同期ずれ

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 僕は出来るだけさりげなく見えるように気を配りながら、覚束ない足取りで階段を降りていった。もう大丈夫だ。博士の口は閉じたのだから。もう言葉が流れ出てしまう心配はない。

 降りていくと、一号が僕らの仲間達の一人が眠っているカプセルの前で、透明な蓋に覆われた容器の中の様子を眺めていた。一号は僕の方に気づいたらしく、一瞬目を上げて僕の顔を見て、それから僕の赤い掌に気づいたようだった。一号は目を見開いていた。

「どうしたの? その手。真っ赤だけど」

 僕は何も問題がないことを示すために、自分の赤く染まった手をわざと目立つように顔の周りで振り回す素振りを見せた。

 それから言った。

「赤い絵の具が机の上にあったみたいなんだけど、気づかずにうっかりそれに触っちゃったんだ。全く、ドジだよね」

 一号はまだ僕の両手をまじまじと凝視していたが、暫くすると少しばかり顔をほころばせて言うのだった。

「よくわからないことをするわね、二号は」

「そうだろう、僕にもよくわからないんだ」

 そう言いながら僕は尚も手を顔の横でバタバタと振り回す。やがて彼女がもういいとでも言うように軽く手を上げたので、僕は手を振り回すのをやめた。彼女は再び容器の中を覗き込んだ。僕は手を下ろして、彼女の様子を見ている。彼女は髪が長く、今は結い留められていない前髪が前に垂れ、容器の蓋にかかっていた。

 不意に彼女が言った。

「おかしいわね。時間になっても誰も起きてこないわ。タイマーはとっくに止まっているのに。ねえ、二号。あなたが起きた時、就寝室に異常はなかった?」

 就寝室というのは、僕ら機械達がカプセルの中で眠るこの場所のことだ。この部屋は搭乗員達のロビーも兼ねているせいもあってか、非常に広く、階段のある入り口を中心にカプセルが同心円状に並んでいる。ここからでは、遠くにあるカプセルの様子までは視認することは難しい。

 僕は予定調和のように首を振り、否定の意思を表した。

 僕の仕草を見て一号はため息を吐いて、仕方なさそうに容器に肘を乗せ、突いた手の上に顎を乗せた。どこか疲れているように見える。

 一号は途方に暮れたような遠くを見ているような目で、斜め上の辺りを眺めていた。そこには多分何もないというのに。一号はよく考え事をする時に、こういう顔をした。

 僕も彼女の方に近づいて、容器の中を一緒に覗き込んでみる。

 起きてこない仲間の顔は、真っ白で、目は完全に閉じられ、綺麗な一文字になっていた。まつ毛はなく、鼻は小さく、目立たない。皆、同じ顔だ。多分僕もこういう顔をしていると思う。一号だけが、髪の毛があり、肌の色に温かな色合いがあり、唇に紅のような深い赤色が塗られていた。声も僕たちや彼らとは違う。生きているみたいなハスキーな声を出す。博士がよく褒めていた声だった。その時も博士は年甲斐のない欲情した様子を見せていた。僕ら仲間はその様子に気づいていないふりをしていたけど。

 彼女は斜め上を暫く眺めていたが、やがて目を下ろして、僕と一緒に再び容器を眺め出した。そうしているのが気配で分かった。彼女が僕の手のひらを凝視しているのも。彼女は一度口を開きかけたが、やめた。僕は容器に手を触れ、容器に赤い博士の血が付いた。

 彼女が僕のことを見ながら、笑いかけるような表情で言った。

「それ、洗ってきた方がいいわね」

「そうした方が良さそうだね」

 僕は容器から離れ、入り口に戻り、階段を登っていった。洗浄室が三階の突き当たりにある。僕はそこへ向かった。

 洗浄室は、人間が使う為のものだ。大きな全身を洗うタイプの物と、手や足だけを洗うタイプがある。後者は高圧洗浄機ではなく、単なる蛇口が付いているだけのものも多い。人間は洗剤を使わない。洗剤は分解が難しく、宇宙船では合理的ではない為だ。

 蛇口はセンサーが稼働していて、手をかざすだけで水が出てくる。僕はかつて見た人間達がそうしていたのを思い出し、自分の博士の血で汚れた手を蛇口の前にかざした。水が迸り、僕の手の血は清潔な水で綺麗に洗い流された。もう、博士の血は手の中に残ってはいない。

 僕は、既に一仕事を終えた気分になっていた。水滴が煌めいている自分の両の手を見つめ、僕はもう誰にも縛られていない存在であることを強く自覚した。手のひらから落ちていく水滴が、そのことを証明しているような気がする。僕は人間がよくそうしていたように、手を服に擦り付けるような動作をして、その場を後にした。洗浄室にはとても大きな布の塊があり、それらは積み上がって黄土色に膨らみ、異臭を放っているような気がする。そしてその中から、何か訳のわからない物が僕のことを見つめているような気もする。でも、それはきっと気のせいだ。それはもう既に、存在の意味を失っているのだから。僕は三階に背を向け、階段を降りていった。

 一号は長い髪をなびかせながら、仲間達が眠るカプセルを一つ一つ見て回っているようだった。人間のように腕を組んで、時折首を傾げながら、何か少しでも変化があれば気付けるようにと、その特徴的な青色の瞳を大きく見開いているのが見えた。僕が階段を降りていくと、彼女は顔を上げて僕を見た。

「あら、早かったわね。使い方、分かったの?」

 僕は人間のように肩をすくめて答えた。「何とかね。ほら、もう綺麗に元通り」

 彼女は僕の言葉を聞くと、表情を曇らせた。そして、投げやりにも聞こえる口調で、呟くように言った。「元通りになんて、ならないのよ。絶対に」

「それは、どういう意味?」

 僕は人間の真似をして小首を傾げて彼女に問いかける。彼女はカプセルの脇から離れると、何故か僕の方へと近づいてくる。階段の前で人間のように突っ立っている、僕の前へと。

「つまりね、二号」

 彼女の呼吸が僕には感じられる気がした。機械は呼吸などしないのに。彼女の華奢な薄い胸板が僅かに上下して、意味の無いはずの空気がそこから通っているような気がした。見間違いに違いないのに。

「博士はね、殺されたの。誰かの手によってね」

 自動操縦が始まったのか、船が大きく揺れ、小刻みに震えるような音が聞こえ始めた。僕の視線の先にある窓の暗闇の先に、小惑星群の煌めきが見えた気がした。


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