瞼が閉じる前に

歩夢

文字の大きさ
上 下
11 / 15
帳倶楽部

しおりを挟む


 僕は点火士の仕事をやめた。

 非常にあっさりとした手続きで、僕はもう火をつけて回る必要がなくなってしまった、ただの男になった。


 通りを歩くと、今でも花火の音が聞こえてくるし、それは確かに耳障りな音だった。

 どこまでいっても、暗闇で、偽物で、僕は誰かに嘘をつかれ続けているような感じがする。

 歩いていると、自分がつけて回っていたガス灯の灯りと対面せずにはいられなかった。

 彼等は常に偽物の世界の中で、唯一本物のような灯りを灯し続けているようだったが、僕にはもうどうでも良いことのように思えた。既に職業をやめ、何もする必要のなくなった僕は、暗闇の中、完全に匿名の存在だった。

 目の前にリサさんがいた。トミーがいた。例のあの男がいた。

 三人とも目が虚ろで、いや、あの蒼い瞳の男だけが澄んだ目をしている。猛禽類のような残酷で剽悍な目つきを。

 男が二人に手渡したのは、あの拷問の本で、二人はその本を快く受け取り、それから徐に食べ始めた。

 食べれば食べるほど埃を舞い散らせるその本を、二人は嬉しそうに食べ続け、やがて本は骨と皮だけになってしまって、僕は思わず叫んだ。

 やめるんだ!

 何が? と、口から鮮血を滴らせる二人に問われている気がして、僕は行き場を失ったように、酷く戸惑う。

 僕は軽く息を吸って、それから目を覚ました。

 尋常ではない汗をかいている事を悟って、僕は、枕元の時計を掴み、灯りをつけ、時刻を確認する。

 深夜零時。何もする気が起こらないし、ある者たちは大いに活動を楽しむ時刻だ。

 僕は昨日、妻に言われた事を思い出す。

 トミーが脱走の疑いで捕まった、と。

 僕は妻に問い返した。それで? トミーは、大丈夫なのかい? と。

 妻は首を振って答えた。

 分からないわ。でも多分、悪いようにはされないんじゃないかって、そんな話を近所の人と話してたわ。何だか物騒だし、点火士の仕事、やめてよかったかもしれないわね。

 僕はその時、もう少しで叫び出してしまいそうな気持ちを、喉元の所で押さえていた。

 僕は努めて平静を装いながら、それでも、背中に滲み始めた冷たい汗は疑いようはなく、僕は疲れて、ソファに腰を下ろした。

 妻は僕が点火士の仕事と、同僚の不幸に疲れてしまったのだと思って、慰めてくれた。

 水を持ってきて、僕に差し出してくれた。

 そう。昨日妻にもらったコップを、僕はまだ飲まずに、枕元に置いている。

 僕は立ち上がり、のろのろとした動作で部屋を横切りながら、これからどうするべきなのかを考えていた。

 どうするもこうするも、ないのだが、と、独りごちる。

 洗面所の中の、小さな扉を開けて、例の薬を手に取る。

 一錠出し、妻から貰ったコップの水で、喉の奥に流し込んだ。

 僕は扉を閉め、シンクの淵に手をついて、泣き始めた。

 寝ている妻に聞かれないように、声を殺して、唇を噛み締め、とめどなく溢れ出る涙だけを、静かに流していった。

 僕が当時、知っていた事実は、この国が夜に包まれている事、そして、働く必要がないという事、そして最後に、一度入ったものは、特別な許可なしには出る事が出来ないという事の、三つだった。

