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第一章~バナナココア

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 がたぴしのガラス引き戸を苦労してこじ開け、振り返った佐原孝彰{さわら・たかあき}は初老の店主に軽く会釈をして店を出た。
 駅前アーケードの西側、裏街の中ほどにあるそのその小さな文具店は、孝彰の通う中学校からほど近く、また通学路傍にあったので、品揃えの少なさと古さにも関わらず頻繁に利用していた。
 角の尖った新品の消しゴムが入った紙袋を白い引っ掻き傷だらけの鞄に仕舞ってから、垂らした前髪越しに薄く曇った冬空をちらりと見上げた。
 頬を指す寒風と乏しい日射量の下だと着ている学生服の黒さが引き立ち、自分が随分とみすぼらしく感じられる。葬式への列席を許される格好なだけのことはあるな、ふとそんな事を考えた。
「何だか冴えないなぁ」
 前髪をいじりつつ、孝彰は溜め息交じりで呟いた。
 それは頭上の空模様と共に、ここ半年の彼自身の心情へ向けられたものだった。
 もう一度、今度は誇張した呼吸でもある溜め息を吐き、自室で彼を待ち構える参考書の山に目掛けて渋々歩き出した。振り出す両足が昨日よりも重い、そんな錯覚が孝彰の表情を益々曇らせる。
「おーい、タクぅ」
 文具店から十歩ほど進んだところで、背後から彼を呼ぶ声がした。
 学校と自宅以外で声をかけられることなど殆どないので、その呼びかけが或いは自分宛てではないかもしれないという幼い躊躇
ちゅうちょ
が振り返る動作を若干鈍らせた。が、すぐにそれは好奇心により相殺された。自分をタクと呼ぶのは家族と、クラスメイトのうちの親しい相手のみだから、というのもあった。
 ぎこちなく振り返って見ると、誰かが彼目掛けて小走りで近付いて来る。先方に見覚えはないような、と思う間もなく相手は目の前まで寄ってきた。
「いやー、ちょいと走っただけで息切れしたよ、歳かね? よお、久しぶりだなぁ、元気か?」
 荒い息遣いの継ぎ目に無理矢理ねじ込んだ風に、その小柄な女性は云った。
 あれ? 誰だったかな? 孝彰の眉間にそんな意味の皺が出来る。
 思い切って刈り込んだ黒いショートカットの下は、赤と白のタータンチェックのボタンダウンシャツ。見ているこちらが寒くなりそうな、細い足の突き出た膝丈のショートパンツ。彼よりやや低い程度の上背のその女性は、周囲の造作とは規格外とも思えるほど大きな、それでいて愛敬のある両目をぱちくりとやり、薄い唇の両端を上げた。
 その途端、孝彰の頭の隅に押しやられていた記憶が勢い込んで浮上した。
「……ミコ? ミコだ! うん、元気だよ」
 やや興奮気味に返しつつ、孝彰はパッと表情を輝かせた。

 その女性の名は神和彌子{かんなぎ・みこ}。
 幼稚園頃から小学生当時までの孝彰の一番の親友で姉代わりであり、ついでに姉御役と宿敵をも務めた、彼の人格形成の中枢部分を占める重要人物である。思い出す限りの記憶の殆どに彼女は立っているといっても大袈裟ではない。家族よりも長く接して、どの友達よりも多くを語り、そしてある日、姿を消した。
 彌子は孝彰より八年ほど長く人生を歩んでいて、彼が中学にあがった年に就職して、近郊の市街地へと引っ越した、そう覚えている。
 別れ際の情景と彌子の言葉、この部分の記憶は当然新しい筈だが、どうしてか曖昧になっている。そして、突然という印象で姿を消した彼女が今、目の前に立っている。これは一体、孝彰はやや困惑していた。

