青い月の下で

大川徹(WILDRUNE)

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破(青鷺編)

8節(最終節)『本当の敵』

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 「狙い通り、始まったようだな」

 遠くで激しい音が響くのを聞いて俺は街を見やった。硬い物同士がぶつかり合う音も聞こえるが、はっきり聞こえるのは地響きと周囲の物を根こそぎ倒すような破壊音だ。それが次第に近づいてくるのを感じると、いよいよだと深呼吸する。

 憑影の狙いはあくまで鍵。それ以外の物は目に映っていない。
 その時、後ろからも物音がして湖を振り返った。すっかり水が抜けて中央に穴が空いたところから泥の塊が飛び出してきた。

 「何だ、あの泥人形」

 どろどろに塗れて顔も見えないが、うめき声をよくよく聞くと遠藤だ。手に鍵らしい物を持っているが、あまりに汚すぎて近付く気も起きない。

 「おい、笹本」
 「ひどい目にあったよ!」

 声をかけると穴から笹本が顔を出した。遠藤ほどではないが、彼女も服が少し汚れている。

 「あたちもさすがに泥だらけはやだよ!」
 「遠藤が水を抜いたら喜々として突っ込んでいったじゃないか」
 「中がドロドロなんてわかんなかったの!」

 いや、冷静に考えればわかるだろ。
 笹本は鼻息荒く立ち上がると遠藤の首に向かって手刀を振り下ろす。すると、打ちどころが悪かったのか、それとも笹本の体質のせいか彼は倒れたまま動かなくなった。というより、いろいろなトラップを中で踏み抜いたのか泥の下はボロボロになっていた。
 「で、これ治るんだよね?」
 「鏑木を治した時みたいにな」

 同じく泥だらけの鍵を取りながら笹本が聞く。とはいえ、青鷺の鳥の声も機能していないだろうから彼が元に戻るのは雨宮が戻ってきてからになるだろう。

 「めずらしく役に立ったな、笹本。日が暮れる前に鍵を取り出すことができて何よりだ」
 「えへへー、もっと褒めてー」
 「それより、この地響き何?」

 そこで霧寺も彼女の後に続いて穴から出てきた。体についた泥を払うと、街の方に目を向けて目を細める。

 「憑影が鏑木家の鍵を手に入れたようだ。ドンパチやってる音は青鷺の残党と氷見だろう。俺達もあの場に行くぞ」
 「ちょっと待って。一体どういうこと? あの鍵は鏑木邸に隠したはずでしょ」
 「あれは鏑木が乗る車のトランクに入れた」

 そう言うと、霧寺は一瞬言葉を失い、「はあああ!?」と大声を出した。

 「この霧が出ている状態で!? どうして!?」
 「理由は二つ。一つは敵を俺達が戦いやすいフィールドにおびき出すこと。もう一つは青い月の存在を世間に明るみにするためだ」
 「は……?」
 「怨霊、御三家、秘密組織……何もかもが青い月から生まれ、雨宮やお前もそれに縛られ生きてきた。萩谷も何も知らない住人も。もう嫌気がささないか?」

 霧寺が何を言ってるかわからないと言った顔で首を横に振る。

 「氷見が鍵を集めて月の封印を解こうとしている時に俺は考えたんだ。青鷺も分裂して、この街の隠蔽体制はもう限界を超えてしまった。なら、御三家は壊してしまった方がいい」
 「壊すって、それはこの街の歴史そのものよ!?」
 「別にいいだろう。どうせ萩谷家は没落するし霧寺も家を再興するなら、この枠組みにこだわる必要はない。むしろ、お前にとって都合がいい」
 「どうして?」
 「これは俺の勘だが、お前はもともと悪人じゃない。裏切りはしたが、騙すことは苦手のはずだ。お前が眼鏡をかけてサービス口調になる時や中二臭い言動をする時も本心をなるべく隠そうとしているからなんだろ。つまり、自信がない」
 「うんうん、気付いてた」
 「そこでだ。この異常事態の後に調査をしに来る奴らに言ってやれ。私が事件解決に関わったと。自分を巫術士だと明かして、新たな街の体制に食い込んでやれ」
 「なるほどなるほど」

