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しおりを挟む今月は僕が案山子だった。そしてそれは永遠に続くものかもしれない。それは屹度状況によるだろう。
月に一度、日替わりに、抽選で案山子に選ばれたものは、全生徒、全教師の頭髪を燃やした髪で作ったウィッグを被り、ゴミ置き場に長い時間放置しておいた腐臭のするボロ布を着て、校門に立ち、学校に危害を加える者を中に入れないよう警備をする。月が変わるまで、毎日昼夜のべつなく立ち続ける。
校門前にはボランティアの保護者が用意してくれた食べ物や、生徒・教師達の昼食の食べ残しが置かれ、その月はそれを食べて凌ぐ。排便は外の手洗い所で数分で済ます。
今日は自分の担当になって数日が経過した頃で、そろそろボロ布の腐臭が体に染み付いてきた頃合いだった。
校門の辺りは昨日降り続けていた雨でだらしなく湿っている。僕は無表情に立ち尽くし、臭い姿を世界に向かって晒しながら、その時を待っていた。
一人の男が、校門付近に現れて、息を荒くしてこちらを見ていた。
だらしなく垂れた舌からは際限なく涎が滴り落ち、どう考えても関わるべきでない人種の姿である事は明白だった。
その男が、横断歩道の向こう側から、食い入るような目でこちらの事を見つめている。
来たか、と僕は遂に思った。表情には出さずとも、胸の内側、心の一部分だけがキュッと締まったのを感じた。
信号が青になり、視線を全く逸らさない男は、暫く経ってからゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。緩慢な足取りだった。動くエスカレータを逆走したとしたら、決して目的地には辿り着けないだろう歩速だった。
何が来るだろう、と、その時僕はとても冷静に頭の中で考えていた。いや、胸の内で、と言ってもいいかもしれない。
僕は何かを期待しているようだった。この状況を壊す? 破壊してどこか別の世界へと連れ出してくれる? 解放してくれる? 何が? そして何よりも、どうして? 何の為にか。
僕は久々の溜息を吐いて、緩慢な足取りを続けている男を改めてよく見た。
自分ほどではないが、何日も洗っていないような皺だらけの鼠色のシャツに、何故か7分丈の草色の皺皺のズボンを履いて、ガニ股で歩いてくる。何だか奇妙に魅力を感じさせる雰囲気を持っていて、僕の内側が何故だか疼いた気がした。口角がひくついたのを感じて、慌てて元に戻した。
そして気付いたのだが、この男、僕の事を見ていると思っていたが、実際そうではない。僕の後ろの景色を見つめている。
僕の事を透かして、学校の方を一心に見つめているのだ。
それはそうか、と僕は何故か少し落胆した気持ちになりながら、男の事を見つめ続けている。そして男が右手に不動の力で持っている銀色の刃物を見る。
小さく、雑草を刈るために使われる鎌だった。刃の表面は白い染みのような跡がこびり付いていて綺麗ではないが、対照的に切り裂き部分は今朝の鈍色の空のように鋭く光り、明らかに見る者を威圧していた。
ひたすらにおっかない生き物だが、今現在案山子である僕は、決してその存在から目を背けてはならない。それどころか立ち向かい、校舎全体を、生徒や教師全員を守るために、その存在の行手を阻まなければならなかった。
僕はその男が横断歩道を無事に渡り終え、丁度男の背中越しに信号が赤になった所で、自分の服装と悪臭を強調するように、小さく胸を張った。
男は僕の姿をまるで無視するようにして、あの緩慢な歩き方のままで、通り過ぎようとしている。
そして僕は数日ぶりに、案山子としては初めて、声を上げた。
「何をする気ですか。そこで止まってください。僕は案山子です。ここは学校です。部外者は入ることができません。お帰りください」
すると男は僕の前で緩慢な動作でピタリ、と立ち止まると、ゆっくりと出来の悪い人形のように首だけを捻ると、僕の眼を見て、言ったのだった。
