青い月の下で

大川徹(WILDRUNE)

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24節『ただの邪魔者』

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 雨宮が何度も足を運んだ屋上は、見たことのない姿へと変貌していた。黒服が何人も陣取り、中央の人物を守るようにして立っている。そこにいるのは一際異彩を放つ老人、椅子に座る翁だ。杖を構えている姿は泰然自若、枯れた姿に似合わぬ威容さを持つ。

 雨宮は瞬時に状況を見破ると、翁の奥に目が行った。貯水槽に縛られている人影がある。笹本彩香だ。彼女は眠らされているのか、ぴくりとも動く気配はない。

 「久しいの。いつかの青鷺合同演武で見た以来よ。傷を負ったようだが、あの時の武勇伝は健在か?」
 「ええ。正攻法では勝ち目がないと、卑怯な手段に堕ちた者達には負けないわ」

 数秒前に仲間が撃たれたことなど、雨宮は一切感じさせない。既に時は来た、修羅には余計な感情など不要なものだ。

 「雨宮の名のもとにあなたを断罪する」
 「正気か? 貴様の言葉の通り、ここにはおるのは卑怯者どもであるぞ?」

 刀を構える雨宮に、周囲の黒服全員が銃を取り出す。一糸乱れぬ動作で全ての照準が彼女に向かう。いくら強かろうと、この状況では勝てないのは明白だ。雨宮も手に汗を握るしかない。

 「我々の要求はそこの人質の命とおぬしの身柄の交換よ。同時におぬしが抱える一子相伝の秘密を明かしてもらう」
 「さあ、そんなものあったかしら」
 「とぼけるな。『月』のことだ」

 鋭い檄に周囲の空気が震えた。

 「御三家の設立、この街の勃興の起点となった全ての元凶。おぬしに流れる退魔の血は代々『月』の秘密とともに継がれたものだ。違うか」
 「……あれは負の遺産よ。人が見てはいけないもの、手にしてはいけない力。どうして、そこまで『月』に執着するの?」
 「決まっている。人の身では成し得ぬことを成すためだ」
 「それは理由にならないわ。民間伝承に謳われる欲に満ちた人間達と何も変わらない」
 「欲、か――」

 そこで翁は呵呵と笑った。

 「左様よ。しかし、我らが欲を戯言と一蹴されるはあまりに不快。そも、月などなくとも人は争うものだ。醜いものだ。話してやろう、小娘。この世の理不尽と人の性を」

 そして彼は椅子から立ち上がり、雨宮に正面から向き合った。

 「この街に流れてくる以前も今も儂の手は血に塗れた殺人鬼だ。しかし、人を殺そうと思うて生まれてくる赤子はおらん。儂も遥か昔は衛生兵として人を救う者だった。心の底から正義と救済の使命に溢れていた。だが、結果として儂は誰一人として救うことはできなんだ」

 翁の脳裏によぎるのは遠い灰色の世界だ。土色に濁った空から墨汁のような雨が降り、地面は赤黒く濁っている。一面に横わたる死者の群れ。体は数か所欠けたものから原型をとどめていないものまで様々だ。その荒野の中に若い翁は立っている。

 「誰もが死んだ。幾多もの戦いに参加し、知り合った全ての人間を失った。死力を尽くした戦争も敗北し、今ではあの戦争自体が我々の罪であると糾弾される。誰も強い者には逆らえない。ならば、恨むのは敵国か。否、もっと根本的なものだ。植民地を得、大国と競り合わなければならなかった要因は何だ。開国か近代化の波か、いいや人間の性よ。人に勝るというな」

 荒野の中で翁は叫んでいる。涙を流し、喉を枯らしながら。それでも若い彼は希望を捨てなかった。衛生兵の知識を活かし診療所を立てたが、戦後の混乱の方こそ醜いものを多く見ることになった。法も機能しない中、治安の悪い地域で抗争に巻き込まれていった。やがて彼は人格者の皮をかぶった暗殺者として生きていくことになる。

 結局、彼はどこに行こうと行きつく先は同じだった。

 「あれから七十年経とうとも人間は変わらぬ。現に青鷺ですら内部格差が激しく、力を持とうと存在価値を失った者達が集まる。儂は思うのだ。この機構、この人間の欲が世界に最初から宿るものだとすれば、それをひっくり返せるのは人間以外の何か――『月』じゃと」

