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六 斎藤一之章:Farewell

北上転戦(四)

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 これ以上、江戸の近くに留まるのは危ない。早く会津に向かうべきだ。オレたちは夜陰にまぎれて板橋宿を出た。
 日光街道と奥州街道は、宇都宮までは同じ道だ。この一帯はすでに敵の手に落ちている。宿場の旅籠《はたご》は、いつ御用改めが入るかわからないから避ける。街道沿いの破れ寺や水車小屋で休むか、それも見当たらなければ野宿だ。
 板橋宿を発った夜は、細い月が西に傾きかけるころ、破れ寺を見付けた。携帯していた麦粉《こがし》を水で練って団子にして食って、横になった。
 くたびれ果てていたのに、眠りは長くなかった。虫の知らせというやつかもしれない。月が沈んで朝日が顔を出したちょうどそのころ、目が覚めた。
 外に出ると、すでに時尾が起きていた。相変わらず、オレが物音を立てるよりも先に気が付いて、振り返って微笑む。
「おはようごぜぇます。少しは眠れたがよ?」
「ああ。あんた、その髪は?」
 時尾の長い髪は今、女らしい形に結われていない。一つに括《くく》ってあるだけだ。
「この先、ゆっくり髪を整えている暇はなくなるべ。切っつまってもいいんだけんじょ、脇差ではうまくできそうになくて」
 時尾は、足《あし》捌《さば》きの邪魔にならない袴《はかま》姿だ。男装は、宇都宮で戦うころからだから見慣れてきた。でも、髪まで男みたいにされると、気まずくてならない。女を戦に巻き込んでいる。オレの刀は何のためにあるんだ。
「髪は、切るな。もったいない」
 そっと、時尾は笑った。
「斎藤さまはお優しいなし」
「別に」
「わたし、足手まといにはならねぇように気を付けるけんじょ、武士として戦う力のある斎藤さまと土方さまのお命のほうが大事だ。危なくなったら、わたしのことは置いていってくなんしょ」
「ふざけるな。置いていけるわけがない。オレよりあんたのほうが有能だ。オレは脆《もろ》い。昨日、思い知った。その……迷惑を、掛けた」
「迷惑なんかではねぇです。わたしのほうこそ、出しゃばっつまって、許してくんつぇ」
 子どもみたいに人前で泣いた上に女に世話を焼かれて、男の面目は丸潰れだった。恥ずかしさに、体がじりじりする。時尾の目を見て話せない。
 でも、なぜだろう、逃げ出したいのとは違う。女なんか厄介だから避けたいと、オレは思っているはずなのに。
 自分で自分を持て余している。オレを雁《がん》字《じ》搦《がら》めにしていた勝先生の思惑は、もう存在しない。気楽だ。でも、二本の脚で立つことが覚《おぼ》束《つか》ない心持ちにもなる。
「気配を感じて、目が覚めた。あんたもか?」
 いきなり話題を変えてしまった。あまりに脈絡がない。オレは自分に呆れたが、時尾は話に付いてきた。
「はい。強ぇ力に呼び掛けられたようにも感じました。土方さまはまだお休みなのがよ?」
「寝ている。怪我を押して動き回るせいで、消耗が激しいらしい」
「宇都宮で負った傷は、大怪我だった上に破傷風にもなりかけていたから、わたしの力ではすぐに治し切ることができなくて。申し訳ねぇことだなし」
「あんたがいなけりゃ死んでた怪我だ。いちいち謝るな。土方さんもそんなに柔《やわ》じゃない。すぐに自力で回復する」
 ふと、鳥の羽音が聞こえた。明けたばかりの空から、白い鳩《はと》が舞い降りてくる。脚に手紙が結び付けられていないことを確かめて、オレはほっとした。鳩はオレの肩に止まった。
 鳩が風を導いた。そう感じた。一陣の強風が吹き付けた。
 風が匂いを連れてきた。まがうことなき妖の匂いだ。それは同時に、懐かしい気配でもあった。
 人でありながら人ではあり得ない速さの足音が、ぴたりと立ち止まった。破れ寺の傾いた山門に、いてはならない人がいる。
「沖田さん……!」
 ひどく痩せた。死の影がはっきりと見えるほどに。ひときわ大きく見えるようになった目を、沖田さんは微笑ませた。