 笹本が頷くのを無視して、霧寺はさらに首を横に振った。

 「今度は私が裏切者として萩谷魁斗に狙われる!」
 「それはその時の話だろ」

 彼女はまだ拒否したいのか「でも、」と言いかけた。その時、都合よく車のクラクションが鳴り響いた。そういや、メイドが待っていたことを忘れていたな。

 「行くぞ。今話したことも氷見と黒幕を倒さないと始まらない」
 「ところで、遠藤豆くんは?」
 「汚いから捨て置け」

 水のない湖に誰も用はないだろうし、復活してもここなら害はない。
車に戻ってメイドに戦いの音がする方へと行ってくれと言うと彼女は嫌がったが、鏑木修太が頑張っているとだけ伝えると渋々車を発進させた。どうやら俺達の要望はできるだけ聞くように念押しされているらしい。

 「ところで、あと一つだけ何かあるよね」
 「何って何だよ?」
 「隠し事」

 後部座席で俺の横に座った笹本がこっそりと囁いてきた。

 「あたちは、どなどなが面白いから街も何かも全部ぶっ壊しちゃうのかと思った」
 「……」
 「でも、ちゃんと避難させたり鍵を持たせた王子ちゃんもぎりぎりで助けてあげたんでしょ?」
 「王子ちゃんって、鏑木のことか?」

 うんうんと彼女は元気に頷く。俺はため息をついて返した。

 「俺がその気になれば、何もかも全部計算づくでぶっ壊して黒幕と手を組んで樫崎渡に復讐するさ」
 「でも、そうしてないよね」
 「今からそうしないとも言ってない」

 何もかもを混沌に叩き落す青い月が足元に眠っているんだ。その気になれば街ごと崩壊させてやるが、何か胸につっかえているものがある。

 「俺は……」

 言いかけた時、地響きの音ともに急ブレーキがかけられた。体にかけられた圧迫感に腹を抑えつつ、フロントガラス越しに前方を覗き込む。青い閃光が見え、その周囲で氷見と青鷺が戦っているようだ。戦闘はよく見えないが、巨大な異形の影なら見える。

 「あれが……憑影なの?」

 助手席の霧寺を見やると、彼女は車の揺れの中で札を作っていたらしい。墨汁が周囲に飛び散り、メイドも迷惑そうな顔をしていたが前方のあれと比べれば気にならないようだ。

 「こ、後退したいと思うのですが!」

 メイドの叫びに俺達だけ外に出ると、ものすごい勢いで車は走り去っていった。
 頭上には黒い霧がたちこめ、夜のように視界を染め上げている。嫌な悪寒がする空気だ。瘴気、とはこういうものかもしれない。

 「どなどな! 来る!」

 笹本が叫んだ時、木々の上に異形が顔を出した。影は見えていたが、それがどんな姿をしているのかは俺も予想していなかった。

 「怨霊……なのか?」

 白い。しかし、薄い霧のような怨霊と違って、それははっきりと実体を持っていた。のっぺらぼう……いや、怪談に聞くなんとか入道みたいだ。大きくぶよぶよした白い巨人が街路樹を押しつぶし、こっちへと迫ってくる。

 「霧寺、あれは何だ? 憑影の塊はああなるものなのか?」
 「そんなのわからない。でも、青い月の鍵を核にして、その力を元に生き返りたいという願いがあんな姿にさせたのかもしれない」
 「あれが人間に戻るってことか? 冗談が過ぎる」

