瞼が閉じる前に

歩夢

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予兆

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 映像には一人の男が映っていた。

 まるでショーだ、と僕は思った。

 僕等のいるマンションの屋上で、様々な角度から強烈なライトを当てられて、一人の男が柵のない屋上の縁の上で立っている。

 ヘリコプターの飛ぶような音がしないから、恐らく音を出さないタイプの乗り物があるのだろう。

 これもその乗り物からのカメラ映像で、男はびっしょりと汗をかき、まるで風呂から出たばかりのように、服を濡らしている。男は寝巻き姿だった。

 男は映像の中で、何かをしきりに叫んでいる。

 映像からは音声は聞こえない。淡々とした口調で、リポーターのような事をしている女性の説明だけが続く。

 女性の声はこう続けている。

「今しも屋上から飛び降りようとしているこの男、帳倶楽部から脱走を企てた疑いが強く持たれており、警吏部が訪問し聞き出そうとした所、屋上に逃げ出したとのことです。
……これより衝撃的な映像が流れる可能性がある為、視聴者の方々はご注意を願います」

「衝撃的な映像、か」

 僕が呟くと、妻が驚いたように僕を見つめた。

 僕はもたれていたソファから降り、テレビに近付き、膝をついた。

 大きくなった画面の中で、男は懸命に誰かに、何かを訴えかけようとしているのだが、肝心の部分が全く聞こえてこない。まるで掻き消されているかのようだった。

 男は汗まみれのびしょびしょの体で、こちらに背中を向けていたが、突然画面が切り替わり、男が正面を向けている角度からの映像が流れ始めた。

 映像。

 映像が……。

 僕は知らず唾を飲み込んでいた。

 男は僕等視聴者と、そして恐らくはいるのだろう、あの訪ねてきた暗色のスーツを着た男達に向けてか、最後に何か、言葉を発したような気がする。

 相変わらず声は聞こえなかったが、男は何かを、僕等に伝えようとしていた。

 それが何なのか聞こえないのが、口惜しかった。

 さよならなのか、恨みの言葉なのか、それとも特定の個人に向けての言葉なのか、僕には分からない。

 分からないが、ただ僕は、無性に悲しかった。

 悲しみに打ちのめされてしまっている自分を見つけて、僕はさらに悲しくなってしまった。

 男は、最期はこちらに背を向けて、勢い良く跳び、そして、映像は途切れてしまった。

 歓声のような声が下から上がり、僕等は二人で、沈黙していた。

 真っ暗になった映像に、字幕が流れ始める。

『辛い現実は無事去り、平穏な日常が戻ってまいりました。皆様、お付き合い頂き、誠に有難うございます』

 僕はテレビから離れ、水を飲みに、台所のシンクへと向かう。

 蛇口を捻ると、清澄な水が弛まず流れ出てくる。

 僕は頭を水の下に入れ、静かに泣いた。

 誰の為でもなく、自分の為だけに。 


 脱走の噂話は、白い紙に墨汁が広がるように、酷く性急に広まっているような気がする。

 最近の話題は、どこどこの誰々が捕まり拷問を受けているだとか、もし拷問にかけられたら掌の上に血判が押されるだとか、はたまた焼きごてで足を焼かれ、足裏に小さな印を付けられるだとか、些細な物から巨大な規模の物まで噂は幅広く、呪いのように街中を覆い尽くしていった。

 僕は振り返ってみて思う。僕は馬鹿だったのだな、と。

 僕が嫌っていたあの世界が、何故あそこまで綺麗で、美しかったのか、その理由を僕は全く考えようとも想像しようともしなかったのだな、と。

 僕は暗い路地裏で、酒を飲み、吐いていた。


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