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帳倶楽部
◇
しおりを挟む街は僕の事を威嚇的に拒絶しているように思えた。
青白い街灯は僕を盗み見る猛獣の瞳のように見えたし、大きなショッピングモールは僕の為の処刑台を隠しているような感じさえした。
僕は一つ息を吐くと、慎重に辺りを伺いながら、知らぬ街を歩き始める。
道路一つ、歩道一つ歩くたびに、誰か他の点火士たちが点けていったガス灯が僕を淡く照らし出す。
すれ違う歩行者の顔は殆ど思考の中に入らず、意識は一つ、自分の頭の中にある目的地のことだけだった。
僕が一番楽しみにしている、そう、この国の中で唯一と言ってもいい癒しの空間。そんな陳腐な言い回しが気にならない程に似合うと感じるのが、一軒の古ぼけた民家の中にある。僕は自分で勝手に、その一軒の店は、客は自分だけだと思っていた。
だが、そんな事は妄想に過ぎないと悟らされた。
不気味にも感じられる路地を曲がると、店の前に大きく迫り出したワゴンの前に、一人の男が立っていて、人の気配を感じたのか、ワゴンから目を離し、ちらりと僕の方を見た。
蒼い瞳。スカイブルーの瞳だった。印象的で、そこらを照らし出す青白色のガス灯の光とは違う、生気を持った、自然の力を感じさせる強い色合いだった。
僕は一瞬目を合わせただけで、すぐに逸らし、俯きがちにワゴンのあたりまで近付き、男には意識の中で関わらないよう努めながら、ワゴンの中身を目で滑らすように改めていった。
ワゴンには安物の古本が所狭しと並べられている。もう季節を幾つも過ぎ、多くの人間達の思考や意識、そして何よりも歴史の記憶から殆ど抹消されているような、数多くの作家の魂達だった。
書籍に置かれている場所は関係がないと僕は思っていた。僕に取ってはワゴンであろうと便座の上であろうと、大統領の椅子の上であろうと、どれもが本にとっての自然な置き場所に思えた。場所が本を置くのではなく、本が場所を置かれるべき場所にするのだと、僕は一人で信じていた。
僕は傍の碧眼の男を意識しないようにして、ワゴンの中で蠢いている作家達の魂の一つを手に取る。埃が当然のように薄く表紙の上に膜を張っていて、触れると埃とカバーのざらつきと滑らかさが指の腹に感じられた。
僕が来たのは、この街、いや、もしかしたら国の中に一つしかないのかもしれない、古ぼけた外見の本屋だった。
本屋、と言うだけで、僕は涙が出るのを抑えなければならなくなるほど、思考が解放される気がして、心が動いてしまう。外にいた頃は全く感じる事がなかったこの奇妙な感覚、感情を、恐らく妻ならば、軽く病気だと一蹴してしまう事だろう。
僕は指の腹で愛おしく思いながら手に取った本を撫で、表紙を見てみる。
『帳倶楽部の歴史』
僕はぞっとして、本を落としてしまった。
傍の男が僕の落とした本を拾い上げ、埃を払いながら、僕に蒼い瞳を向け、言ってきた。
「本、お好きなんですか」
僕は束の間、何も答える事ができず、男の蒼い瞳と、『帳倶楽部の歴史』と書かれた古ぼけた顔の本を、交互に見た。
男は僕が本を受け取るまで、そんな僕の様子を淡々と見つめている。
「すみません」
僕は取り繕い、男からひったくるように本を受け取り、ワゴンの中に乱雑に戻した。 その動きに本に対する敬意も優しさもなく、僕はただ一刻も早くこの汚物から手を離したくてしようがなかった。
本はワゴンの中に戻ったというのに、まだ掌の中にあるような、奇妙な薄気味悪さを感じていた。
「……本屋は、この辺りにはないでしょう。珍しいと思いませんか」
男が古ぼけた店の軒を見上げならそう言うので、僕も反射的に、ああ、と答えた。
「……僕の住んでる辺りにも、ない。職業柄、色んな街に行く機会がありますが、こんな店は、見たことがありませんね……」
「そうですか」
男はそれから何も言わず、じっとワゴンの中身を見つめたかと思うと、急に僕の方を向いて、独り言のように言った。
「……点火士ですか?」
僕は驚いて聞き返した。
「どうして?」
男は微笑み、取り繕うように大袈裟に頭を掻きながら、申し訳なさげに言った。
「いや、すみません。こちらも、職業柄と言いますか。少し見ると、その人がどんなお仕事をされているのか、なんとなく分かってしまうんですよ……。分かってしまったからには、確認しないと気が済まない性質でしてね。
……合ってましたか?」
僕は一拍置いてから、答える。何故か、大量の汗が掌に滲んでいる。
僕は掌の汗を、制服の上に着込んでいるコートで拭いた。
「……ええ、合ってますよ。僕は点火士です。よくわかりましたね」
すると男は肩をすくめて、なんでもないように言い切った。
「……まあ、コートの端から点火士の制服の生地が見えたなんて、洞察とも言えないような児戯ですがね。……もしも同僚と話をすることがなっても、黙っていてくれると幸いです。恥ずかしいので」
僕は自分の姿を改めて思い浮かべているが、僕は家を出る前に、必ず念入りに服装の確認をする。自分が往来で点火士と思われないようにする為だ。
点火士という職業は、別段他の職業と比較して異端視されるような要素は持ってはいない筈だが、僕は何故だか、自分が点火士である事を、知られたくなかった。
何故かは分からない。個人的な拘りと言ってしまえばそれまでかもしれなかったが、僕はそれでも、外に出る前には必ず、自分が一見して点火士と見えないように気を配っているのだ。
なのにこの男は、一目で僕の仕事を見抜いた。
何となく薄寒いような気配が、背中に起こり、嫌な汗が滲み始めている。
僕は男のその特徴的な蒼い瞳から目を離せなくなっていると、男が言った。
「じゃあ、中に入りましょうか。……私も、本、好きなんですよ」
そう言うと男は、先程僕がワゴンの中に戻した、『帳倶楽部の歴史』の背表紙を、そっと撫でていった。
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