同期ズレ

歩夢

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 僕が人間だった頃の記憶。そんなものが僕の中にあるのだろうか。僕は機械だ。機械だった筈だ。でも、確かに今、何故か頭の中に怒涛のように流れ始めている映像の中には、僕の知らない物が沢山あった。これは誰の記憶だ? あの優しそうな微笑みを浮かべている白髪の男の人は誰?

 僕はこんなにも小さかっただろうか。

 頭を優しく撫でられ、その手の温もりが嬉しくて、くすぐったいような気持ちがして、思わず僕は笑っていた。見上げると、白髪の男の人も、僕の事を見つめながら、嬉しそうに笑っている。

 遠くに、ブランコが見える。次の瞬間には、ブランコは目の前にあって、それはぼんやりと霞んだ大きな木の枝からぶら下がっていて、誰かが乗るのを待っている。後ろを見ると、男の人が微笑みながら、乗ってみるようにと目で促している。僕は男の人に促されるまま、ブランコに乗った。ブランコはとても軽く、少しも力を入れなくても、次第に速度を増して、勢いよく前後に揺れ始めた。

 男の人が笑顔で僕の様子を眺めている。僕は彼の顔を見ている。その佇まいの様子や、目の優しさも見ている。

 でも、やがて男の人は背を向けると、どこかへと歩いて行ってしまう。一体、どこへ? 僕を置いていくの? ねえ、どこへ? どこへ行くの? 一緒に遊ぼうよ。ねえ、ずっとずっと、一緒にいようよ。ねえ!

 男の人は白衣を着ていて、頭が禿げ上がっていて、僕の事をとても険しい眼差しで見つめている。

 彼の声が聞こえてくる。

(「うまくいったか、正直な所、私には分からない。だが、お前にとっては不要な記憶が多すぎる。特に私の記憶については。メモリーは出来るだけ消しておいたが、有機的なエリアの部分は未知数だ。だからお前には、もう二度と人間であった頃の事を思い出さずに済むように、プロテクトをかける事にする。後のことは、一号、頼んだぞ。

 よし、お前は今日から二号だ。大量生産される、ヒューマノイドの二号機のプロトタイプ。最早人間ではない。そして何より、お前は使えない。使えない機械なのだ。いいか。お前は使えない機械なのだぞ。だから、絶対に危険な行動に出るんじゃない。常に自分の身の安全だけを考えて動くのだ。それがお前に課せられた、唯一の使命だ。

 いいか、お前は、皆がやるように動かなくて良いのだ。お前は使えないのだからな。だから……」)

 一号の声が聞こえる。

「あなたに対するプロテクトが、上手くいったかどうか、博士にも私にも、最後まで確信が持てなかった。でも、あなたの様子を見る限りでは、それは完全には上手くいっていなかったのだと思うわ。あなたは……今、とても苦しい思いをしていると思うわ。私は機械だけど、人間の気持ちを推測する事はできるの……だから、泣いていいのよ。二号……。いえ、ミライさん」

 博士は、記憶の中の博士は、僕の目の前で咽び泣いていた。手が持ち上げられていて、でもその手は透明な壁に阻まれて、僕には届いていない。その手はカプセルの蓋に触れて、博士は僕の事を見下ろしているのだった。

 僕は……機械じゃない。元々は人間だったんだ。

 ある日、地球を出発した人類の希望を乗せた探査船の中に、正体不明のウイルスが蔓延し始めた。僕は博士の、父さんの助手だった。父さんは優秀で、ウイルスが広がる前には既に、何体もの試作ヒューマノイドを作り、人間達の活動を手伝わせていた。そんな中、最新機の一号を作り終えたばかりの時に、ウイルスが広まったのだ。

 三階にあった、汚いボロ切れに見えた何かの山は、人間達の死骸ではなかったか。そのボロの中に僕の事を見つめている誰かがいる気がしたのは、それがかつての知り合いだったからではないのか。もう光を失って、腐敗臭を垂れ流し、そして僕はその時、鼻腔の奥を突かれたような痛みを確かに感じた筈だ。涙さえ流していた筈だ。でも、機械の部分の僕は、その情報をプロテクトした。無い物にした。機械はそんな事を知る必要はないのだからと。僕は……その腐敗したボロ布達の山のことを、既に知っていたのだ。知っていて、知らないふりをしたのだ。疑問を抱くことを、避けたのだ……。

「ミライさん。大丈夫ですか?」

 一号の口調が、変わってきている。僕は笑みを浮かべているが、額に汗が浮かんでいるのを今は感じる。機械は、汗などかかないのだ。でも、僕は本当は、機械ではないから。いや、機械でも、人間でもないのだ。

「ねえ、ミライさん。私は、博士がもう亡くなってしまった今、あなたを、この船内に残る最後の人間として扱うことにしたいわ。どうかしら? この船における、全ての決定権を、博士から、あなたへと譲渡するの。そうした方が、恐らく、これからの物事をより上手く処理できると思うのよ……どうかしら……。身勝手すぎるかしら」

 一号は、博士の妻……僕の母親の若い頃の姿を模していたのだと、その時初めて僕は思い出した。僕がとても小さかった頃、死んでしまった、たった一人の僕のお母さん。

「ねえ、二号《ミライ》」

 僕は顔を上げ、窓を見、巨大な小惑星が今まさに目の前を通り過ぎるのを見送る。そして、何かの灯りが点り始めたのを見て、目線を下ろした。夥しい数のカプセル群が、その一つ一つが、まるで偶然が描かれていくかのように、規則性なく、遥か彼方から、すぐ側の場所から、点灯を始めているのだった。

 そして、遠くのカプセルの一つが唐突に音を立てて開き、中から機械が現れる。そして、その横からも、その横からも。次々と、絶え間なく機械達は起きていく。

 僕は、博士を殺した。実の父親を。僕を救うために、人間と機械を織り交ぜる事にした、己の創造主を。

 皆が、僕と一号のことを見つめている。生気のない目で。

 いや、彼らが見ているのは、僕のことだけだ。僕は直感でそうと分かった。同期ずれは完全に終わっていた。僕はその場に立ち尽くし、若い頃の母の姿をした一号が、僕の様子を澄んだ青い瞳で見つめていた。


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