 最後に翁は雨宮に宣言した。彼女はふと目を伏せるも、変わらない顔で翁を見返す。

 「それは……人間の理不尽は誰もが考えることよ。父も言っていた。ただ、運が悪かっただけ。生まれた時の場所、親、人――その全てで残りの人生は決まるわ」
 「儂を否定するのか、小娘よ。貴様と儂では重みが違う!」

 だが、雨宮の言葉にも彼女の年にしては重みのあるものだ。それは巫女として生まれた自分の境遇を呪ったものか。言ってから翁も、それに気が付いた。

 「……こちらは端から理解してもらえるとは思っていない。肯定も否定も同じこと、おぬしから秘密を聞き出せばよい」
 「残念だけど、『月』はあなた達が考えているようなものとは違うわ」
 「話さないのは人質を見捨てることだが?」

 翁の暗く重い声に雨宮は地面が揺れる感覚を覚える。だが、雨宮は刀を握りなおした。本当は膝は震え、過呼吸一歩手前。それが刀を握りなおすことで一切が消滅し、雨宮自身を一本の剣へと変える。

 彼女がこの場に来た理由。人質の救済など嘘だ。これは数人の命のために明かせる秘密ではない。そう雨宮の父親は断言した。彼が求めるのは裏切者の粛正、翁を切って捨てること。首魁を倒せば、分裂一派は瓦解する。

 それは萩谷も確信していた。学生だけの侵入など相手に対する偽装作戦。雨宮が翁に対面した時点で、残る青鷺が学校に特攻をかけていた。樫崎のミスにより作戦が早まったが、屋上にいる翁はもはや袋の鼠。雨宮は時間を稼ぎ善戦するだけでいい。組織の不始末は組織がつける。ヘリで逃げようとするなら撃ち落とすだけのこと。

 その前に人質が死んでも一人なら、いくらでも世間にごまかせるというものだ。

 「各方面から本隊が突入しています!」
 「ほう。萩谷め、強引にでも事に始末をつける気か。各自、出口を守れ、そして」

 翁が手招きするような合図をすると、縛られていた笹本を黒服二人で引きずるように連れてきた。翁の腕に預けると彼は彼女の喉元にナイフを突きつける。

 「さて。これでも駄目か?」
 「――っ」

 雨宮の視界が白くなる。刀と自覚した己の体が、その刀身のように震えているようだ。

 雨宮が壊れるまで、あと三秒。巫女としての重責と人間としての運命が限界を迎えて爆ぜるまであと一刹那。

 「う――ぁああああ!」

 彼女が叫んだ瞬間、後ろの扉から何かが飛び出した。一斉に銃を向ける黒服。だが、それは青鷺には目をくれず雨宮へと一直線に駆け出し、背後から彼女の腕に向かって銃床を叩きつけた。

 「なにぃ!?」

 誰もが目を疑う。彼女の包帯は急激に赤くなり激痛を感じた彼女は刀を落として、その場にくずおれる。

 「ど、どうして」
 「……誰も彼も自分のほしいことしか考えてない。僕だけ壊れてるなんておかしな話だ」

 その声を下の階で発信機越しに聞いた萩谷魁斗は驚愕し、怒髪天を衝いた。

 「きっさまああああああああ!!」
 「後ろの扉を封鎖しろ。青鷺が来るぞ」
 「何者だ、お前は」
 「ただの邪魔者だ」

 はっきりとした声で翁に樫崎渡が言う。とはいえ足を撃たれた傷がそのままである以上、彼もまた激痛に意識が白み始めていた。

 「聞いてるか、雨宮。もう時間がない。あいつに秘密を全部教えてやってくれ」
 「正気なの?」
 「こうするかないんだ。雨宮は――巫女は普通の女の子なんだから」

 氷見に相対した時に言った言葉をもう一度言う。

 遠藤を倒したのは学校の避難の手助けを防ぐため。防火扉のスイッチを押したのは黒服をわざと雨宮に集中させたのは屋上に着く前に彼女を憔悴させたかったため。最初からこうやって雨宮を倒すことが全ての目的だった。