 その時、巨人に向けて何かが投げつけられた。目をこらすと札だろうか、時折発光する矢のようなものが放たれる。

 「あれは私が作った物だ。まだ青鷺が生き残ってる」
 「全然足止めされてないが」
 「そりゃあ、あんなのと戦うのを予想してないし」

 ふと見ると霧寺の足は震えていた。俺も見たことのないものにはさすがに恐怖がある。それでもこの先のことを予想して、なんとか発破をかけようとした時、

 「いっくよおおお!」

 何も考えてないやつが一人、勝手に飛び出した。

 「笹本! まだ待て!」
 「待ってたら戦えなくなっちゃうよ!」

 そう言うなり彼女は全速力で走り出すと、その憑影の塊に向かって何かを投げ飛ばした。それは綺麗に弧を描き、巨大な体に向かって落ちていく。しかし、当たる直前で誰かがそれを掠め取った。

 「取った!」
 「氷見!」

 軽やかな動きで着地すると、勝ち誇った表情を向ける。見ると、その視線の先にいたのは萩谷父だ。

 「まさか、それは鍵か!?」
 「誰よ、これを投げたバカは……」

 そう言って手にした鍵を見る。しかし、白い憑影が反応しないことに気付いたのか、すぐにその表情を変えた。

 「だが、もう遅い。それを剥がす前にこっちが勝負をつけてやる」
当然、投げた鍵は本物ではない。霧寺が視認をごまかす札を貼った別物だ。氷見がこの場に来ることを予測し、かつ戦闘に手間取られている時に鍵を見れば考えることなく飛びつくだろうと考えた。車の中での急ごしらえだったが、計算通りだったな。
 「何これ、熱い! 札が手から離れない!」
 「笹本が湖の地下道から取ってきた呪いの札だ。触っただけで死ぬ」
 「はぁ!? もし、そうだったら投げた本人がまず倒れるでしょうが!」

 高熱と化した札を押さえながら、はっと彼女は気付いた。

 「あいつ、霊的耐性の持ち主!? まさか、こんな街に二人も」

 その時、巨大な憑影が咆哮した。いくつもの人間達の叫びが重なりあったような声だ。顔に目はないくせに、霧寺がケースから取り出した本物の鍵に注目している。その鍵も青く発光し、自分の存在を主張しているようだ。

 「霧寺!」
 「わかってる! みんな、何か反射するものを出して!」
 「なんでもいい! 鏡でもガラスでも!」

 笹本も周囲を走りながら大声を張り上げる。すると、青鷺の戦闘員も声に気付き、霧寺に視線をやった。その先では彼女が鍵を持ったまま、もう片方の手で手鏡をかざして青い光を反射させる。その光が向かうところは笹本だ。彼女は携帯を取り出し、液晶画面で光を跳ね返す。

 「光の結界か!」

 意図を察した萩谷父が無線で隊員に呼びかけると、自身も笹本の光を受け止める位置へと立った。周囲にいた隊員二人が同じように立ち、憑影を囲むように五芒星の光の陣を形成する。

 「いけるか!?」
 「いや、まだだ!」

 憑影は足を止めたものの、その白い巨体を蠢かせて地面をドンドンと叩く。まるで地震だ。

 「光の強さが足りないんだ! なんとかならないのか!?」
 「今やってる! ちょっと待って!」

 霧寺が鍵を握る手に力を込めた。

 「鍵だって青い月の一部なんでしょ! だったら、少しくらい願いを聞いて!」

 その声と同時に鍵から放たれる光がストロボ並みの光線と化した。途端に憑影も光に当てられたせいか苦しむような咆哮を上げた。

 「今だ、笹本!」

 俺は笹本の位置まで走ると、彼女から携帯を借り受けた。彼女はそのまま光の壁の中に突っ込んだ。誰かが心配するような声を出したが、彼女は絶対霊的耐性。どんな結界だろうと効果はない。無事に憑影のすぐそばまで迫ると、その体に拳を突き出した。

 「あたちパンチ!」
 「は?」

 謎の必殺技が白い体に穴を開ける。そのまま皮膚を裂くようにこじ開けると、大勢の人間が重なり合っている姿が見えた。その中心部に青く光る鍵が見える。彼女は人をかき分けて中に潜り込むと、泳ぐように鍵へとたどり着いた。