「斎藤さん! 追い付いた。よかった。その鳩、見覚えがある気がして追ってきたんだ」
 沖田さんの目は金色で、瞳は猫と同じ縦長だ。黒猫の耳と二股の尾が生えている。口元には小さな牙がのぞく。息を切らして、沖田さんは山門をくぐった。
 ようやくといった体《てい》で、天狗の術を使う京《きょう》女《おんな》が空を飛んで追い付いて、沖田さんの後ろに降り立った。オレたちにぺこりと頭を下げる。
 オレと時尾は沖田さんに駆け寄った。
「沖田さんがどうしてここに?」
「誰も何も教えてくれなくて、じりじりしていたんだ。やっとのことで宇都宮の戦の話を聞き出して、もうじっとしていられなくなった」
「体の具合は?」
「化け猫になってるんでなけりゃ、立って歩くのがやっとだ。一戦すれば死ぬね」
「無茶だ」
「構うもんか。斎藤さんだって、布団の上で病に殺されるより、戦場で死にたいだろ? おれも連れていってほしい。詳しい話を聞かせて。一体何が起こってるんだ?」
 どくんと、心臓が不穏な音を打った。
「宇都宮の戦のことは、誰から?」
「永倉さんと原田さんに、泣き落としで吐かせた。甲州に向かった後の流れも、軽く聞いたよ。近藤さんと土方さんは? まだ寝てる?」
 時尾が不安げな目をオレに向けた。胸郭の奥で、嫌な心音が高くなる。顔から血の気が引いていく。
「オレが永倉さんに殴られた話は聞いたか?」
「え、そんなことがあったんだ? 聞き分けのいい斎藤さんが叱られるなんて珍しいね。何をやらかしたの?」
「……新撰組が甲州で負けた理由は聞いたか?」
「ああ、うん、初めから勝てる戦じゃないのがわかってたのに、焚き付けられて甲州に向かわされたって。江戸開城を成し遂げたい勢力が佐幕派にいて、戦意の高い新撰組が江戸にいるのは不都合だったから」
 息が苦しい。何も知らない沖田さんに、オレ自身の口で告げなければならない。でも、告げないならば、きっと息をすることすらできなくなる。
「勝麟太郎が、新撰組を捨て駒にした。オレはそれを知っていた」
 沖田さんの黄金色の目が見張られた。猫の瞳が、すっと、糸のように細くなる。
「負けることを知ってたって意味? どうして斎藤さんが知ってたの?」
「勝麟太郎、本人から聞いた。あの人が目指していたことを」
「幕府の勝がやったのは、倒幕派と手を結ぶことだったんだろ? 勝は新撰組と会津を見捨てて、倒幕派の側に付いた。斎藤さんは、最初からそうなることを知っていたのか?」
 沖田さんの手がオレの肩をつかんだ。その籠《こ》手《て》の下に強烈な気を感じる。手の甲にある環がほとんどつながっている。細い手から掛かる力がやたら強い。肩の骨が軋《きし》む。
「全部を知ってたわけじゃない。でも、あの人の考え方や他人に向ける視線、おおよその戦況は、新撰組の中でオレが誰よりもよく知っていた」
「どうして? 斎藤さん、勝とつながりを持ってたの?」
 オレはうなずいた。
「勝先生に新撰組の情報を流していた」
 沖田さんの目が、ぴかりと光った。
「もしかして、品川で勝が明かした話? 勝に人殺しの現場を見られたんだろ? その弱みに付け込まれて、勝に使われていた?」
「オレがあの人に流し続けた情報が、あの人が新撰組を切り捨てる結果につながった。オレが、新撰組に滅びを……」
「滅びって何だよ! どういう意味なのか説明しろ!」
 沖田さんが牙を剥いて激高した。びりびりと空気が震える。大声をぶつけられたのは何年ぶりだ? 剣を手にしていない沖田さんが怒鳴るなんて。
 肩に鋭い痛みが食い込んだ。爪だ。沖田さんの指から伸びた爪。おそらく、人のものとは違う形の。
 確か花乃という名の京女が、沖田さんの袖をつかんだ。
「あきまへん。落ち着かはってください。妖気に呑まれてしまう」
 沖田さんが、はっと、オレの肩から手を離す。血の付いた指先を見て、オレを見て、困ったように眉尻を下げた。
「ごめん、斎藤さん。怪我をさせるつもりはなかったんだ。おれ、焦ってるね。環の力が暴れちまう」
