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四 斎藤一之章:Betrayal

油小路事件(四)

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 高台寺党は、日に日に気運を高めていく。伊東さんは出ずっぱりで、武家や公家、大《おお》店《だな》の商家や由緒ある仏閣の住職、大名から学者まで、誰とでも会って話す。
 伊東さんを護衛する当番が組まれた。オレの出番がいちばん多い。その理由を、伊東さんは無邪気に語った。
「斎藤くんの腕を信用しているのだよ。あなたの左手の剣は、無敵の剣だ。無駄がなくて美しい。私はその太刀筋に憧れているのだよ。私はこのとおり、持って回った話し方をしてしまうだろう? 本当は斎藤くんの剣のように簡潔でありたいのだがね」
「伊東さんに誉めてもらうような、上等なものじゃない」
「斎藤くんは謙遜が過ぎる。その剣の端正さも、物を見る目の鋭さも、もっと胸を張ってよい特別な能力だ」
 伊東さんは善良すぎる。屈託のない言葉を掛けられるたびに、オレの中が伽《が》藍《らん》洞《どう》になっていく。いちいち何かを感じてもいられない。オレは任務をこなすだけだ。祇園に足を運ぶことはやめた。くたびれることはしない。
 十日ほど、そんな時間が過ぎた。夕刻、珍しくオレは留守役だった。藤堂さんは風邪気味だと言って、庫《く》裏《り》の奥で休んでいる。雑炊を持っていったら、案外ぴんぴんしていた。
「ありがとな、斎藤。早く起きられるようになって伊東さんの役に立たなけりゃ、示しが付かねぇよな。本当に忙しくなるのはこれからだ。斎藤も、休めるときには休んでおけよ」
 目の大きな、年より若く見える笑顔だ。額に白い傷痕がある。このごろ怪我をしたという右腕に、晒《さら》し木綿を巻いている。
 後ろめたくて、目を背けたい。二度と見られなくなるから、目に焼き付けたい。笑顔に応えて笑ってみせたい。オレは藤堂さんのようにうまく笑えない。
「お大事に」
 それだけ言って立ち上がった。庫裏を出ながら、自分を罵《ののし》る。何が「お大事に」だ。これからオレは月真院を離れる。子どものころからの友を裏切って、死に追いやる。そのくせ体を気遣うふりなんかしやがって。
 荷物を持たず刀を差すだけの格好で、オレは門のほうへ歩く。冷たい夜だ。月が冴え冴えと明るい。
 門のそば、月光の中に人影があった。オレはびくりと足を止めた。
「斎藤さま」
 時尾だ。ささやくような声音でさえ、虫の音ひとつしない冬の庭には響いてしまう。オレは素早く時尾に近付いた。
「何の用だ?」
 問いながら、肩を押して門の外に連れ出す。眉尻を下げた時尾が、間近にオレを見上げた。
「お殿さまから言い付かったなし。お殿さまはこのごろ具合《あんべ》が優れず、夢見もよくねぇのです。新撰組や高台寺党が夢に出てきて、中身は覚えていねぇけんじょ悪い予感がする、と。それに、やっぱりこのあたりは妖の匂いが強ぇ気がすっから、わたし……」
 オレは時尾の腕をつかんだ。折れそうに細い。引っ張って歩き出す。時尾がつんのめりながら足を交わす。
「さ、斎藤さま? 何《な》如《じょ》したがよ?」
「いいから来い」
「だけんじょ、高台寺党のそばに妖の気配があって、このままでは環を持たねぇ人たちが危険だなし」
「オレは戻れない」
「なぜですか? 斎藤さまは、伊東さまたちのお仲間だべし」
「違う」
 オレは立ち止まった。暗がりの袋小路だ。腕をつかんだまま、時尾を見下ろす。この女を生きて帰すのは危うい。斬るか。ここで、誰にも目撃されないうちに。
 時尾がまっすぐな目をオレに向けた。
「何があったのがよ? わたしでよければ、聞かせくなんしょ。斎藤さまのお力になりてぇと思います」
 ならば、今すぐ死ね。
 刀を抜くのは簡単だ。いや、女の喉を掻き切るだけなら、脇差で十分だ。
「オレは間者だ。高台寺党を探って、裏切って、新撰組に戻る」
 なぜ打ち明ける? なぜ斬らない? そして、時尾はなぜオレから逃げようとしない? なぜ目をそらすことすらしない?