「あんさん、誰?」
僕はその時に見た男程の濁った色を、これまでの人生で見た事がなかった。まるでこの世の汚れをこの男の瞳の中に閉じ込めたかのような、そんな濃厚な衝撃だった。男の瞳は僕の瞳を捉えて離さないようでもあり、僕の内部を鋭くかき乱すようでもあり、そして何よりも、その体は意地汚く確実な意思で校舎の方を向いていた。僕はこの男がこの後する事がその瞳を見ただけで手に取るように分かった。僕じゃなくても、誰であっても十中八九察したことだろう。
「僕は、案山子だ」
僕は瞳を見た瞬間から敬語の必要性を全く感じなくなり、乱暴にも聞こえる率直な口調で答えていった。
「僕は案山子で、この校舎を守る必要がある、あなたは危険だ。何の為にそんなものを持っているんだ。自分の生きる世界に帰れ」
僕は表面上、乱暴に見えるように装って声を出した。恐怖心は全く感じなかった。この案山子の役割の奇異な所は、その役割を担う人間から恐怖心や不安感といったあらゆる負の感情を鈍麻させる所にあるらしかった。
案山子としての義務感が、僕の内側を駆り立てていたのだ。
「僕は、案山子だ」
僕はもう一度毅然とした口調で言い放つ。
「これ以上言うべき事はもうない。分かるだろう? 僕が今月の案山子なんだ。どこの校舎にもいる」
すると男は何故だか僕を見つめていた瞳を外し、急に俯き始め、非常に小さな声で何かを呟いた。
耳を澄まさなければ聞こえないそれは、こう言っていた。
「……そんなん、知らん」
ギラリと光る汚れに濁り切った瞳が、再び校舎の方を、先程までよりも更に強い調子で仰ぎ見た。僕は彼を刺激してしまったことに気付き、良くない兆候だと思った。
そして、態度を変えて、言った。
「……ほら、こんな所でそんな物を持って中に入っても、騒ぎになるだけじゃないか。すぐに取り押さえられて、数時間後には拘置所の中だ。まだ間に合う。早まった事はやめた方がいい」
男の表情は崩れない。何かを悟ったような、諦めたような脱力した表情で、僕の言葉を無視していた。しかし体は動かなかった。細い瞳で、何故かぼんやりと校舎の事だけを見つめている。
……さんや。
「え?」
男が何かを呟いていた。僕は持ち場を離れて、男の傍に近付いた。鋭い鎌が雲越しの太陽の光で鋭く光っている。僕はそれを迂回し、耳を男の口元に近づけた。
「許さんのや」
男の唇からは、そうか細く漏れていた。唇は抑えつけられている激しい感情により、震えていた。
僕は当惑してしまった。自分の姿を見て、存在を知らせても尚引き下がろうとしないこの生き物に、畏れに近いものまで感じ始めていた。
しかし、男は急に鼻を引くつかせると、僕の瞳を真っ直ぐに見つめて、言うのだった。
「……なんや、この臭い匂いは。……お前か」
僕はゆっくりと躊躇いがちに頷く事しか出来なかった。
あ、と男が言った気がした。そして、小さな鎌を振り上げると、渾身の力を込めて振り下ろした。
カツーン、という小気味の良い音が校舎中に響き渡ると、鎌は僕と男から遥か離れた、校舎の藪の中に、何度も回転しながら突き刺さり、カサ、と情けない音を立てた。
小雨が降り出してきていた。
悪臭に包まれながら、二人とも何も言わずに見つめあって、長い時間がその間に流れていた。小雨が勢いを持って僕と男の匂いを混じらせ、洗い流そうとしているみたいだった。
やがて雨が本格的に降ってきた時、男は首を小さく横に振ると、ふ、と鼻から息を吐いて、後ろを向いた。
そして、また緩慢な動きで足を持ち上げ歩き始めながら、最後に僕に向かって言うのだった。僕は男に肩に手を置かれたような錯覚を覚えた。そしてそれは先駆者の悟りと、警句の響きを持っているように思われたのだった。
去り際に、歌うようにして呟かれたその言葉は、その後一生涯、僕の胸の中から去ることがなかった。
「守る価値があるんか?」
男はそれ以来、姿を現さなかった。
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