 危うい。薄氷を踏むように、どうしようもなく危うい。沖田さんの気は、ぐらぐら揺れている。妖の匂いが濃くなる瞬間がある。
 沖田さんはまぶたを閉じて深い息をした。まぶたを開けて微笑む。目が金色であることのほかは、見慣れた笑顔だ。
 それでも危うい。告げるべき真実は、沖田さんの理性と妖気の均衡を突き崩す。一度壊れた均衡は、戻らない。
 隠してはおけない。言わなければならない。
「オレたち新撰組の生き残りは、永倉さんたちを除いては、会津に向かっている。倒幕派は会津を討つために動く。あの人がそう仕向けたからだ」
「それは永倉さんに聞いた。おれも一緒に会津で戦いたい。これがおれの最期になるよ。この覚悟を近藤さんと土方さんもきちんとわかってもらいたい」
 胸が、痛い痛い痛い。引き千切られそうに痛い。
「近藤さんは死んだ」
「え?」
 時が止まる。まばたきも呼吸もやり方を忘れたように、沖田さんが止まった。オレは耐えきれない。肩で息をして、繰り返す。
「近藤さんは、死んだんだ。流山で倒幕派に包囲されて、オレたちを庇《かば》うために出頭した。偽名で押し通そうとうとして、無理だった。高台寺党が倒幕派に加わっていた。だから、近藤さんの偽名は見破られて……」
 喉に小さな痛みを感じた。それから、刃のきらめきを見た。いつ抜刀したんだろう? 沖田さんが刀の切っ先をオレの首に突き付けている。
「救わなかったのか? どうして誰も近藤さんを助けなかった?」
「手は尽くした。間に合わなかった。近藤さんは処刑された」
「処刑? おれたちの、新撰組局長の近藤勇が、罪人として処刑? 何でだよ! おかしいだろう! 何で近藤さんがそんな死に方をしなけりゃならないんだよ!」
 後ろから引っ張られてのけぞる。沖田さんが剣を振るう。それがほとんど同時だった。喉に浅い傷が走るのがわかった。時尾が後ろからオレを引っ張らなかったら、オレの喉笛は掻き切られていた。
 地を這うような唸《うな》り声が聞こえた。牙の生えた沖田さんの口から、獣の唸りが洩れる。花乃が沖田さんにしがみ付いた。
「あかん! 戻って! 沖田さま、戻ってきて!」
 金色の目の奥に理性が揺れた。でも、一瞬で揺らぎは消える。刀を握る沖田さんの右手が変化した。拳の形が刀の柄に溶ける。腕からじかに妖刀が生えた格好だ。それはもう、人の腕ではない。
「まずい……沖田さん、駄目だ」
 沖田さんは、刀の形の右手を見て、鋭い爪の生えそろう左手を見た。黒猫の耳が楽しげに、ぴんと立っている。爛々《らんらん》と見開かれた目に、興奮と歓喜。沖田さんが顔を上げて笑った。
「嫌や、沖田さま!」
 必死の声も届かない。
 妖気が爆発した。吹き飛ばされて転がる。猫の鳴き声のような獣の咆《ほう》哮《こう》のような、高らかな笑い声が響いた。妖気と殺意と闘志と狂気が吹き荒れる。
「沖田さんが、堕ちた……」
 破れ寺の風景はのっぺりと押し延べられた。朝の光が閉ざされて、逢《おう》魔《ま》が時のような薄暗がりが広がる。
 蒼い環が告げる。妖を狩れ。赤き環を断て。歪んだ命を絶て。愚かなる魂を大いなる環、輪《りん》廻《ね》に還せ。黒猫の化《け》生《しょう》に成り果てた沖田総司を討て。
 逃れられないさだめなのか。絶望ではなく、これはあきらめだ。頭の隅で予測していた。胸の奥で覚悟していた。白虎になりそびれた藤堂さんを討ったときから。
 花乃が立ち上がって涙を拭いた。時尾が脇差を抜いて構えた。
 沖田さんがオレを見て、また笑った。だらりと下げた両腕は、無防備なんかじゃない。がら空きなほどに低く構える。力みが一切ないあの体勢は、沖田さんの癖だ。あの妖は、まぎれもなく沖田さんだ。
 左手の甲が灼熱する。環がオレを叱咤する。オレは立った。妖刀、環《ワ》断《ダチ》の鍔《つば》を弾き飛ばす。オレは刀を抜いた。
 速い。凄まじく速い。
 構えた次の瞬間、沖田さんはもうオレの目の前にいる。オレは反射的に動いた。知った太刀筋だから間に合った。沖田さんの斬撃を弾く。再度の打ち込みが速くて重い。押し切られて、後ろに跳びのく。
 花乃の声が飛んできた。