「斎藤さま、つれぇお役目だべし。だから、この間から、斎藤さまはそだに苦しそうな目をしておられんだ。わたし、何も察することもできねぇで、馬鹿だなし。お許しくなんしょ」
 なぜ心配する? なぜ謝る?
 力を緩めることができずに、手が震えた。時尾が顔をしかめる。オレの手が痛いのだと、頭の隅では理解している。でも体が、思うように動かない。
「来い。屯所に連行する」
 時尾は黙ってうなずいた。
 東山の坂を下りて、東大路を横切る。路地を突っ切って、鴨川の畔《ほとり》に出る。松原通の橋を渡って、まっすぐに進む。壬生《みぶ》より手前、堀川通を南下する。塩《しお》小《こう》路《じ》堀川にある不動堂村の新撰組屯所まで、おおよそ半刻、時尾の腕を引いたまま歩いた。
 一人で駆け抜けるべき道だった。顔を上げては進めないはずだった。寒い夜道に、月明かりひとつほしくなかった。
 それなのに、オレの手に伝わる時尾のぬくもりが、あまりに柔らかい。言葉は交わさない。けれど、一人ではない。
 なぜ?
 自分に問い続けながら、唇を噛む。皮膚はとっくにずたずただ。舌先に血の味がする。痛みは今さら感じない。
 新撰組の屯所は、壬生から西本願寺へ、さらに不動堂村へと移っている。最後の移転は今年の六月だった。オレが不動堂村の屯所に足を踏み入れるのは初めてだ。門衛の誰《すい》何《か》に答えるうちに、土方さんが門から出てきた。
「戻ったか、斎藤。ご苦労だった。すぐに中へ……」
 土方さんの視線が、オレの半歩後ろにいる時尾へと動いた。どういうことだと、土方さんの目がオレに問う。時尾が何か言いかけた。オレは少し声を張った。
「会津公が遣わした戦力だ」
「どういうことだ? いや、確かこの娘、環を持つ者だったな。新撰組の行く手に、また環の力を操る者が現れるという意味か?」
 わからない。答えられない。間者として動くオレの姿を目撃されたから連れてきたと言えば、時尾は斬られる。とっさに庇《かば》った意味がわからない。女だから斬りたくないのか。
 時尾の扱いは、近藤さんが決めた。
「おまえは時尾といったか」
「はい。高木時尾と申します」
「女の身でありながら、ご苦労だったな。今日はもう遅い。会津公からの客人に対して申し訳ないが、住み込みの女たちの小屋で休んでもらえるか? 何せ、荒くれ者ばかりの大所帯だ。女は女で一っ所にいてくれないと、身を守ってやれん」
「ありがとうごぜぇます。もしわたしにできることがあったら、おっしゃってくなんしょ。傷を治すこと、妖の気配を探ること、料理や裁縫や掃除でも、皆さまのために働きますので」
「感謝する。今夜のところは、とりあえず休んでくれ。我々は話し合いが長引くかもしれん」
 時尾に話を聞かせるつもりはないと、近藤さんは言外に告げた。時尾も理解したらしく、ぺこりと頭を下げた。ちょうど通りかかった島田さんに、女小屋まで連れていってもらう。
 オレは近藤さんの居室に迎え入れられた。部屋には近藤さんのほかに、土方さんと永倉さん、原田さんがいる。沖田さんは体調が思わしくなく、屯所とは別の場所で療養している。源さんは若手に読み書きを教授する時間だそうだ。
 高台寺党に関して、覚えてきたとおりに、オレはしゃべった。今なら伊東さんが誰の誘いにも応じること。高台寺党の面々の様子。大事が起こった場合の出動態勢と役割分担。伊東さんが外部の誰と通じているか、誰と連携したがっていたか。
 近藤さんが笑顔を見せた。
「よくやり遂げてくれた。苦労をかけたな、斎藤。今日はここでゆっくり休め」
