崩れた白き盤面

歩夢

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一日目

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 死期を悟る、とはどういう時のことを言うのだろう。目の前にギロチンが鈍い光を放ちながら舌なめずりをしている時か、鎖に繋がれた野犬達が唾を飛ばしながらこちらを睨みつけている時か、一つ一つ、駒を動かしていく時に、少しずつ動いていく階段状の床を見る時か。その足の振動を感じている時か。いずれにしても私は、今目の前に座り、同じように床を上下させている人間に、負けるわけにはいかないのだ。私の中の石碑に負けるという文字が記されるわけにはいかないのだ。

「よう、嬢ちゃん。結構いい筋してんじゃねえか。こっちはもう大分グロッキーだぜ」

 要のZ7の駒をしっかりと取られた後の私に、目の前の怪物のような人間はそう言う。私は無視してただ差し続ける。形勢は悪くとも。

 呼吸を再開しようと、一手差したところで席にもたれかかった時、唐突に周囲の物音が耳に入り込んできた。再び世界が囀りを再開したかのように、わんわんと唸るその場所は、地獄を少しばかりナーバスに、そして小型化に成功したもののように見えた。

 どの人間も、外界から差し込んでくる無垢なる白い光を背に受けながら、粗末な身なりでジョッキを持っている。口に手を添えて声援を送る者、ジョッキをがぶ飲みする者、私のことを眼に焼き付けるかの如く血走った目で見つめる者、そして……野獣を応援する者達。

「さっさと殺してひんむいちまえ!」

「王女様の裸が見てえなあ。きっと綺麗な桃色だぜえ。あそこはどんな色をしてるかなあ。なあ、ヤルシン親方、やっちまえ!」

「うるせえよ、お前達」

 蝿を払うような仕草で後ろの汚いギャラリー達を少しばかり静かにさせた後、ヤルシンと名乗る目の前の男ーーまるで筋骨隆々な人間の肉体の上にそのままライオンの頭を引っ付けたような、そんな人間離れした風貌をしている。握手をした時、私の腕は巨人に握られた一輪の花のように、一気に萎んでしまいそうになった。

「俺が有利なのは見るまでもなく分かってるよな、お嬢様」

 ライオンの後ろの床が競り上がり、彼の体もやがて昇っていく。局面が変化し、盤が上下する。私は食らいつき、だが淡々と差していく。この上下する床が、私達『プレイヤ』達の戦況を観客達に伝えているのだ。それ以上に、優位な側が物理的にも優位な位置を取る事で、相手のプレイヤに更なる威圧感を与えることも計算に入っている。

「私はまだ、負けるとは一言も言っていないんだけど」

 私の一手で、私の床が迫り上がり、ライオンの姿のヤルシンがうめき声を上げる。

 トントン、と私の一手を差して、やるな嬢ちゃん、と言った後、ヤルシンは盤横の湾曲型の水差しをひっくり返し、「休憩!」と叫んだ。二時間半に及ぶ一局目の、最初の休憩だった。これが三日間続く。どちらかが降参しなければ。

「ヤルシン、あなたが先に休憩を取るということは」

 彼が大きな鬣(たてがみ)を靡かせながら悠然と振り返ると、一瞬水が滴り落ちる水差しの方をチラッと見た後、私の顔を真っ直ぐに見据えてきた。野獣の目だ、と私は思った。

 私は両手をコミカルに上に広げながら言った。

「私の勝利が一歩近づいたってこと。分かるわよね?」

 ふん、と大きな鼻息を漏らすと、ヤルシンーーライオンは振り返り、ズッカズッカと大きな足音を立てながら彼を待つギャラリーの元へと帰っていった。

 彼が去って行った後、私は迫り上がった盤上の席に、大きく息を吐きながらもたれかかった。何も思わず、呼吸だけを感じる。呼吸と、感覚とを。遥か頭上には器用に敷き詰められた砂と土のレンガがあり、そこからパラパラと細かな砂の粒が落ちてきている。この場所が乾いていなかったことなど、建設されてから一度もないのだろう。

 手のひらに触れる砂の感触に指を這わせていると、階下から耳馴染みのある甲高い声が聞こえてきた。執事のゼニファーだ。

「お嬢様! 早く、そんなところから降りてきてくださいまし! 私は危なくってもう見てられません!」

 私は遥か下を見下げながら、今行くよ、とだけ言った。それから再び背を椅子にもたせかけ、もう一度あの美しい尖塔の裏側を眺めやった。

 梯子が架けられており、そこから降りていくことも出来たが、私はそのまま三階席の先端へと降り立った。ここにはまだ落ち着いて酒と会話を交わしている少しばかり上等な人間達がいて、私のことを物珍しそうな目で見つめてきていた。

 すぐに聞き知った足音が聞こえてきて、私の華奢な両肩が強く握り締められた。

「よくぞ……よくぞご無事で。あのヤルシン相手に」

 私は彼女の手を払いのけながら言った。

「ゼニファー……。私を誰だと思っている? カナン王国の第九王女、セシル・ロウドフェルトだぞ?」

「いくらお嬢様と言っても、相手は無敗を誇るあのヤルシン。お嬢様が敵う相手ではありません!」

 私は三階席から身を乗り出し、迫り上がった盤上を上から階下まで見下ろした。「いくら私でも、か……強さとは何か、分かっていないな、ゼニファー」

「お嬢様!」

 分かった、分かったよ、私はそう言いながら手をふらふらと振り、降参の仕草をした。

「まったく、もう……」

 そう言いながら先に階段に降りて行こうとするゼニファーの肩には、紫色のアザがあった。私が賭けているのは、私の命だけではない。彼女の命ーー体も含めた命がーー賭けられているのだ。制服の、そこだけを破られて強く掴まれた跡のある彼女の肩に、私は優しく手を添えた。

「他には何もされてない?」

「ええ……王女様」

 彼女の手は顔の前で組まれ、細かく震えていた。私はその震えを見ていた。そして二人で、寄り添うように塔を降りていった。


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