 何故帳倶楽部と呼ばれるのか、今の僕には分かる気がした。

 この国は一度入ってきた者を、原則として、二度と陽の当たる場所に戻す事は考えてはいない。

 この国の、最も中心に近い所にあるという中央政府は、監視するためのサーチライトを周囲に張り巡らせ、常に警戒を怠る事がない。

 トミーは恐らく、監獄棟と化しているその中に入れられている事だろう。

 映像では時々、惨たらしい拷問の映像が流れ出ることがあるが、それももしかしたら、実際にある、作り物でない、事実を載せているだけなのかもしれなかった。

 僕は激情と涙の流れが収まってきたのを感じ取って、荒く息をしながら、シンクの淵から離れた。

 僕が何をしなければいけないのか、今なら分かる気がする。

 僕は不思議と晴れ渡ったような意識を抱えながら、寝ている妻の隣に戻り、点火士のつけていった青白い光が照らす街の景色を、窓から見た。

 その景色の中では、静寂の空気と、人知れぬ興奮の気配と、死と生の境目とが、折り重なって、巨大な沈黙の海の中に沈んでいる気がした。

 僕は窓を覆っていた分厚いカーテンを引き直し、寝具に身を投げ、ひと時、天井を見つめ、それから、ゆっくりと瞼を落としていった。

 偽物の夜の内側で、僕は静かに、本物の夜と、陽の明かりを想像しながら、眠りの底に沈んでいった。

 陽の光がもう二度と、僕の事を照らし出してくれる事がないかのように、感じていながら。

 傍で誰かが、僕の為の明かりをつけてくれたような、そんな気がした。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

死んだ一人の少女と死んだ一人の少年は幸せを知る。

タユタ
SF
これは私が中学生の頃、初めて書いた小説なので日本語もおかしければ内容もよく分からない所が多く至らない点ばかりですが、どうぞ読んでみてください。あなたの考えに少しでもアイデアを足せますように。

イロガミ

牧屋 冬士
SF
あなたの好きな「色」は何ですか? SFとファンタジーが融合する物語。 【短編】 今よりわずかに先の未来。保育園に通う子供たちの遊びの環境は「PA」によって、今よりも少しだけ進歩していた。 しかしそれに代わってある「物」を失っていた事に、気づく者はいなかった。 これは不思議な玩具をめぐる、未来の物語。 SF要素が少しあります。お子様が主人公の短編です。

銀河英雄戦艦アトランテスノヴァ

マサノブ
SF
日本が地球の盟主となった世界に 宇宙から強力な侵略者が攻めてきた、 此は一隻の宇宙戦艦がやがて銀河の英雄戦艦と 呼ばれる迄の奇跡の物語である。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

【BIO DEFENSE】 ~終わった世界に作られる都市~

こばん
SF
世界は唐突に終わりを告げる。それはある日突然現れて、平和な日常を過ごす人々に襲い掛かった。それは醜悪な様相に異臭を放ちながら、かつての日常に我が物顔で居座った。 人から人に感染し、感染した人はまだ感染していない人に襲い掛かり、恐るべき加速度で被害は広がって行く。 それに対抗する術は、今は無い。 平和な日常があっという間に非日常の世界に変わり、残った人々は集い、四国でいくつかの都市を形成して反攻の糸口と感染のルーツを探る。 しかしそれに対してか感染者も進化して困難な状況に拍車をかけてくる。 さらにそんな状態のなかでも、権益を求め人の足元をすくうため画策する者、理性をなくし欲望のままに動く者、この状況を利用すらして己の利益のみを求めて動く者らが牙をむき出しにしていきパニックは混迷を極める。 普通の高校生であったカナタもパニックに巻き込まれ、都市の一つに避難した。その都市の守備隊に仲間達と共に入り、第十一番隊として活動していく。様々な人と出会い、別れを繰り返しながら、感染者や都市外の略奪者などと戦い、都市同士の思惑に巻き込まれたりしながら日々を過ごしていた。 そして、やがて一つの真実に辿り着く。 それは大きな選択を迫られるものだった。 bio defence ※物語に出て来るすべての人名及び地名などの固有名詞はすべてフィクションです。作者の頭の中だけに存在するものであり、特定の人物や場所に対して何らかの意味合いを持たせたものではありません。

【おんJ】 彡(゚)(゚)ファッ!?ワイが天下分け目の関ヶ原の戦いに!?

俊也
SF
これまた、かつて私がおーぷん2ちゃんねるに載せ、ご好評頂きました戦国架空戦記SSです。 この他、 「新訳 零戦戦記」 「総統戦記」もよろしくお願いします。

愚者による愚行と愚策の結果……《完結》

アーエル
ファンタジー
その愚者は無知だった。 それが転落の始まり……ではなかった。 本当の愚者は誰だったのか。 誰を相手にしていたのか。 後悔は……してもし足りない。 全13話 ‪☆他社でも公開します

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?

おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました! 皆様ありがとうございます。 「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」 眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。 「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」 ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。 ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視 上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

処理中です...