 試衛館に通い始めたころを思い出した。特別に厳しい稽古に耐えた後、近藤さんは必ずあの笑顔でオレを誉めた。強い男に努力を認められることが、幼いオレには誇らしかった。
 今は何も感じない。
「ここでは休めない。オレはここにいないほうがいい」
 土方さんが血相を変えた。
「追手が来るかもしれないという意味か? 月真院を抜け出すとき、誰かに怪しまれたのか?」
「怪しまれてはいない。でも、オレの居場所を探して、誰かが来るかもしれない」
「なるほど、当然か。斎藤が間者だったことを知れば、高台寺党は報復手段に出るかもしれねえ。粛《しゅく》清《せい》を果たすまで、斎藤はどこかに身を隠したほうがいいな。会津藩の金《こん》戒《かい》光《こう》明《みょう》寺《じ》はちょいと遠い。福井藩か紀州藩を当たるか」
「もう一つ」
「何だ? 懸念していることがあるなら、何でも言え」
「オレは斎藤一の名を捨てる」
 土方さんが絶句した。近藤さんは眉間にしわを刻んだ。原田さんがオレの顔をのぞき込んだ。永倉さんが怒った顔をした。
「何だそりゃ? 夏に銭取橋で俺が言ったことが、そんなに引っ掛かってたのか?」
「そうじゃない」
「それ以外の何だってんだよ? 一本気の一じゃなく、二心ありの二郎と名乗るつもりなんだろう?」
「名を変えれば、斎藤一は新撰組にいないと言って、嘘じゃなくなる」
「屁理屈はどこで覚えた? おまえらしくない。おまえはそんな男じゃないはずだ」
 オレにつかみかかろうとする永倉さんを、原田さんが羽交い絞めにした。オレは近藤さんを見た。頼んでおきたいことがある。
「伊東さんたちを殺す日は、オレも呼んでほしい」
 おしまいまで見届ける。刀を抜く覚悟もある。藤堂さんも伊東さんも斬ろう。どうせ、この手はとっくに血に染まっている。


 十一月十八日は、日が暮れると、ひどく冷え込んだ。近藤さんの招きに応じた伊東さんは、たった一人でやって来た。新撰組の屯所から程近い、町屋造りの一軒家。近藤さんの妾《めかけ》が住む家だ。
 旧交を深めるささやかな宴が、襖《ふすま》の向こうでおこなわれている。オレと永倉さん、原田さん、時尾の四人は、薄闇の中で息を潜めて会話を聞いた。
 伊東さんは相変わらず善良だった。
「ようやく近藤さんや土方さんと会うことができた。三月以来だ。あのときは私の身勝手で新撰組の調和を乱してしまい、本当に申し訳なかった」
 謝罪に、近藤さんが正直な言葉を返す。
「困った、と思った。平助や斎藤がいなくなった穴は大きくてな。しかし、我々はお互い、うまいやり方を知らんのだ。武士である以上、曲げられないもの、貫かねばならないものがある」
 最初はぎこちなさがあった。土方さんがそつのないことを言って、次第に緊張感がほぐれていく。
 オレと土方さんで、筋書きは綿密に作ってあった。何を言えば、伊東さんが乗ってくるか。どう振る舞えば、伊東さんが近藤さんたちを信用するか。読みはことごとく当たっている。この暗殺は造作ない。
 政治の話になると、近藤さんと土方さんは黙った。曲げられない主張がある。だからこそ、議論の席では伊東さんと戦わない。伊東さんだけが熱心に語っている。
「近藤さん、土方さん、確かに武力は必要だ。ただし、それは日本の中で争うためのものじゃない。欧米諸国から我が国の海を守らないといけない。私たち武士は早急に、持てる武力を束ねて、強い海軍を創設しなければならない」
 そのためには、蛤《はまぐり》御《ご》門《もん》の変で対立した過激派の力も借りたい。彼らの罪を赦《ゆる》して、手を取り合いたい。それが伊東さんの主張だ。そして、新撰組の古参兵が絶対に妥協できない点だ。
