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第一章 石の手紙

第二話 2 帝都のミルクホールから

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小学校尋常科の頃から常に成績最上位だった美代子は、語学の天才と言われていた。尋常科時代の綴り方、手習いのとき手解きを受けた漢文、女学校の外国語、大学に入ってからは現代から中世の多くの言語を習得しており、劣化してボロボロになった古文書を読み解く技術とセンスは誰よりも優れていた。また、教授に翻訳の手伝いを依頼されたことがきっかけで音楽史に興味を持って、三年生からの専攻に選んでいた。

 しばらく近くで美代子の研究状況を観察していた怪物だった。やがて自分の研究の一部について簡潔に完璧な説明をしたうえで、美代子に読み解きについていくつか助言を求めてきた。非常に興味深い内容で、美代子は自分の時間をやりくりして、時間を作って、じっくり凪見小路と議論した。

 最初、「凪見小路さま」と呼びかけ、やめてくれと言われ、「凪見小路さん」と呼んだ。凪見小路は美代子を「畑中さん」と呼んだ。

 やがてふたりはいつも一緒にいるようになった。公的な研究の時間のみ限定であったが。私的なことはお互い何も知らない。
 
 食べ物はいつも学食の昼A定食(ごはん大盛り)だった。年中無休で費用対効果が良いのだ。朝晩は食べない。研究作業の合間に肩を並べて飲むお茶は寮で水筒に詰めてくる。そこも気が合った。

「この分野の研究に一生を捧げたい」
 
 そう言い切る彼はふだんのヘラヘラした振る舞いの怪物姿が嘘のようだった。
 
 天上人のような鼻持ちならない嫌な奴。

 しかし、専門分野に向ける熱い気持ちと、お互い足りないところを補い合い研究するときの相性の良さはそんな気持ちを忘れさせた。

  ◆───────────────◆
 
 修士・博士課程を修了後、二人の道は分かれた。
 
 美代子は女学校の教員になった。私立の女学校で、美代子の音楽教師としての才能と、外国語力が教師として活かされ、かなり良い給料。非常にありがたかった。
 
 勤勉で可愛い教え子に恵まれた幸せは仕事の喜びだった。一方で、心に灯ったままの研究への情熱に水と泥をかぶせ押しつぶし消すような、雑務としがらみの重圧は美代子を疲弊させた。喜びと重圧、ふたつが日々せめぎ合ううち、いつのまにか美代子は30歳に近づいていた。
 
 せめぎ合いの中でも、研究とそのための訓練は続けていた。捧げると決めたのだから、続ける。
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