「しっかし、随分と大人っぽくなったなぁ。こないだ会ったのはいつだったっけ?」
 額にうっすらと浮かんだ汗をシャツの袖で無造作に拭い、彌子は整列した白い歯を輝かせて満面の笑みを浮かべる。言葉に表情や動作が伴ってみると、孝彰の記憶中の彌子と眼前の女性は完全に一致した。
 最初に、第一声で気付かなかったのが我ながら不思議なほど、彼女は全く変わっていなかった。最後に会ったのは随分と昔、そう……
「小六の夏休み」
「へぇ、そんなになるっけ?」
 すっかり息を整えた神和彌子は、三年分の感慨を鼻を鳴らすことで表してみせた。それから顎をしゃくって左手の喫茶店を指し示し、「おごるぜ」と芝居めいた声色で云った。
 二人は駅前アーケードの西側、裏街とも呼ばれる商店街にある、古めかしく見える新建材の塊といった風情の、何処にでもあるような無国籍喫茶店に入った。

「――んで、タクは今、中学生、だっけか?」
 孝彰のミルクティーはすぐに運ばれてきたが、バナナココアという奇怪なものを注文した彌子は、未だに冷えた水を啜っている。
 バナナココア、孝彰には一体何がやってくるのか想像も出来なかった。
「三年。受験生さ」
 やや自嘲気味な孝彰に対し彌子は、
「そっか、そりゃ大変だ」
 と全然大変そうではない調子で頷く。だがそれとて如何にも奔放な彼女らしく、おざなりな返答には聞こえなかった。
 孝彰は薄笑いを隠そうともせず「ミコは?」と悪戯っぽく云った。白く濁った氷を派手な音を立てて齧っていた彌子は、冷えた唇をへの字に歪め、溶けたばかりの水を飲み込む。
「あたし? あたしは立派に勤め人やってるさ」
「ミコが? 冗談でしょ?」
「……タク、そりゃないぜよ。少なくとも真面目に見える程度には働いてるんだから」
 孝彰が、続いて彌子が表情を崩し、目を見合わせてから二人はくくくと喉を鳴らした。
「成長したんだ」
「そうそう、あたしも随分と……ってオイ!」
 数年のブランクもなんのその、他愛ない会話での二人の息はぴったりだった。
 と、からからとドアベルが響き、豚肉や葱の詰まったビニール袋を抱えた三人の主婦が二人のテーブルをかすめていった。どうやらここは商店街の井戸端会議場らしく、孝彰達の他は全て主婦や、主婦に見える女性客である。
「ミコ、今、暇?」
 唐突に、声色を秘め事めいたものに変えた孝彰がデコラテーブルに小さく乗り出し、対する彌子は口元に掌を翳
かざ
し、軍事機密でも語るような調子で囁いた。
「聞いて驚け。あたしはいつでも暇なのさ」
「そうなの?」
 孝彰は思わず裏返った声を上げてしまい、隠密会談は儚い寿命を終えた。
「冗談よ。何? どったの?」
「家に遊びに来ない? 面白いビデオがあるんだ」
 それを聞いた彌子は一呼吸だけ悩み、
「そうさなぁ……いいぜ」
 提案を承諾した。
 そのミリ秒以下の思案は単なる会話への飾りに過ぎず、そんな技巧など不要な生活を送る孝彰は、それに気付きもしなかった。彌子は奇麗に並んだ白い歯を再び覗かせ、力強く頷き、先の承諾をさらに強調した。
 そうと決まれば、と彌子は、注文したバナナココアを取り消し早々に会計を済ませ、孝彰にミルクティーを飲み干すように促した。
 このドタバタした感じもまた、いかにも彌子らしい。彼女はいつもこんなだったし、それが楽しくもあった。
 それとは無関係に若干気になるのが、バナナココアなるもの。恐らくは飲み物、ソフトドリンクの類だろうが、変わり者の彌子が選ぶのだからきっと妙なものなのだろう。
 次にこの店に来た時に注文してみようか、孝彰は密かにそう思ったのだった。
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