「沖田さまの動きを止めて! ちょろちょろされたら、術を掛けられへん!」
「無茶を言うなッ」
「無茶でも何でも、余力のある今のうちにどうにかしぃひんと、その速さと膂《りょ》力《りょく》に付いていけへんくなりますわ!」
 指摘は正しい。数え切れないくらい剣を合わせた沖田さんが相手だから、どうにか反応できるだけ。オレは圧倒的に劣勢だ。
 すんでのところを防ぐ。妖刀を生やした腕の一撃はあまりに重い。このままではあと少し、ほんの数合で、オレの腕は音を上げる。
 沖田さんが引いて構える。一瞬、力を溜《た》める。この後に来るのは必ず三段突き。必中必殺の剣技。
 オレは踏み込んだ。ただ一撃に懸ける刺突。互いの必殺剣がぶつかり合う。絡む刃が火花を散らす。金属のこすれる音がする。
 金色の目が間近にある。鍔《つば》迫《ぜ》り合いの距離。互いの剣に鍔はない。刃の根元で押し合うこれを、何と呼ぶべきか。
 目的は達した。沖田さんを捕らえた。
 沖田さんが、がくんと揺れる。背後から術をぶつけられた衝撃だ。沖田さんがたたらを踏む。オレは間合いを開ける。沖田さんの体に水のようなものが巻き付いている。両手で印を結んだ花乃から、気が噴き出している。花乃がまなじりを吊り上げた。
「あかん、弾かれる。よぉ縛らんわ」
 沖田さんが術の戒《いまし》めをまとわり付かせたまま、再び構えた。地を蹴って、低い横薙《な》ぎの一閃。オレは刀で牽《けん》制《せい》しつつ跳びのく。追撃が来る。正面から打ち合う。
 行ける。不十分ながら花乃の術が効いたこの速度なら、互角にやれる。
 沖田さんは手数が多い。斬も突も鮮やかに、対する者の目を奪う。華のある、天才の剣だ。相手を翻弄して、先を読ませない。
 オレは待ち受ける。紙一重で斬を受け、突を躱《かわ》す。反撃の機を狙う。上段から振り下ろされる剣を正面で止める。
 沖田さんの金色の目が、にたりと笑った。
 噛み合った刀を、不意に横ざまに流される。沖田さんの左手が襲ってくる。反射的にその手刀をいなす。徒手の柔術はオレのほうが得意だ。
 激痛が走った。
 化け猫の爪がオレの右の上腕に刺さっている。人間の手なら打ち払えた。爪は想定外だ。
 金色の目が勝ち誇る。鋭利な牙がのぞく。刃の腕がぎらりと光る。剣を振るには近すぎる。獣が獲物に食い付く間合いだ。妖の牙がオレの喉を狙う。
 刹《せつ》那《な》、飛び込んできたもの。
「えいッ!」
 気迫の声を上げて、時尾が脇差を突き込んだ。捨て身か相打ちの覚悟。でなければ、この決死の間合いには入れない。
 オレは転がって逃れた。右腕が爪に裂かれた。時尾の脇差は沖田さんの刀に止められる。力の差は歴然。時尾は弾き飛ばされる。
 沖田さんが時尾に刀を振り上げた。時尾はまっすぐ沖田さんを見上げる。淡い光の膜が時尾から染み出して、沖田さんに巻き付く。
「止まってくなんしょ!」
 束縛の術だ。沖田さんは鬱《うっ》陶《とう》しげに頭を振る。動きは止まらない。両眼は殺気に燃えている。打ち込まれる斬撃を、時尾が辛うじて避ける。
 駄目だ。時尾も花乃も本気じゃない。本気のつもりでも、どこかに手加減がある。沖田さんを斃《たお》したくない、と。
 そりゃそうだ。いくら気の強い女でも、人斬りの男と同じようにはいかない。悪でないもの、大切なものを斬るには、覚悟以上の何かが必要だ。
 だったら、オレがやってやる。オレにしかできない。沖田さん、真剣勝負だ。最初で最後の、命を懸けた斬り合いだ。
 オレは立って、刀を構えた。沖田さんがオレに向き直る。オレは刀を晴眼に据えて待つ。
 いつでも来い。
 沖田さんが動く。流れる足さばき、一瞬の溜め、繰り出される三段突き。
 オレは迎え打つ。ただ一撃の刺突。低くまっすぐに。
 三段突きがオレの左肩を切り裂く。激痛。怯《ひる》むものか。痛みさえ気迫に変える。オレはただ突っ込む。
 左腕に、肉を貫く手応えが走る。
 沖田さんは自分の腹を見下ろした。オレの刀が深々と刺さっている。オレと沖田さんの目が合った。沖田さんは、きょとんとして、小さく口を開いた。その口から血があふれた。
