青い月の下で

大川徹(WILDRUNE)

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1節『ストーカーの卵』

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 あれから数か月。あんなに寒かった街には春が訪れ、死んでいたかのような木々には葉がついている。朝の陽気も暖かく穏やかなものへと変わった。

 暖かくなればなるほど、僕は屋上で見た彼女を探す距離が増す。
 穏やかになればなるほど、僕は彼女を思う時間が増える。
 あちこち歩き回り、校門で待ち伏せし、そうして。

 「雨宮瞳――」

 そうだ、遂に見つけた。それがあの時出会った少女の名前だ。各学年の教室や廊下を徘徊した結果、あっさりと彼女が僕と同じ学年にいることを発見した。道理で見覚えがあるわけだ。中学三年になるまで同じクラスになったことがないだけで、どこかで見ていたのだから。

 だが、問題が一つだけ。クラスが離れている上に友達もいない僕に、あの子に会いに行く理由がない。さすがに浮くだろう。

 果たしてどうするか悶々と考えているうちに春休みが到来し、新学期が来てしまった。
 今日はその始まり、始業式。

 僕は唖然として校舎の入り口に貼られた紙を見ていた。それはクラス替えの紙。恐怖と期待を交えて、名前の列をざっと目で追う。見間違いではないか何度も見返して、その名を探す。そして、思わず口から声が零れ出た。

 「はははははは」

 春が来ていた。彼女の名は僕のクラスにあった。以前の担任に「雨宮とは話さないだけで超仲がいいんです!」とは言っておいたが、まさか本当に。これは運命だ。

 乾いた笑いを漏らしながら、僕はスキップしながらクラスへと向かった。道すがら「何あれきもい」と言われた気がしたが、たぶん幻聴だ。

 「おはよう!」

 親にもしたことない元気な挨拶をして教室の扉を開けた。

 「……ん?」

 がらんとした教室に生徒がいつもの約三分の一。ざっと見ても雨宮の姿はどこにもいない。そうか、と気づいて黒板の上の時計を仰ぐ。来るのが早すぎた。雨宮と同じクラスになった時の妄想と期待を込めるあまり、家の時計を全部三十分進めていたのだ。現実になったとはいえ、僕も春の陽気に浮かれすぎていたらしい。

 「おま……そんなキャラだったか?」
 「え、誰?」

 自分の机を探していると突然声をかけられた。見ると、髪の短い釣り目の眼鏡の男子だ。

 「お前と同じクラスの……昔、小学校でよく遊んだだろう?」
 「男には興味がないから覚えてないな」
 「おいおい冗談よせよ」

 そう言って突っ込みをいれてくる。そのノリの軽さに僕は嫌悪感を覚えた。

 そういえば、こんなのが昔の同級生にいたかもしれない。確か名前は遠藤浩。卒業してからはクラスが変わって全く会わなかった。いつの間にか背も伸びてかっこよくなったようだが、本当に僕は男には興味がない。とりあえず、久しぶりとは言っておく。

 「久しぶりだな」

 にかりとした笑顔で返される。

 「おい、浩。そいつは誰だ?」

 僕の後ろから声がした。振り返ると、開けた教室の扉に一人の男子がもたれかかっている。

 「ああ、幼馴染ってとこかな。昔の友達だよ」
 「へえ。なんか笑いながら走ってたから基地外かと思った」

 そう彼はこちらを見下すような顔で言った。しかし、遠藤は気が付かないのか歩いてきた彼の肩を組む。

 「桑谷優介。こっちでできた今の友達だよ」
 「あっ、そう……」

 見れば、桑谷の髪は整髪剤で立たせてきたようでいて少し脱色もしてある。背も高ければ足も長い。顔は精悍だが、その目には人を馬鹿にしたような気配があった。

 こいつも何か嫌な感じだ。心外だと言ってやろうとし時、後ろからドンっと背中を押された。思わず前のめりになると、

 「どなどなはね! こんなだけど、ちょーいいやつなんだよ!」

 振り返る前にその大声に鼓膜が震える。見れば、いつからいたのか笑顔の眩しい女子がいた。ぴょんとはねた前髪に舌足らずな声。

 「あたち的にはそう思う! あはは!」
 「お前なぁ」

 桑谷も変な女子に気付いて声をあげる。

 「また余計なこと言いやがって。いつ来やがった?」
 「今だよ今! 壁の下にある隙間からね! そして、なんとぉ」

 鈴を転がすような声音で彼女は「ぽんっ」と言って手のひらを見せる。そこから飛んでいくオレンジ色の花びら。教室にいた全員が彼女の手に注目する。けれど、そこには何もない。

 「どなどなが嫌われないように、どなどなの机をデコっておいたよ!」

 そう言って指さした先には、よくわからないキャラクターで貼りつくされた机が!

 「おい! 元に戻せ!!」
 「大事にしてね!」

 桑谷が叫んで笹本に手も伸ばすも、彼女はひらりと机の上に乗った。僕の机と言う前に机から机へとぴょんぴょん飛んでいく。僕は桑谷が追いかけていくのをぽかんとして見ていると遠藤が爆笑していた。

 「何あれ?」
 「あの女の子は笹本彩香。見てのとおりだよ。俺は去年からだけど桑谷と笹本は中一の頃からクラス一緒であんな感じ」
 「へえ……」

 それにしても、どなどなって。あだ名か?

 「ちなみに優介は笑いながら走ってきた渡に笹本と同じものを感じたのさ。険があるのはそのせいで笹本の言うとおり、あいつはいいやつだよ」
 「……」
 「気にすんな」

 いや、気にするどころかほぼ初対面の人を下の名前で呼ぶな。

 第一、遠藤のことも信じたわけじゃない。どうせ人がいいか悪いかなんて今はわからない。経験上、それがわかるのは早くて五月だ。

 いつの間にか教室には人が増え、桑谷以外にも巻き込まれる人も増えていった。終わらない教室の騒乱。春らしく騒ぎたいのだろうが、反対に僕の心は落ち着いていった。どこか遠くを見ているような――いたたまれない気がしてきた。

 また屋上に行こうかと、そっと教室の後ろの扉を見た時、

 「雨宮」

 彼女はいた。雨宮は教室に半歩足を踏み入れた状態で、中を見ていた。そして、彼女の目が僕の視線と交錯し、消えた。

 「え?」

 奥へと引っ込んだのだ。

 「雨宮!」

 思わず追いかけようと声をあげる。だけど、その時教室中の音がやんだ。

 「……?」

 走っていた桑谷が再び怪訝な目で僕を見る。他の生徒も。唯一、机の上を飛ぶ笹本だけが動いている。たんっ、と小気味よい音が彼女の足音からすると、すぐに教室から音が復活した。さっきのバカ騒ぎが再開する。

 何だ今のと思った時、遠藤が僕の肩に手をかけた。

 「ちょっと待て」
 「僕はまだストーカーじゃないぞ?」

 すると、彼は黙って首を横に振り、

 「雨宮には近づかない方がいい」
 「え? なんで」
 「なんでじゃなくだ。悪いことは言わない」

 彼の口調は硬かった。おそるおそる視線だけで教室を見ると、誰も僕達を見ていなかった。

 確かに不自然な気配を感じて僕は何も言わずにうなずく。何が起こったのかわからないが……時間が来れば雨宮はまた現れるだろう。今はそう信じて教室の端へと寄った。
 
   けれど、時間になっても雨宮は現れなかった。始業式が終わっても、その日一度も姿を現すことはなかった。

笹本彩香
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