 オレの隣で原田さんが顔をしかめた。
「伊東は池田屋事件も蛤御門の戦いも経験してねえ。命懸けで長州と戦ったことがねぇんだ。だから、あんな腑抜けたことを言える」
 原田さんの向こう側で、時尾が眉を曇らせている。道着姿で、傍らには薙刀《なぎなた》がある。容《かた》保《もり》公に命じられて新撰組預かりの身となった時尾は、オレの潜伏先と新撰組の屯所とを行き来する連絡役として最適だ。
 しかし、暗殺や粛《しゅく》清《せい》なんて汚れ仕事に、女の時尾が首を突っ込まなくていい。来るなと再三言った。時尾は譲らなかった。新撰組の邪魔はしない、でも万一に備えて待機したい、と。
 伊東さんが不意に黙った。しばらくあって、苦しそうに言った。
「斎藤くんがいなくなって、ほうぼう探した。殺されたという噂を耳にしたが、事実なんだろうか? 私は斎藤くんの腕も人柄も頼りにしていた」
 近藤さんは応えない。嘘が苦手な人だ。代わりに土方さんが、筋書きどおりのせりふを口にする。
「斎藤が仇として狙われる可能性も高いだろう。ずっと汚れ仕事をやらせてきた。あちこちから恨みを買っている」
 オレが殺されたという噂は、土方さんが流した。斎藤一の名が死んだ代わりに、オレは山口二郎と名乗っている。
 近藤さんが話題を変えた。
「高台寺党の面々は、どんなふうに過ごしている? 袂《たもと》を分かったとはいえ、皆、俺の教え子のようなものだ。やはり、どうにも気になってな」
 伊東さんが明るい声音を取り繕《つくろ》った。高台寺党は、変わらない日々を送っているらしい。伊東さんの護衛を当番で回しながら、空いた時間に剣術稽古や学問、英語の勉強をする。酒量は減ったんだろうか。藤堂さんの風邪は治っただろうか。
「斎藤」
 永倉さんに呼ばれた。反射的に顔を上げてから、目を逸らす。
「違う」
「山口二郎と呼べってか? 生《あい》憎《にく》だが、俺らはみんな頭が悪くてな、愚か者の目には、おまえは斎藤一にしか見えねぇんだよ。何度言わせるんだ」
「名を変えた意味がない」
「だからどうした? それより、伊東はいつもあんな調子だったのか?」
「いや、普段はもっと沈んでいた。今日は明るい」
 原田さんが腕組みをした。
「面の皮の厚そうな男だと思ってたんだが、勘違いだったな。ちびっこい犬みてぇに虚勢を張って、ずいぶんとよく鳴いてやがる。肝が冷えて仕方ねぇんだろう」
「でも、伊東さんは一人で来た。それが精いっぱいの虚勢だとしても」
 宴は夜更けまで続いた。話題は尽きなかった。友人同士のように、近藤さんと土方さんと伊東さんは笑い合って語り合う。
 部屋がしんしんと冷えてきた。手足の指をさすって温めながら、オレたちは待った。そして時が来た。
 伊東さんが暇《いとま》を告げたのは夜四ツに差し掛かるころだった。油《あぶらの》小《こう》路《じ》通を行く後ろ姿を、オレたちは尾行した。左右には民家の板塀が続いている。外灯をともす家がぽつぽつとある。尾行するには不利な明るさだ。
 不意に、ぴしりと音がした。小枝を踏み折る音だろうか。音を立てたのはオレたちではなく、伊東さんでもなかったらしい。伊東さんが足を止めた。板塀に目を向ける。
 その瞬間、板塀の隙間から槍の穂先が飛び出した。どすっと重い音がした。槍が伊東さんの腹に刺さっている。
 板塀の陰から男たちが飛び出した。新撰組隊士を三人、槍を持たせて潜ませていた。