 「僕には他に考えつかなかったんだ。怨霊を倒すことも正しいやり方で君を救うことはできない。けれど、萩谷の父親を見れば何か方法はあるらしく、『月』っていうのか? 翁が言う理想の世界を作れるくらいなんだから、怨霊を発生させないこともできるんだろ?」
 「……わからぬ」
 「嘘でもできるって言えよ。こっちも今思いついた弁解だけどさ……これしかないだろ。隠してることも背負ってることも全部ぶちまけて雨宮を普通の女の子にしてくれよ……。世界が滅んでもいいから、僕ももう……」

 あまりの足の激痛に樫崎も倒れる。

 「雨宮……覚悟は言ったけど、その前に君のこと一度諦めたんだ実は。なんにせよ振られるだろう? さすがに今回は雨宮に嫌われるなと思ったけど、やっぱり幸せになってくれ」
 「おぬし……。おい、誰か二人の手当を!」

 慌てて衛生兵らしき黒服が二人飛び込んでくる。翁も今だけは使命を忘れた。彼も二人に歩み寄る。

   その時、第二の闖入者が現れた。屋上よりも高いところから、その影が月に照らされてコンクリートの地面に描かれる。すぐに翁が気付くが、もう遅い。

 「そこだっ!!」

 桑谷が翁目掛けて木刀を振り下ろした。間一髪ですぐそばの黒服に翁は跳ね飛ばされ、笹本と共に床に倒れる。

 「くそっ、外した!」
 「貴様は! どこから出てきた!」

 苦い表情を浮かべる桑谷に対し、扉の向こうで萩谷がようやく笑みを浮かべる。彼こそ萩谷の保険。萩谷が避難を急がせている間、桑谷には屋上に一番近い窓から外壁をロープで伝わせて貯水槽近くの屋根の上に待機させていたのだ。状況を送らせていただけだが、こうなると最後の手段。避けられたと言っても、翁は目と鼻の先。

 「覚悟しろ!」

 再び振りかぶる桑谷。それを拳で迎えようとする翁。

 「ストーーーープッ!!」

 その二人に更なる闖入者が割って入る。いつの間に起きたのか、笹本が両手を広げて立ち上がった。

 「どなどな何してるの!? おじいちゃんは悪い人じゃないよ!」
 「はあ!?」

 桑谷が素っ頓狂な声をあげる。

 「お前、今がどんな状況かわかってるか?」
 「うん、知ってる! でも、悪い人じゃない!」

 そう彼女は断言する。

 「……なるほど、じゃあ俺の出る幕はないな」

 言って桑谷は木刀をその場に捨てた。すぐに両手を掲げて黒服に囲まれていた。

 「一体、何をしに来たんだ桑谷」
 「ムカついたから青鷺への復讐に来ただけだ。どっちの青鷺でもいい。俺はお前と違って、誰かを助けようとは思ってないんだ」

 さらに耳につけたインカムをその場に投げ捨てる。

 同時に萩谷の苛立ちが臨界点を超えた。これでは保険の意味がない。屋上に突入する準備はできたが、出口付近は完全に守りが固められて入れない。樫崎が封鎖しろと言ったせいで、翁に一番近い扉も封鎖され今は銃撃戦の真っただ中。萩谷父は現れず、状況は膠着している。

 「奴らは袋の鼠のはずだぞ! 逃げ場もないのに何をやっている!」
 「巫女と一緒では無理です! 第一、外部に漏らされれば元も子も」
 「くそっ、この能無し無能どもめ!」

 地団太を踏み、髪の毛をかきあげる。もはやそこにいるのは普段を演じている彼ではない。傲岸不遜にて他者を屑と見下す、屑に他らない。

 『――だったら、助けてあげようか』

 その時、声が聞こえた。知っている声に、萩谷はまさかと天を仰ぐ。

 同じタイミングで屋上では風が輪を描くように白い霧が吹きだし始めた。竜巻の前兆のように勢いを増し、霧が大きくなる。見ると、三つの穴で作られた顔がいくつも現れた。

 「怨霊!」

 その一つが天へと吹き上がると、隕石のように落下してくる。そこにいたのは笹本彩香。誰も彼も動けないまま、彼女の瞳に災厄が映る――
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