 「取った!!」

 笹本が鍵を取りあげた瞬間、その鍵は光をなくした。同時に巨大な憑影も動きを完全に止める。白い体表が完全に消滅し、それとともに内部を構成する人も解かれていった。

 「ぃやったあ! 勝ったぁ!!」

 笹本がぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。足元に敷いているのが人だとも気付かずに、俺に向かって走って降りてきた。

 「どなどな、見てた? あたち最高にかっこよかったよね! ほめてほめて!」
 「よくやった。一生分はよくやった」
 「でしょでしょー」

 頭をなでてほしいと言わんばかりの勢いを「しっ」と手で追い払う。
 その時だった。彼女の頭に手ではなく石が打ち付けられた。その後ろにいる霧寺によって。

 「な――」

 咄嗟に距離を取る。と、その隙に彼女は札をまき散らして呪文を唱えた。瞬間的に怨霊がその場に沸き上がり、油断していた黒服達に襲い掛かる。あの萩谷父ですら対応が一瞬遅れ、苦悶の声をあげて倒れた。
 彼女は笹本が落とした鍵を取り上げると、苦しそうな表情で俺を見た。

 「ごめん。私はやっぱりあの人を裏切れない……」
 「怖いのか」
 「それもある。あんたが言った話は理想的だけど、私もこの街で生きる以上は敵に回せない相手がいる。むしろ、あんたの方こそ私達に協力してほしい」
 「車で話したことを聞いていたんだな」

 霧寺は両手でぎゅっと鍵を握りしめた。再び鍵が青く発光し、指の隙間から光がこぼれる。

 「笹本さんが言っていたけど、あんたは性格が悪い。人を助けるふりして後で逃げられないように追い込んでひどい目に合わせる。遠藤くんがああなったのを見てわかった」
 「それが俺の本性だ」
 「誰よりも歪んでいる。あんたにはこれ以上、好きにさせない。そんなに大惨事を起こしたいなら、むしろ私達の側について青い月を復活させる方を選ぶべきだ。そうでないなら、この惨状を起こした責任を取って処刑されてもらう」
 「ただの脅迫じゃないか」

 それを鼻で笑い飛ばすが、同時に周囲の怨霊が俺との距離を詰めた。

 「他人の不幸だったら、きっといくらでも見られる。あんたにはお似合いだ」
 霧寺は手に札を携えつつ、真剣な顔で言った。
 確かに街をこんな事態に追い込んで、遥か昔から築かれた体制を一日で壊した俺は殺人権で殺されたって文句は言えない。鏑木を助けたのは切り捨てるには早いと判断しただけ。

 「だが、断る」
 「どうして!」
 「俺が嫌いなやつは二種類。今まで何も考えずに幸せの中で生きてきましたというやつ」

 倒れている笹本をちらりと見て、霧寺に指を二本掲げた。

 「それと全てが自分の思い通りになると思ったやつ。この計画を企てた黒幕は後者だ。俺の見立てでは計画は完璧。あと一歩で野望を達成できると思っているだろう。それを今、ぶっ壊すことの方が俺は愉しいと思うんだよ!」
 「……そう。あくまで拒否するってわけ。嘘でも従うと言ってくれればよかったのに。この場を死地にするのを選んだのね」

 再び霧寺が呪文を唱え、怨霊がさらに発生する。一気に氷点下にまで気温が下がるのを感じたが、俺はわざと涼しい顔で受け流した。その様子に霧寺が苛立ち、札を振り下ろした。

