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五 沖田総司之章:Withdrawal
京都撤退(三)
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品川の港で富士山丸を降りて、先に順動丸で発《た》った永倉さんたちと合流した後、おれたちは江戸からの指令を待ちながら体を休めることになった。
ここ、品川宿は、江戸と京都を結ぶ東海道五十三次のうち、江戸の日本橋を出て最初の宿場だ。
釜《かま》屋《や》という大きな旅籠《はたご》に身を落ち着けると、皆の行動はさまざまだった。宿場町のにぎわいに繰り出す者、近所の寺や神社に出掛けて剣の稽古をする者、怪我の療養のために宿で寝る者、あるいは、ただ眠らざるを得ない者。
おれは花乃さんに訊いてみた。
「東のほうに出てきたのは初めてなんだろう? 永倉さんあたりに案内してもらって、物《もの》見《み》遊《ゆ》山《さん》でもしてきたら? 品川の色街はずいぶん大きいから、女相手の小間物や着物も品ぞろえがいいらしいよ」
「結構どす。遊びに来たのと違いますし、江戸の女《おな》子《ご》の趣味は、うちには合いまへん。それより沖田さま、お体の具合はいかがどす?」
「今日は起きていられる。これくらいの状態が続けば、江戸の中心へ移るにも、自分の足で歩いていけるよ。何、花乃さん、出歩くならおれと一緒がいいの?」
「調子に乗らんといてください。散歩や買い物やったら、一人で行けます。だいたい、今の沖田さまは人混みに出ていける体調と違いますやろ」
「相変わらず手厳しいなあ」
「すぐ無茶したがる沖田さまが悪いのや。散歩やのうて、まずは、お宿のお庭に出てみはりまへん? かわいらしい山茶花《さざんか》が咲いてはりましたえ」
庭のそばは何度か通ったはずだけど、花なんか咲いていただろうか。気にも留めなかった。行こうと返事をしたら、花乃さんは嬉しそうにうなずいて、分厚い綿入れをおれに着せ掛けようとした。
「やめてくれよ、爺くさい格好だけはさせないで。天気もよくて暖かいし、今でも十分きちんと着込んでるからさ」
「あきまへん。少しでも温こぉしてはってください。この綿入れ、病人がおるさかいって無理を言うて、お宿から貸してもろたんどすえ」
「はいはい、どうもありがとう。熱でも出たら着るよ」
「沖田さま!」
「ヤミを抱えてたら温かいから、そんな分厚いのは必要ないってば。さあ、ヤミ、行こう」
おれがヤミを拾いながら腰を上げると、花乃さんは唇を尖らせて、ばさりと綿入れを置いた。
庭には土方さんがいた。木刀を振るっている。顔も腕も、まだ生傷が治り切っていない。全身、汗みずくだ。
土方さんは、ときおり鋭い気息を吐きながら、目に見えない敵と切り結ぶ。上段から袈《け》裟《さ》懸《が》けの一撃。返す刀で薙《な》ぎ払って、すかさず間合いを取る俊敏な足《あし》捌《さば》き。再び踏み込んで、二連の刺突。
ぴたりと静止した土方さんが、木刀を下ろしておれを見て、苦笑した。
「何度やっても、俺では速さが足りねえ。総司お得意の三段突きは、どうやったって体得できそうにねぇな」
「そうかな? 土方さんの剣、昔より無駄がなくなって、だいぶ速くなったと思うよ。もう三十四だっけ? その年で速さを保ってられる、むしろ増してるってのは、鍛錬を怠らない証拠だ。さすがだね」
「絶妙に気に障《さわ》る言い方だが、聞き流しておいてやる。剣の道も色恋と同じで、若くて勢いがあるだけじゃ極められねぇんだよ」
「その二つ、一緒にしないほうがいいと思うけど」
土方さんは唇の片側だけで笑った。そばの木に引っ掛けてあった手拭いを取って、顔や首筋に押し当てる。
おれの斜め後ろで、花乃さんが、ほうと息をついた。いつだったか力説されたけど、土方さんが汗を拭う姿は色気があるらしい。男のおれにはわからない。
呼吸を整えながら、土方さんは苦笑いを浮かべた。
「総司は、色恋はともかく、剣のほうはえらく早熟だったよな。技を習得する速度が、人並み外れて速かった。三段突きだって結局、実戦で使えるのは総司だけだ」
