣下への下げ渡しとなる」
公爵は感情を排した笑顔を浮かべる。
「手仕事も得意で、敬虔な妹であれば、修道院でよく仕え、国のためにその道を尽くせよう」
私は「自分は与り知らぬこと」と懸命に考えようとしたが、理不尽さへの憤りで全身から血の気が引いた。絶望に覆われそうな中で、公爵を強い目で見つめた。
すると、ランスは深みのある表情を浮かべた。
――これは臣下を愛しむ君主の笑みだ。
現王がこれに似た表情をするのをパレードのときなどに見かけたが、私にはこの若い高貴なひとの表情がはるかに格上に感じられた。
「もしくは我が妹が将来を嘱望される学者の妻となり、国に尽くすことも可能であろう。そなたは継ぐ爵位がないと聞いている。当家の持つ子爵位を与え、傷物の妹を娶る命を下したいが、どうか」
いつの間にか、部屋にマイケルがいた。温かく励ますような表情で私を見ている。私自身は予想もしなかった展開に、茫然としていた。
「どうか? 答えよ」
高貴な人が厳しく厳かに言っている。
私は必死で答えた。
驚きのあまり、人生でいちばん望んでいることが叶わなくなりそうだったので、慌てた。
「謹んでお受けいたします」
そして、恭しく礼をした。
「腰、大丈夫かい?」と「ランスさん」に戻った公爵が近寄り、助け起こし、寝台の脇にある車椅子へと導いてくれた。
「大丈夫です」
そのとき私には半信半疑なしあわせな気持ちが満ちていて、痛みはどうでも良いと感じていた。
「ランスさんが権力を振りかざすのを見たのは初めてだが、なかなかの迫力だな」とマイケルがからかうように笑った。
ランスは真面目な顔で言った。
「こういう痛々しいほどの茶番の習慣は、間違っています。しかし、いまは清濁を併せ飲まねばならぬとき」
そして、少しためらってから付け加えた。
「それと……マイケルさん、事情の説明をお願いいたします」
***
説明が終わったあと、ランスが確認した。
「そんなわけで、急ぐんだ。すぐ公爵家に来られるかい」
「はい」
マイケルが真新しい手提げ袋を車椅子付属の物入れに入れた。
「診療所に問い合わせて、薬をひととおり揃えてもらった。引っ越しはまた後日。とにかく早く行くといい」
私の車椅子を押しながら、ランスは朗らかに言った。
「では参ろうか。未来の義弟殿」
私の顔は蒼白だった。
――ずっと傷つき続け、耐え続け、ようやく自由になったひと。これ以上傷つくなど許せない。
――はあっ?
彼の目力に射抜かれ、私は腰の痛みに耐えながら寝台から降り、恭しくひざまずいた。その姿勢は予想より楽だったが、もちろん痛みはあった。
初対面の時は王宮における謁見の作法に従い、ガスパールとふたりでそうしようとしたが、「良いから良いから」と公爵令息ランスに止められていた作法だ。
公爵はそのときとは別人のように改まった口調で続ける。
「そなたが我が妹フェリ=ベアトリーチェ・クレイドーレが死の危機に瀕したとき、身をもって救ったことは、まことに大義であった」
私はひざまずいたまま、更に深く頭を下げた。
――痛い。しかし、私に鼻の骨を折られた公爵令嬢はもっと痛かっただろう。
***
あのとき私を突き動かしたのは、初対面のとき公爵令息だったランスの言葉だ。
「妹が王太子殿下と成婚する約束は、臣下の希望では覆せません。たとえば、妹が大病を患ったりして、ふさわしくないと陛下がお思いにならないと、破棄されないでしょう」とランスは言った。
私もそう思った。
ランスは続けて言った。
「そのようなことは望んでいませんが、いっそそうなった方がましと思うこともあります」
だから、私は故意に彼女の顔を傷つけた。彼女の気高さを守るためだ。フェリの価値は、その美しい容貌にあるのではない。その内面の強さと美しさが、初恋の愛しい彼女を私にとってかけがえのない存在にしている。
責任を負うために自分を犠牲にしながら、周りの人に気を配る彼女の心の美しさ。楽しそうに兄の思い出を語りながら、手仕事の工夫を話す彼女の愛らしさ。健やかで美しい内面が、行動ににじみ出ている。
顔の負傷によって、その美しい人が大切な人と共に自由でいられるなら、それで良いのではないだろうか。
外見は儚く移ろう。虐待で傷ついた心の苦しみは、簡単には取り戻せない。
彼女の心には、健やかでいてほしい。
***
「顔を上げよ……しかし、妹は鼻を骨折し、その不運は彼女の顔の中心に残酷な歪みを刻んだ。傷ついた身体では、孕み腹の職務を全うすることも叶わぬ。御子を授かれたとしても、健やかに育めるかも怪しい」
険しい表情だが、口調には少しばかり芝居がかった陶酔が滲んでいた。
「哀れにも、いまや国母には相応しくない傷物。時代の輝ける星である王太子殿下の正妃となる妹の婚約が、我が国の太陽たる国王陛下の尊きご判断で、破棄されること、当然のことと思量する。彼女は王国正教神殿付属の修道院に行くか、臣下への下げ渡しとなる」
公爵は感情を排した笑顔を浮かべる。
「手仕事も得意で、敬虔な妹であれば、修道院でよく仕え、国のためにその道を尽くせよう」
私は「自分は与り知らぬこと」と懸命に考えようとしたが、理不尽さへの憤りで全身から血の気が引いた。絶望に覆われそうな中で、公爵を強い目で見つめた。
すると、ランスは深みのある表情を浮かべた。
――これは臣下を愛しむ君主の笑みだ。
現王がこれに似た表情をするのをパレードのときなどに見かけたが、私にはこの若い高貴なひとの表情がはるかに格上に感じられた。
「もしくは我が妹が将来を嘱望される学者の妻となり、国に尽くすことも可能であろう。そなたは継ぐ爵位がないと聞いている。当家の持つ子爵位を与え、傷物の妹を娶る命を下したいが、どうか」
いつの間にか、部屋にマイケルがいた。温かく励ますような表情で私を見ている。私自身は予想もしなかった展開に、茫然としていた。
「どうか? 答えよ」
高貴な人が厳しく厳かに言っている。
私は必死で答えた。
驚きのあまり、人生でいちばん望んでいることが叶わなくなりそうだったので、慌てた。
「謹んでお受けいたします」
そして、恭しく礼をした。
「腰、大丈夫かい?」と「ランスさん」に戻った公爵が近寄り、助け起こし、寝台の脇にある車椅子へと導いてくれた。
「大丈夫です」
そのとき私には半信半疑なしあわせな気持ちが満ちていて、痛みはどうでも良いと感じていた。
「ランスさんが権力を振りかざすのを見たのは初めてだが、なかなかの迫力だな」とマイケルがからかうように笑った。
ランスは真面目な顔で言った。
「こういう痛々しいほどの茶番の習慣は、間違っています。しかし、いまは清濁を併せ飲まねばならぬとき」
そして、少しためらってから付け加えた。
「それと……マイケルさん、事情の説明をお願いいたします」
***
説明が終わったあと、ランスが確認した。
「そんなわけで、急ぐんだ。すぐ公爵家に来られるかい」
「はい」
マイケルが真新しい手提げ袋を車椅子付属の物入れに入れた。
「診療所に問い合わせて、薬をひととおり揃えてもらった。引っ越しはまた後日。とにかく早く行くといい」
私の車椅子を押しながら、ランスは朗らかに言った。
「では参ろうか。未来の義弟殿」
私の顔は蒼白だった。
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