 「行け! 月と街に仇名すものを排除しろ!」

 空気を震わす大声に怨霊がゆらりと蠢く。しかし、その矛先は俺ではなく霧寺へと向かった。彼女はもう一度、札を振り下ろすがまるで聞く様子はない。

 「な、どうして!? なんで言うことを聞いてくれないの!?」
 「お前は鍵を二つ持っている。絶対霊的耐性でもなければ、その効果は打ち消せない」
 「いやよ、やめてよ! 来ないで!」
 「あと、厨二病なら『我が漆黒の刃に仇名すものよ、古より蘇りし魂に囚われろ』とでも言ってほしいところだったな。さよなら、痛々しいダメイガス。お前の力は役に立った」

 そう言いながら寝ている笹本を足で小突く。あとはこいつが起きてくれれば、二つの鍵はすぐに回収できる。これで俺の戦略勝ち……チェックメイトだ。

 「いや、そうはさせん」

 その時だった。声が聞こえたと同時に何かが飛来した。それは霧寺にまとわりつく怨霊を貫通し、足元に穴を開ける。まるで銃痕のように次々と地面を穿ち、気付いた時には周囲にいた怨霊は後方へと霧散していた。

 「お出ましか……」

 思わず舌打ちした。今の芸当ができるのはおそらく一人。しかも、今の攻撃は氷見の体を焼いていた呪いの札さえ正確に撃ち抜いていた。

 「ったく……。待ちくたびれたわ」
 「小僧相手に侮るのが悪いのだ。むろん、霧寺の令嬢もな」
 「も、申し訳ありません! 雨宮家の当主様」

 霧寺が声のした方に頭を下げる。そこには一体いつからいたのか、雨宮瞳の父親が打ち倒された木々の横に立っていた。

 「やはりお前だったな。黒幕。いや、神主。内部に裏切者がいると言った張本人が、その裏切者だったか」
 「見抜いていたのか。萩谷も翁も気付かなかったというのに」
 「鍵をノーリスクで首から下げているやつなんて怪しさしかないだろ」
 「なるほど、それは確かに」

 そう言いつつ、彼は顔に表情を一切浮かべていない。多少の黒幕らしさを出すかと思ったが、物腰は落ち着き払っていて今すぐ行動に転じる様子もない。普段の神主装束で、違うとすれば帯刀していることだ。後は片手に鉛玉のような物をいくつか持っている。おそらく退魔の呪文でも刻まれているのだろう。

 「それで事態をここまでややこしくしたことに何か言葉はあるか?」
 「ややこしく? 鍵はこの場に全て揃っている以上、事はこれ以上ないくらいシンプルだ。どうせ月の封印を解けば、これに似た状況が生まれ……」

 そう言い終わらないうちに彼は俺のすぐそばまで来ていた。足音もさせずに、歩いてきたと思った次の瞬間には目の前だ。恐ろしい抜き足に言葉をなくした。

 「要は事態が少し前後しただけだと?」
 「……ああ」

 神主の表情に怒りは見えない。だが俺の体は無意識にも強張っている。ある種の達人を前にすると、こうも緊張するものか。

 「一つだけ釈明させてもらうなら、御三家の殺人権は用をなさなくなった。この街特有の治外法権は世間に周知された時点で、国の法律にのっとることになる」
 「この混乱に乗じて、死を偽装することは可能だがな」
 「娘が悲しむぜ」
 「瞳ならお前以上の死を乗り越えてきている」

 俺はさすがに舌を巻いた。まずい、この展開は予想していなかった。街で大騒ぎを起こせば山の頂にある神社は避難所となり、神主も行動を起こしにくいと考えたが誤算だった。もしかすると、彼は気配を消して俺達の動向をずっと見張っていたのかもしれない。

 「しかし、この短期間に鍵を二つ集めたことは賞賛に値する。その手柄と引き換えに許してやってもいい」
俺の考えを読んだかのように神主は言った。
 「実はお前が事を起こす前から、責任の所在は別の人間に押し付けるつもりだったのだ。娘に金魚の糞のごとく付いていたあの小僧だ」
 「何だと? 大口を叩いたせいか?」
 「否。神社の境内に大量の血痕があったのを発見してな。通報した後、血は萩谷の息子と他数名の血であり境内には小僧の指紋だらけだとわかったのだ。奴は重要参考人と化した。雅人が血眼になって探していたぞ」