「一度の踏み込みのうちに基本の突きを三回、確実に相手に当てるだけだよ。特別なことをするわけじゃない」
「その速さを特別じゃないと言い切るんだから、おまえはやっぱり天才だよ。斬撃の速さは鍛錬できても、刺突の速さは天性の能力がものを言う」
「刺突の威力の高さなら、斎藤さんのほうが上だよ。三段突きも、習得はしてると思う。斎藤さんは一撃で確実に仕留める剣を好んで、手数を増やしたがらないから、三段突きを使わないけど」
「違ぇねえ。木に吊るした鉄片を木刀で突いて貫通させる。斎藤のあの刺突の威力も、誰にも真似できやしねえ」
そのときだった。おれと花乃さんの背後から、男の声がした。
「噂の斎藤一だが、どこにいるか知らねぇかい?」
近寄られるまで気配を感じなかった。はっとして振り返る。おれの腕の中で、ヤミが首筋の毛を逆立てた。
花乃さんより背が低いくらいの四十路の男が、にっと笑った。武士だ。着流しの砕けた格好だけど、やたらと拵《こしら》えのいい二本差しが羽織の内側にのぞいている。
土方さんが冷たい目をして、男の足下から頭のてっぺんまで、ゆっくりと観察する。男の正面まで進み出ると、華やかな冷笑を浮かべた。
「斎藤一という男は我々の同行者の中にいねぇよ。失礼だが、何かの勘違いでは?」
そうだ、斎藤さんは山口二郎を名乗っている。宿帳にもその名を記した。
男は、土方さんの威圧的な態度にも怯《ひる》む様子がない。おどけるように額を叩いてみせると、からからと笑った。
「こいつぁ、うっかり間違えた。そうだったな。あいつの名は、今じゃ山口二郎だった。本籍の姓を名乗るとは、あいつも里心がついたのかね? それとも、考えるのが面倒だったから、やっつけ仕事で山口にしちまったのか」
おれは反射的にヤミを足下に放って両手を自由にした。花乃さんを背に庇《かば》う格好で、じりりと後ずさる。土方さんは、微笑んだままの目を油断なく細めた。
なぜこの男は、品川に着いたばかりの斎藤さんが山口二郎を名乗っていると知っている?
斎藤さんが変名してから二月も経っていない上、十月の大政奉還からこっち、凄まじい量の情報が日本じゅうを駆け巡っている。京都にいる一人の男が名を変えたことなんか、江戸にいては知りようもないはずだ。
おれはこの男と会ったことはない。土方さんもない。足下から頭まで観察するのは、初対面の相手に対する土方さんの癖だ。
疑惑の視線が集まる中で、男はまた、からからと哄笑した。話をすることに慣れた、張りのある声だ。伊東さんと声の出し方が似ていると気付いて、嫌な心持ちになる。この男、思想家だろうか。そんな人間がなぜ斎藤さんを探している?
と、役者がまた一人増えた。
「どうした、トシ、総司? こちらはお客人か?」
近藤さんが庭に現れた。膏《こう》薬《やく》の匂いが、つんと鼻を突く。おれや土方さんが答えるより、男の舌が回転するほうが早かった。
「俺ぁな、山口一であり斎藤一であり山口二郎である男と、それなりに縁が深い者だ。あいつが京都を引き上げたと聞いたもんで、江戸から駆け付けたのさ。ここに泊まってんだろう? ちょいと会わせておくれよ」
滔々《とうとう》とした語り口に、近藤さんが少し気圧された顔をする。土方さんが前に出た。
「縁が深い、とは? あいつは人間の好き嫌いをしないが、誰にでも簡単に懐く男じゃない。餓鬼のころからそうだった。あいつの知人なら、試衛館の俺たちがまったく知らねえってのは道理が通らねえ」
「俺ぁ、実はおまえさんたちとも関わりが深いんだぜ。六年前の冬、おまえさんたちが試衛館で腕を競い合っていたころ、幕府が京都の治安維持を担う浪士組を募った。その話を最初に持っていったのは、斎藤一と名乗り始めたあいつだっただろう?」
おれも近藤さんも土方さんもうなずいた。よく覚えている。
いつもと少し違う張り詰めた面持ちで、斎藤さんは浪士組の件を話題に上げた。平助が真っ先におもしろそうだと言って、山南さんもいい案だと言った。斎藤さんはほっとした顔をして、自分は一足先に京都に行って待っていると告げた。