 槍に裂かれた腹を押さえて、伊東さんが逃げ出した。追撃する隊士の刀をかいくぐる。板塀を背に、刀に手を掛ける。伊東さんも相当な使い手だ。隊士は迂《う》闊《かつ》に手を出せない。
 オレは駆けた。じりじりと逃げる伊東さんの正面に回り込む。
 小さな寺の前だった。山門に焚かれた篝《かがり》火《び》が、オレと伊東さんを照らす。伊東さんが目を見張った。オレは刀を抜いた。切っ先を伊東さんに向ける。
 澄んだ金属音がした。伊東さんが抜き放った刀が、オレの切っ先を逸らした。それだけだ。反撃と呼ぶにはか弱い。オレの手にはまだ刀がある。伊東さんが板塀を背に、ずるずると座り込む。
「これは……こんな冗談をやらかすものではないだろう、斎藤くん。冗談はよしてくれ。私は、ただ……」
 伊東さんの腹から噴き出す血の量が尋常ではない。間もなく死ぬだろう。伊東さんはじっとオレを見上げている。顔が苦痛に歪んでいる。せわしない呼吸が白く漂《ただよ》う。次第に表情が緩慢になっていく。
 呆《あっ》気《け》ないと思った。悲しみも苦しみも感じない。寒さも忘れた。オレはもう、人ではないのかもしれない。死にゆく伊東さんを平然と眺めている。
 伊東がかすかに唇の端を持ち上げた。
「いくらなんでも、卑劣に過ぎるぞ」
 かすれる声がささやいた。直後、伊東さんは、がくりとのけぞって動かなくなった。誰かが嘆息する。オレの部下、三番隊隊士が物陰から姿を現した。運べ、とオレは命じる。
 伊東さんの死体は油小路七条の辻に置かれた。明かりが届いて、遠くからでも目立つ。死体は、高台寺党をおびき寄せる餌だ。辻を囲んで四方に、合計三十人ほどが待ち伏せている。死体から流れ出た血が凍っていく。
 永倉さんと時尾が、オレと同じ東南角に身を潜めている。永倉さんがオレの肩を揺さぶろうとした。反射的に振り払う。永倉さんは懲りずに、オレの肩をつかんだ。
「平助は見逃す。絶対だ。近藤さんとトシさんにも、了承をもらってる。仲間殺しなんかしたくねえ。俺は伊東が苦手だったが、殺してぇと思ったことはなかった」
「憎い相手だけ殺すなら、京都はこんなに荒れてない」
 永倉さんは眉を逆立てた。目を逸らすと、時尾がオレを見ていた。大きな目に涙がたまっている。オレは時尾からも目を逸らす。
 やがて足音が聞こえた。来た、と皆に告げる。息を殺して待つ。
 先頭を駆けてくる、毬《まり》の弾むような足取り。小柄な影は藤堂さんだ。高台寺党は藤堂さんを含めて七人、伊東さんの死体へと走り寄った。
 ざわりと、オレの背筋に悪寒が駆け抜けた。単なる寒さじゃない。
「妖の匂い」
「斎藤さま、こっだことって……」
 時尾を振り返る。時尾が口元を覆って見つめる先を追う。藤堂さんが顔を上げた。両眼が、はっきりと、赤く光っている。人間の眼光ではあり得ない。
 月真院は妖の気配が濃いと、時尾が言った理由。藤堂さんが風邪と称して寝込んでいた理由。信じたくない。藤堂さんという存在が妖に近付いていたせいだなんて。
 藤堂さんはぐるりとあたりを見渡した。
「罠かよ、くそ。飛び込むまで気付かねぇとは、俺も焼きが回ってるな。出てきやがれ、てめぇら!」
 風圧を感じるほどの気迫だ。ただの気迫じゃない。隊士たちがよろめく。倒れ伏す者、嘔吐する者もいる。妖気だ。堕ちた妖が発する、人と相容れない気迫だ。
 いつからだ? いつ、藤堂さんは環の力に手を出した? 気付かなかった。オレはあまりに鈍っていた。同じ場所で過ごしていたのに。
 永倉さんが、ふらつきながら立ち上がった。
「平助! おまえ、何やってる!」