 こんな状況なのに思わず笑いが込み上げそうになった。青鷺の本部が騒がしかったのは氷見のことだけじゃなかったわけだ。それに、あいつならやるかもしれない。

 「だが、もっと有力な候補がいるんじゃないのか。青鷺の残党か、氷見か。そもそも萩谷の死体はどこにある」
 「わからぬ」
 「なのに疑うのか? お前達が戦力的にも劣る一般人を? そうか、端から御三家と一切関係ないところで全ての責任を押し付けたいんだな」

 血痕があろうがなかろうが、青い月を巡る事件はこの街特有の治外法権に関わる出来事。一般人にかぶせて死人に口なし。公に明かせない事柄の始末をつける策の一つだろう。俺も樫崎には復讐するつもりでいたし、放っておいてもいいが……。

 「納得できない。それだと俺がつまらない」

 あくまで事を起こすのは俺だ。屋上で翁を殴ろうとしたのも鏑木邸で樫崎を守ったのも全てそれが理由だ。

 「ここで引くのが賢い選択だが、俺は誰の掌にも転がされたくないんだ。俺は知能犯ではなく愉快犯だからな」

 正直、心の中は恐怖でいっぱいだ。樫崎の真似をしても足の震えは隠せない。神主もそれを見抜いているのか、蔑むような視線を送ると渇いた笑い声を漏らした。
 だが、直後に真顔に戻って俺を直視すると、

 「そうか」

 息を吸うのと変わらない自然さで刀に手をかけていた。

 「だめー!」

 その時、寝ていた笹本が突然叫んで起き上がった。神主が動きを止めたのを見て、そばの岩を持ち上げて馬鹿力とばかりに投げつけた。簡単に彼はかわすが、さらに笹本は猫のように威嚇しながら飛びかかる。

 「よせ!」

 切られる! そう叫んだ時、さらに予想外のものが視界に飛び込んできた。刀を構えた神主の背後を切りつけようとする二つ目の白刃。突風のように現れた姿は見違えようがない。月に行ったはずの雨宮瞳だ!

 「はっ」

 しかし、刃は振り向きざまに抜かれた刀に阻まれた。激しい金属音がこだますると、二人は距離を取って向かい合う。

 「雨宮!」
 「待って、お話は後」
 「あたちも戦う!」

 俺は即座に笹本を取り押さえた。ふぎゃーともがく彼女に雨宮が「伏せ!」と言って手なづける。そして、目前の相手を見据えて刀を構えた。

 「思ったよりも早い帰りだったな」
 「……父さん。説明して。これは一体何の真似?」
 「彼らは街を支える体制に反旗を翻したのだ」
 「だとしても……これはおかしい。大体、どうして父さんが氷見の側に立っているの」

 言葉を選ぶように慎重に彼女は言った。その言葉に応えるように氷見も立ち上がる。

 「あーあ、とうとうばれちゃった。月に残したあの人は余程の甘ちゃんだったのかしら」
 「待て。札の呪いを受けたばかりだろう。お前は霧寺飛鳥を連れて下がれ。娘の相手は私一人で十分だ」
 「あら、そう。なら癪だけど、お言葉に甘えようか」

 そう言うと氷見はそばで立ち尽くしたままの霧寺を片腕で抱え上げると、すぐに間に走り去って行く。笹本が「あっ」と視線を向けるのを見て、俺は二人に聞こえないように彼女に言った。

 「追いかけろ、笹本」
 「いいの?」
 「どのみち鍵が全て相手側に渡ってしまっている。あれを取られたら終わりだ。戦わなくていいから、あいつらがどこに逃げたかまで突き止めろ」
 「わかった! どなどなは?」
 「再起をかける当てがある。後で合流するぞ」