 音もなく景色が変わった。破れ寺、朝の光、血の匂い。刀を引き抜くと、傷口から黒いものがぼとりと落ちた。黒猫だ。沖田さんが倒れる。
「沖田さん!」
 オレは刀を投げ出して沖田さんを抱え起こした。血糊の付いた口は薄く開いて、浅い呼吸を繰り返している。
 時尾が黒猫を抱き上げた。
「見てくなんしょ。背中に環があります。ヤミさんが沖田さまの身代わりに、環を抱えて命を絶たれる役割を引き受けたんだべし」
 猫の腹に、オレが沖田さんに穿《うが》った傷がある。時尾の着物が猫の血で汚れていく。花乃がふらふらと歩み寄った。
「沖田さまは、まだ息をしてはるの?」
「ああ。生きてる」
 沖田さんの愛刀が、一瞬のうちにぼろぼろに錆《さ》びた。裂けた籠《こ》手《て》からのぞく手の甲に、環は存在しない。
 花乃はへたり込んだ。両目から涙があふれ出す。
「沖田さまの阿呆。いけず。心配ばっかりさせんといて」
 弱い呼吸、痩せた体、奇妙に高い体温。天才の剣を操っていた男が、齢《よわい》たった二十五で、この有《あり》様《さま》か。
「なぜ隣で生きてくれないんだ」
 大事なものが、守りたいものが、消えていく。次々と奪われていく。
 もし過去に戻れるとしても、分かれ道に立ったとき、違う選択をすることはあり得ない。オレは試衛館を守りたくて勝先生に従っただろう。山南さんは新撰組から身を引くことを選んだだろう。藤堂さんは伊東さんに行く末を託しただろう。
 でも、沖田さんの病は何だ? こんなどうしようもない死に方があっていいのか? 選ぶ選ばないの問題じゃない。妖に身をやつしてまで生きたがる人を、運命はなぜ病魔で蝕《むしば》んで殺す? あまりに理不尽だ。
 不意に声が聞こえた。
「斎藤、どうした? さっきの物音は何だ? それは……まさか総司か!」
 土方さんが駆け寄ってくる。血と土で汚れるのも構わずに、土方さんは地面に膝を突いて、沖田さんの頬に手を添えた。
「追ってきたらしい。危うく妖になるところだった」
「総司は生きてるんだな? 戦ったのか? 異様な気配がまだ残っている」
「黒猫が沖田さんの身代わりになって死んだ」
 土方さんが、端正な顔を泣き笑いに歪めた。
「馬鹿だな、総司は。どうしておとなしく寝て待てねぇんだよ? なあ、無茶なんかしねぇで、ちょっとでも長く生きろよ。俺のぶんまで」
「土方さん」
「こいつな、親が早くに死んじまって、姉夫婦に育てられた。寂しかったんだろうな。九つで試衛館に住み始めたころは、狂ったようにいつでも木刀を振っていた。だんだん笑うようになったんだ。ずっと笑っててほしくて、近藤さんも俺も総司をかわいがった」
「沖田さんの暗い顔は、オレは知らない。いつも笑ってた」
「そうさ。明るくて生意気なのが、本当の沖田総司だ。病のせいで弱気になったり、妖の力で狂ったり、そんなのは総司らしくねぇんだよ。なあ、何でこいつを治す薬がねぇんだ? 何でこいつがこんなに苦しまなきゃなんねぇんだ?」
 時尾がうつむいた。猫の体に涙が降るのが見えた。花乃が鼻をすすり上げながら、凛とした声で言った。
「うちが沖田さまを千駄ヶ谷に連れて帰ります。宙に浮かせる術がありますし、体に障《さわ》らんと運べますわ。しっかり療養させますさかい、皆はんはさっさと戦を終わらせて、江戸に帰ってきてください」
 できない話だ。嘘はつけない。でも、ほんの少し望みを掛けるくらいは許されるだろうか。
「江戸に戻ったら、必ず沖田さんを訪ねる」
 その日が来るかわからない。来るとしても、何年後になるかわからない。生きて沖田さんと再会できるとは思わない。
 でも、もしもオレが生き延びられるなら、いつか江戸に戻れるように。北でこんな戦いをしてきたと、顔を上げて報告できるように。今、一つの叶わぬ望みを言葉にする。
「また会いたいな、沖田さん」
 沖田さんみたいに笑いたいのに、うまくできない。それでも無理やり微笑もうとした。両目から涙が落ちるだけだった。
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