 藤堂さんがこっちを向いた。オレは進み出た。愕《がく》然《ぜん》とした藤堂さんが、にわかに牙を剥《む》いた。笑えば白い歯が見えていた口に、牙が並んでいる。
「斎藤、てめぇ、裏切りやがったのか」
「いつもの役目だ」
「ふざけんなよ。その役目ってやつに嫌気が差して伊東さんに付いてきたんじゃねぇかと、俺は本気で信じてた。てめぇが死んだらしいって聞いて、俺がもっと早く力を得ていればと、どんだけ悔やんだと思ってんだよッ!」
 妖気が暴風になって吹きすさぶ。永倉さんが刀を杖にしてすがった。
「待て、やめてくれ! 平助、話を聞け! 近藤さんもトシさんも、おまえを殺すつもりはない。戻ってこい。頼む、戻ってきてくれ!」
 やけっぱちのような大声で、藤堂さんは笑った。
「永倉さん、お人好しすぎるって。二番隊組長がそんな調子じゃ、隊士に示しがつかねぇだろ。脱走者は、どんな理由があれ、許しちゃならねえ。俺らもそういう覚悟で、伊東さんを選んだんだからさ」
 藤堂さんは右の袖を引き千切った。上腕に、赤い環がぎらぎらと輝いている。永倉さんがくずおれた。新撰組も高台寺党も、藤堂さんの妖気に当てられている。立っていられるのは、オレと時尾しかいない。
 オレは刀を抜いた。時尾が薙刀《なぎなた》をしごいた。永倉さんがオレの袴《はかま》の裾《すそ》を引いた。
「平助を救ってくれ。平助は仲間だ。殺し合いたくねえ。妖になってほしくねえ。もとに戻してやってくれ」
「無理だ。環は消せない。環を断つことは、命を絶つことだ」
「斎藤、おまえ……やめろよ。おまえまで妖みてぇな目をすんじゃねえ」
「今さらだ」
 妖刀、環《ワ》断《ダチ》の鍔《つば》を外す。左手の甲、環のある場所がかすかに疼《うず》く。環断がオレの気を食って、蒼く輝き出す。
 爆発するような妖気が、藤堂さんの体から噴き上がった。油小路七条の辻が歪む。景色がのっぺりと押し延べられて、倒れ伏す人々の姿が消える。藤堂さんが創る妖の空間に、オレと時尾だけが閉じ込められた。
 藤堂さんが吐き捨てる。
「ちくしョウ、暴れヤがる。力が、マトもに使エねえ」
 時尾が自分の二の腕をつかんだ。そこに蒼い環があるはずだ。
「環を成すことを急いだからだ。気を確かに持ってくなんしょ! 堕っつまってはならんに!」
 藤堂さんが笑う。明るいはずの声が、ざらざらと低くかすれていく。
「わかンネえ。音が聞こエネエ。目ガ見えねエ。こコ、どこダ? 永倉サん? 総司? 巻き込んでねぇよな? デモ何だロウ、斎藤、テめェガ憎イ。環ガ暴レて痛ェんダヨ。斎藤、テメぇノセイだ!」
 藤堂さんの姿が変わる。着物を引き千切って体が膨れ上がる。爛々《らんらん》と赤い目、巨大な顎《あご》、生え並ぶ牙。白と赤が斑《まだら》に交じった体に、黒い縞《しま》が走る。なり損ないの白虎だ。
 時尾が薙刀を構えた。
「斎藤さま!」
 叱《しっ》咤《た》の声を受けて、刀を構える。
「オレのせいか」
「んでね、違います! 藤堂さまに巣食った妖気が蒼い環を嫌っているだけだ!」
 藤堂さんだった妖が吠えた。波動がびしりと肌を打つ。殺気と敵意を浴びた環断が、舌なめずりをするように光った。妖の血を欲している。
 妖の目を見る。狂気に満ちておぞましい。あんた、本当に藤堂さんか? 信じたくない。でも、額にくっきりと白い傷痕がある。


 慶応三年(一八六七年)十一月十八日、深夜。オレが藤堂平助を殺した。額に傷痕のある死体は、小柄な剣士じゃなく、なり損ないの白虎のままだった。
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