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帳倶楽部
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◇
全き夜がこの限られた世界を塗りつぶしている。
小さな部屋の一室で、妻と僕とが一つのベッドで眠っている。
僕は落ち着かない気分で目を覚まし、傍の目覚まし時計に触れ、画面を点灯させ、時刻を確認する。
午前零時。多くの生き物が活動を停止し、反対に多くの生き物が新たに生じ、活動を始める時刻。
傍で眠る妻は、平穏な表情で涎を垂らしてさえいる。
僕は一つため息をついて、ベッドから降りる。
スリッパを履き、真っ暗な部屋の中を横切り、台所に向かう。
青い灯りがカーテン越しに家の中に入ってきている。その光は闇の中ではあまりにも強く大きく、家の中を細部までくっきりと映し出してしまっている。
僕はシンクの淵に手をかけて、水道の蛇口を捻る。
濾過された綺麗な水が、清浄な美しさを伴って流れ落ちてくる。僕はその一部を片手で掬い、徐に顔に塗りたくった。
……冷たい。冷たかった。それはまさしく僕がまだ、生きている証と言えた。
僕の頬から少しずつ透明な冷たい雫が降りているのが分かり、それがどうということでもない事も承知している。
僕が毎日この国の中で繰り返している、平穏そのものの日常生活と同じように、何事もなく、正常だ。
ふと、窓の外から大きな音が聞こえてくる。
パトカーのサイレンの音だ。それも複数の。
けたたましく深夜零時の街の中を轟音で切り裂きながら、あの白い車は何者かを捉えようと走り抜ける。
その意思に疑いはなく、行動の中に迷いを感じさせる余地など微塵もなかった。
徐々に音が遠ざかっていく。と、思っていたら、やがてサイレンは突如として鳴り止んだ。
例の誰かは無事捉えられ、恐らくは今日は留置所で朝を迎えることになるのだろう。
陽の登らない朝を、時計が示す時間だけを頼りに、確認して。
巨大なドームに覆われた、『帳倶楽部』では、朝陽が登ることはない。
太陽の光は、とうの昔に、夢の中の産物と化してしまった。
僕は蛇口を捻り、出しっぱなしになっていた水を止め、洗面所に向かう。
部屋の奥で眠る妻の姿を確認して、洗面所に入り、棚の一部を開け、それを取り出した。
これに頼らなければ眠れない日が、本当に多くなってきた。
僕は黙って錠剤を呑み、舌の上で溶かした。
するとまどろみが突如として訪れ、目の前の退屈で陰鬱な現実から自分を突き放してくれた。
よろけながら部屋を横切り、妻の傍らに戻る。
ベッドに仰向けになり、瞼の上に手を乗せ、眠った。
遠くでまた、サイレンが鳴っているのが聞こえてきた。
全き夜がこの限られた世界を塗りつぶしている。
小さな部屋の一室で、妻と僕とが一つのベッドで眠っている。
僕は落ち着かない気分で目を覚まし、傍の目覚まし時計に触れ、画面を点灯させ、時刻を確認する。
午前零時。多くの生き物が活動を停止し、反対に多くの生き物が新たに生じ、活動を始める時刻。
傍で眠る妻は、平穏な表情で涎を垂らしてさえいる。
僕は一つため息をついて、ベッドから降りる。
スリッパを履き、真っ暗な部屋の中を横切り、台所に向かう。
青い灯りがカーテン越しに家の中に入ってきている。その光は闇の中ではあまりにも強く大きく、家の中を細部までくっきりと映し出してしまっている。
僕はシンクの淵に手をかけて、水道の蛇口を捻る。
濾過された綺麗な水が、清浄な美しさを伴って流れ落ちてくる。僕はその一部を片手で掬い、徐に顔に塗りたくった。
……冷たい。冷たかった。それはまさしく僕がまだ、生きている証と言えた。
僕の頬から少しずつ透明な冷たい雫が降りているのが分かり、それがどうということでもない事も承知している。
僕が毎日この国の中で繰り返している、平穏そのものの日常生活と同じように、何事もなく、正常だ。
ふと、窓の外から大きな音が聞こえてくる。
パトカーのサイレンの音だ。それも複数の。
けたたましく深夜零時の街の中を轟音で切り裂きながら、あの白い車は何者かを捉えようと走り抜ける。
その意思に疑いはなく、行動の中に迷いを感じさせる余地など微塵もなかった。
徐々に音が遠ざかっていく。と、思っていたら、やがてサイレンは突如として鳴り止んだ。
例の誰かは無事捉えられ、恐らくは今日は留置所で朝を迎えることになるのだろう。
陽の登らない朝を、時計が示す時間だけを頼りに、確認して。
巨大なドームに覆われた、『帳倶楽部』では、朝陽が登ることはない。
太陽の光は、とうの昔に、夢の中の産物と化してしまった。
僕は蛇口を捻り、出しっぱなしになっていた水を止め、洗面所に向かう。
部屋の奥で眠る妻の姿を確認して、洗面所に入り、棚の一部を開け、それを取り出した。
これに頼らなければ眠れない日が、本当に多くなってきた。
僕は黙って錠剤を呑み、舌の上で溶かした。
するとまどろみが突如として訪れ、目の前の退屈で陰鬱な現実から自分を突き放してくれた。
よろけながら部屋を横切り、妻の傍らに戻る。
ベッドに仰向けになり、瞼の上に手を乗せ、眠った。
遠くでまた、サイレンが鳴っているのが聞こえてきた。
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