おれたちの顔を見渡して、男は得意げに胸を張った。
「斎藤に浪士組の話を教えたのは俺だ。京都に行かせたのも、山口の姓を捨てさせたのも、京都での居候先を世話したのも、全部俺だ。あいつと出会ったのは偶然だったが、いい人材を助けてやったもんだと思ってるよ」
近藤さんが眉間にしわを寄せた。
「助けた? 斎藤が何か仕出かしたのか?」
「京都に発《た》つ直前の斎藤を見て、おかしな感じを受けなかったかい? 例えば、血の匂いがする、とかね」
謎かけのような言い回しに、ぴんと来た。
「浪士組の話をした日、斎藤さんは疲れ切ってた。何かに怯《おび》えてるようにも見えた。あのころ、斎藤さんちのおっかさんが病で寝付いてたからそのせいだろうと思ってたけど、違ったんだね。斎藤さんは罪を犯したのか?」
「沖田さんよ、鋭いじゃねぇか。そうとも、あいつは人を殺したんだ。酒の席で、かっとなっちまってね。京都でさんざんっぱら人を斬ってきた今のおまえさんたちにとっちゃ、酔った上の殺人なんかどうってことねぇだろうが、当時の斎藤はそうじゃなかった」
「あんたは斎藤さんの殺人を目撃したのか? それなのに、斎藤さんを京都に逃がした? なぜ?」
「人斬りの剣を使える男を探していたのさ。幕府の意向でな。六年前のあの時点で、日本じゅうで動乱が起こることはわかっていた。斎藤ほどの使い手を、しょうもない酔っ払いを一人斬った程度の罪でしょっ引くのは道理に合わねぇと判断した」
土方さんが冷ややかな目で男を睨《にら》みつけた。
「それで、幕府の意向を代行するあんたは何者なんだ?」
にたりとして、男が答えようとした。別の声が横合いから飛び込んできた。
「どうして、ここに……」
外から戻ってきたらしい格好の斎藤さんが立ち尽くしている。ああ山茶花《さざんか》が咲いていると、おれはどうでもいいことに目を留めた。
「よう、斎藤。怪我も治ったようで、何よりだ。会津の嬢ちゃんは、なかなかどうして大した術の使い手らしいな」
「……なぜ、あんたが品川に?」
「おまえさんの顔を見に来たに決まってるだろう。ここにいる面々と話をしながら、おまえさんを待っていたところさ。何を話してたかって? おまえさんが斎藤一の名に改めた経緯を知らねえってんで、教えてたんだよ」
ざあっと音がしそうな勢いで、斎藤さんが青ざめた。そんな顔は初めて見た。斎藤さんの唇が震えながら動く。
「勝先生、あんたは……」
「おいおい、俺の名を人前で明かしちまうとは、おまえさんらしからぬ不注意だぜ。まあ、今回に限っては、ちょうど名乗ろうとしていたところだから、どうってことねぇがな。新撰組の面々よ、俺ぁ幕府の軍艦奉行職で、名を勝麟太郎ってんだ」
おれには幕府の官制なんてわからないけど、近藤さんが目を見張って土方さんが顔を引き攣《つ》らせたところを見ると、かなり偉い人間なんだろう。勝さんは二人の反応を愉快そうに眺めた。
ずっと黙っていた花乃さんが、思い詰めた目をして声を上げた。
「勝さま、お尋ね申します。これから新撰組は、江戸の町はどないなるんどす? 京都はいっぺん、戦のために焼けました。人がぎょうさん死なはりました。同じことが江戸で起こったら、京都よりずっと多くの人が死ぬんと違います?」
「おや、おまえさんは京《きょう》女《おんな》か。江戸の町なんぞいけ好かねぇだろうに、江戸の町ごと全部心配してやるほど、新撰組の行く末や沖田の命が大事かい?」
「へえ、大事どす」
勝さんは、何がおかしいのか、声を上げて笑った。
「悪いようにはしねぇよ。新撰組には活躍の機会を用意する。江戸に戦火は持ち込ませねえ。そのために働いてもらうから、新撰組の面々よ、おまえさんたちも気を引き締めておけや。おい、斎藤」
呼ばれた斎藤さんが、びくりとする。勝さんはお構いなしで、斎藤さんの左腕をつかんだ。反射的に、斎藤さんはその手を振り払う。
「利き腕は……」
「嫌がるんだったな。すまんすまん。さて、再会を祝して酒でも奢ってやるよ。俺もまたぞろ忙しくなりそうで、今日くらいしか時間を作ってやれないんでね」