 せっかく拾った命だ。あいつらを嘲笑するまでは死ねない。この場の戦いは気になるが、俺よりふさわしい奴においしい場面はくれてやる。
 俺は今も話し続ける神主と雨宮を見やると、即座に笹本と別れて街へと走り出した。


 「――というわけだ。騙して悪いが、全ては私の計画だ」
 「一体何のために」
 「決まっている。月の顕現だ」

 そう言い、神主は刀を自身の顔の横へ掲げた。切っ先に瞳をとらえ、しなる曲線が空に向かって輝く。その名を霞の構え。ありふれた剣技だが神主の立ち姿には一分の隙もなく、完成された芸術の域だった。

 ――美しい。

 瞳は感じる。母とは対照的に、無骨でありながらも一切の予断がない。母が流水なら父は石だ。石だけで水を象る枯山水。だが、今その刃は娘に向かっている。

 「――」

 一言もかわすことなく、二人は駆けた。数秒の間に、いくつもの打ち合いが果たされ火花が激しく散る。目に留まらぬ早業に、先に父が距離を取った。

 「腕を上げたな」
 「っ」

 だが、冷静を気取る瞳こそ冷や汗をかいていた。刀を交わしてわかったのだ。相手には余裕がある。本気ではない、今は軽くあしらわれていると。向かい合う姿に変化はなくとも数秒前と今の間はまるで違う――そう彼女が確信した時。

 「おやおやぁ?」

 さらに場違いな声音がこの場に響いた。親子の対決だろうが話の流れだろうが何もかも無視した男の声。直感的に人を苛立たせる嘲りの類。思わず、「えぇ」と雨宮が呻いた。

 「神の主とその子供と言いながら、その実アベルとカインのごとしだな」

 雨宮瞳が現れた茂みから、彼は現れた。

 「樫崎くん……」
 「小僧か」

 刀の構えを解けない瞳に対して、父はわずかに気を緩めた。

 「やはり娘といると思っていたが、今さら何の真似だ」
 「母親どころか父親まで娘と真剣勝負とは呆れたと思っただけだ。その上、氷見と組むなんて浮気か? 神職が聞いて呆れるが、どのみちここには神なんていなかった。月を神扱いしていただけの偽りの神主さんよ」
 「なんでこんなに上から目線なの」

 再び小声で雨宮が呟く。だが、樫崎には聞こえず親子の間に入るように足を進めた。

 「何も知らぬ小僧よ。未だに娘に対する志を持っているのは立派だが、その性根では満に一つも預けられまい」
 「ならば、分捕るだけだ。そうなれば僕が幸せになる。相乗効果で瞳も幸せになる」
 「一体、何の話だ?」
 「僕達は月へ行ってきた。短い間だが一晩経っている。つまり――」

 樫崎が勝ち誇ったように言った。

 「既成事実ができたということだ」
 「ない」
 「できたということだ」

 堂々と二度も言って彼は神主を見据えた。彼は迷惑だという表情を隠しもせず、否定した雨宮も首をひねる。彼女はこれ以上、場を荒れたら何が何だかわからなくなる気がしていた。

 「私達は今、鍵を巡って戦っていたのだろう? お前という者を測るのは心底度し難い。嘘はついていない顔だが、道理がどう転んでもあり得ぬ話だ」
 「転ばないなら押し倒せばいいんじゃないか」
 「余程の慢心か阿呆なのか?」
 「わからないなら話は終わりだ。僕はこと恋愛になると恐怖の底も見えないんでね」

 にやにやと笑いながら樫崎は懐に隠した武器に手を添わす。それを見抜いて神主も刀を向けた。しかし、ふと思い出したようにして切っ先を下げる。

 「少し待て。萩谷の子はどうした?」
 「三回くらい殺したら、どっかに消えちゃったよ」

 そう言うと隙を逃さず発砲した。瞬時に銃弾は一閃され、破片が地面を穿つ。

 「……ほう」

 神主は瞑目すると、今度こそ本物の殺気が場に迸った。
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