言うだけ言って、勝さんはさっさと歩き出す。斎藤さんは黙って勝さんに従った。
「何だったんだ、一体?」
つぶやくおれに、誰も答えを持ち合わせない。ヤミだけが退屈そうにあくびをして、にゃあ、と鳴いた。
ここ、品川宿は、江戸と京都を結ぶ東海道五十三次のうち、江戸の日本橋を出て最初の宿場だ。
釜《かま》屋《や》という大きな旅籠《はたご》に身を落ち着けると、皆の行動はさまざまだった。宿場町のにぎわいに繰り出す者、近所の寺や神社に出掛けて剣の稽古をする者、怪我の療養のために宿で寝る者、あるいは、ただ眠らざるを得ない者。
おれは花乃さんに訊いてみた。
「東のほうに出てきたのは初めてなんだろう? 永倉さんあたりに案内してもらって、物《もの》見《み》遊《ゆ》山《さん》でもしてきたら? 品川の色街はずいぶん大きいから、女相手の小間物や着物も品ぞろえがいいらしいよ」
「結構どす。遊びに来たのと違いますし、江戸の女《おな》子《ご》の趣味は、うちには合いまへん。それより沖田さま、お体の具合はいかがどす?」
「今日は起きていられる。これくらいの状態が続けば、江戸の中心へ移るにも、自分の足で歩いていけるよ。何、花乃さん、出歩くならおれと一緒がいいの?」
「調子に乗らんといてください。散歩や買い物やったら、一人で行けます。だいたい、今の沖田さまは人混みに出ていける体調と違いますやろ」
「相変わらず手厳しいなあ」
「すぐ無茶したがる沖田さまが悪いのや。散歩やのうて、まずは、お宿のお庭に出てみはりまへん? かわいらしい山茶花《さざんか》が咲いてはりましたえ」
庭のそばは何度か通ったはずだけど、花なんか咲いていただろうか。気にも留めなかった。行こうと返事をしたら、花乃さんは嬉しそうにうなずいて、分厚い綿入れをおれに着せ掛けようとした。
「やめてくれよ、爺くさい格好だけはさせないで。天気もよくて暖かいし、今でも十分きちんと着込んでるからさ」
「あきまへん。少しでも温こぉしてはってください。この綿入れ、病人がおるさかいって無理を言うて、お宿から貸してもろたんどすえ」
「はいはい、どうもありがとう。熱でも出たら着るよ」
「沖田さま!」
「ヤミを抱えてたら温かいから、そんな分厚いのは必要ないってば。さあ、ヤミ、行こう」
おれがヤミを拾いながら腰を上げると、花乃さんは唇を尖らせて、ばさりと綿入れを置いた。
庭には土方さんがいた。木刀を振るっている。顔も腕も、まだ生傷が治り切っていない。全身、汗みずくだ。
土方さんは、ときおり鋭い気息を吐きながら、目に見えない敵と切り結ぶ。上段から袈《け》裟《さ》懸《が》けの一撃。返す刀で薙《な》ぎ払って、すかさず間合いを取る俊敏な足《あし》捌《さば》き。再び踏み込んで、二連の刺突。
ぴたりと静止した土方さんが、木刀を下ろしておれを見て、苦笑した。
「何度やっても、俺では速さが足りねえ。総司お得意の三段突きは、どうやったって体得できそうにねぇな」
「そうかな? 土方さんの剣、昔より無駄がなくなって、だいぶ速くなったと思うよ。もう三十四だっけ? その年で速さを保ってられる、むしろ増してるってのは、鍛錬を怠らない証拠だ。さすがだね」
「絶妙に気に障《さわ》る言い方だが、聞き流しておいてやる。剣の道も色恋と同じで、若くて勢いがあるだけじゃ極められねぇんだよ」
「その二つ、一緒にしないほうがいいと思うけど」
土方さんは唇の片側だけで笑った。そばの木に引っ掛けてあった手拭いを取って、顔や首筋に押し当てる。
おれの斜め後ろで、花乃さんが、ほうと息をついた。いつだったか力説されたけど、土方さんが汗を拭う姿は色気があるらしい。男のおれにはわからない。
呼吸を整えながら、土方さんは苦笑いを浮かべた。
「総司は、色恋はともかく、剣のほうはえらく早熟だったよな。技を習得する速度が、人並み外れて速かった。三段突きだって結局、実戦で使えるのは総司だけだ」
「一度の踏み込みのうちに基本の突きを三回、確実に相手に当てるだけだよ。特別なことをするわけじゃない」
「その速さを特別じゃないと言い切るんだから、おまえはやっぱり天才だよ。斬撃の速さは鍛錬できても、刺突の速さは天性の能力がものを言う」
「刺突の威力の高さなら、斎藤さんのほうが上だよ。三段突きも、習得はしてると思う。斎藤さんは一撃で確実に仕留める剣を好んで、手数を増やしたがらないから、三段突きを使わないけど」
「違ぇねえ。木に吊るした鉄片を木刀で突いて貫通させる。斎藤のあの刺突の威力も、誰にも真似できやしねえ」
そのときだった。おれと花乃さんの背後から、男の声がした。
「噂の斎藤一だが、どこにいるか知らねぇかい?」
近寄られるまで気配を感じなかった。はっとして振り返る。おれの腕の中で、ヤミが首筋の毛を逆立てた。
花乃さんより背が低いくらいの四十路の男が、にっと笑った。武士だ。着流しの砕けた格好だけど、やたらと拵《こしら》えのいい二本差しが羽織の内側にのぞいている。
土方さんが冷たい目をして、男の足下から頭のてっぺんまで、ゆっくりと観察する。男の正面まで進み出ると、華やかな冷笑を浮かべた。
「斎藤一という男は我々の同行者の中にいねぇよ。失礼だが、何かの勘違いでは?」
そうだ、斎藤さんは山口二郎を名乗っている。宿帳にもその名を記した。
男は、土方さんの威圧的な態度にも怯《ひる》む様子がない。おどけるように額を叩いてみせると、からからと笑った。
「こいつぁ、うっかり間違えた。そうだったな。あいつの名は、今じゃ山口二郎だった。本籍の姓を名乗るとは、あいつも里心がついたのかね? それとも、考えるのが面倒だったから、やっつけ仕事で山口にしちまったのか」
おれは反射的にヤミを足下に放って両手を自由にした。花乃さんを背に庇《かば》う格好で、じりりと後ずさる。土方さんは、微笑んだままの目を油断なく細めた。
なぜこの男は、品川に着いたばかりの斎藤さんが山口二郎を名乗っていると知っている?
斎藤さんが変名してから二月も経っていない上、十月の大政奉還からこっち、凄まじい量の情報が日本じゅうを駆け巡っている。京都にいる一人の男が名を変えたことなんか、江戸にいては知りようもないはずだ。
おれはこの男と会ったことはない。土方さんもない。足下から頭まで観察するのは、初対面の相手に対する土方さんの癖だ。
疑惑の視線が集まる中で、男はまた、からからと哄笑した。話をすることに慣れた、張りのある声だ。伊東さんと声の出し方が似ていると気付いて、嫌な心持ちになる。この男、思想家だろうか。そんな人間がなぜ斎藤さんを探している?
と、役者がまた一人増えた。
「どうした、トシ、総司? こちらはお客人か?」
近藤さんが庭に現れた。膏《こう》薬《やく》の匂いが、つんと鼻を突く。おれや土方さんが答えるより、男の舌が回転するほうが早かった。
「俺ぁな、山口一であり斎藤一であり山口二郎である男と、それなりに縁が深い者だ。あいつが京都を引き上げたと聞いたもんで、江戸から駆け付けたのさ。ここに泊まってんだろう? ちょいと会わせておくれよ」
滔々《とうとう》とした語り口に、近藤さんが少し気圧された顔をする。土方さんが前に出た。
「縁が深い、とは? あいつは人間の好き嫌いをしないが、誰にでも簡単に懐く男じゃない。餓鬼のころからそうだった。あいつの知人なら、試衛館の俺たちがまったく知らねえってのは道理が通らねえ」
「俺ぁ、実はおまえさんたちとも関わりが深いんだぜ。六年前の冬、おまえさんたちが試衛館で腕を競い合っていたころ、幕府が京都の治安維持を担う浪士組を募った。その話を最初に持っていったのは、斎藤一と名乗り始めたあいつだっただろう?」
おれも近藤さんも土方さんもうなずいた。よく覚えている。
いつもと少し違う張り詰めた面持ちで、斎藤さんは浪士組の件を話題に上げた。平助が真っ先におもしろそうだと言って、山南さんもいい案だと言った。斎藤さんはほっとした顔をして、自分は一足先に京都に行って待っていると告げた。
おれたちの顔を見渡して、男は得意げに胸を張った。
「斎藤に浪士組の話を教えたのは俺だ。京都に行かせたのも、山口の姓を捨てさせたのも、京都での居候先を世話したのも、全部俺だ。あいつと出会ったのは偶然だったが、いい人材を助けてやったもんだと思ってるよ」
近藤さんが眉間にしわを寄せた。
「助けた? 斎藤が何か仕出かしたのか?」
「京都に発《た》つ直前の斎藤を見て、おかしな感じを受けなかったかい? 例えば、血の匂いがする、とかね」
謎かけのような言い回しに、ぴんと来た。
「浪士組の話をした日、斎藤さんは疲れ切ってた。何かに怯《おび》えてるようにも見えた。あのころ、斎藤さんちのおっかさんが病で寝付いてたからそのせいだろうと思ってたけど、違ったんだね。斎藤さんは罪を犯したのか?」
「沖田さんよ、鋭いじゃねぇか。そうとも、あいつは人を殺したんだ。酒の席で、かっとなっちまってね。京都でさんざんっぱら人を斬ってきた今のおまえさんたちにとっちゃ、酔った上の殺人なんかどうってことねぇだろうが、当時の斎藤はそうじゃなかった」
「あんたは斎藤さんの殺人を目撃したのか? それなのに、斎藤さんを京都に逃がした? なぜ?」
「人斬りの剣を使える男を探していたのさ。幕府の意向でな。六年前のあの時点で、日本じゅうで動乱が起こることはわかっていた。斎藤ほどの使い手を、しょうもない酔っ払いを一人斬った程度の罪でしょっ引くのは道理に合わねぇと判断した」
土方さんが冷ややかな目で男を睨《にら》みつけた。
「それで、幕府の意向を代行するあんたは何者なんだ?」
にたりとして、男が答えようとした。別の声が横合いから飛び込んできた。
「どうして、ここに……」
外から戻ってきたらしい格好の斎藤さんが立ち尽くしている。ああ山茶花《さざんか》が咲いていると、おれはどうでもいいことに目を留めた。
「よう、斎藤。怪我も治ったようで、何よりだ。会津の嬢ちゃんは、なかなかどうして大した術の使い手らしいな」
「……なぜ、あんたが品川に?」
「おまえさんの顔を見に来たに決まってるだろう。ここにいる面々と話をしながら、おまえさんを待っていたところさ。何を話してたかって? おまえさんが斎藤一の名に改めた経緯を知らねえってんで、教えてたんだよ」
ざあっと音がしそうな勢いで、斎藤さんが青ざめた。そんな顔は初めて見た。斎藤さんの唇が震えながら動く。
「勝先生、あんたは……」
「おいおい、俺の名を人前で明かしちまうとは、おまえさんらしからぬ不注意だぜ。まあ、今回に限っては、ちょうど名乗ろうとしていたところだから、どうってことねぇがな。新撰組の面々よ、俺ぁ幕府の軍艦奉行職で、名を勝麟太郎ってんだ」
おれには幕府の官制なんてわからないけど、近藤さんが目を見張って土方さんが顔を引き攣《つ》らせたところを見ると、かなり偉い人間なんだろう。勝さんは二人の反応を愉快そうに眺めた。
ずっと黙っていた花乃さんが、思い詰めた目をして声を上げた。
「勝さま、お尋ね申します。これから新撰組は、江戸の町はどないなるんどす? 京都はいっぺん、戦のために焼けました。人がぎょうさん死なはりました。同じことが江戸で起こったら、京都よりずっと多くの人が死ぬんと違います?」
「おや、おまえさんは京《きょう》女《おんな》か。江戸の町なんぞいけ好かねぇだろうに、江戸の町ごと全部心配してやるほど、新撰組の行く末や沖田の命が大事かい?」
「へえ、大事どす」
勝さんは、何がおかしいのか、声を上げて笑った。
「悪いようにはしねぇよ。新撰組には活躍の機会を用意する。江戸に戦火は持ち込ませねえ。そのために働いてもらうから、新撰組の面々よ、おまえさんたちも気を引き締めておけや。おい、斎藤」
呼ばれた斎藤さんが、びくりとする。勝さんはお構いなしで、斎藤さんの左腕をつかんだ。反射的に、斎藤さんはその手を振り払う。
「利き腕は……」
「嫌がるんだったな。すまんすまん。さて、再会を祝して酒でも奢ってやるよ。俺もまたぞろ忙しくなりそうで、今日くらいしか時間を作ってやれないんでね」
言うだけ言って、勝さんはさっさと歩き出す。斎藤さんは黙って勝さんに従った。
「何だったんだ、一体?」
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