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四 斎藤一之章:Betrayal
油小路事件(三)
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長々と尾を引く夏が終わった。途端に寒くなった。冬十月、とんでもないことが起こった。
「徳川家が朝廷に政権を返還した」
伊東さんが頬を上気させて言った。その出来事を、朝廷の人間は「大政奉還」と呼んでいるらしい。
藤堂さんが目をしばたかせた。
「それはつまり、徳川家が自分から倒幕を成しちまったってことか?」
皆、藤堂さんと同じ疑問を持つ様子だ。伊東さんはぐるりと一同を見回した。
「そのとおり。名目上、幕府は倒れた。しかし、実際のところ、幕府の幹部は権力を失わない。今、天皇を支えている官僚は、幕府に親しい者ばかりだ。朝議によって政治を動かすことになっても、当然、幕府の幹部も官僚として招かれる」
「じゃあ、大政奉還の意図は何だ? どっちにしたって幕府の幹部は政治の中心にいられるなら、なぜ今までの状態を崩す必要があった?」
「倒幕の過激派、薩摩や長州をおとなしくさせるためだ。連中は、倒幕を目標として暴力を振るう。ところが、倒幕がすでに幕府の手によっておこなわれてしまった。ということは、薩長が暴力を振るう名目がなくなる。幕府の幹部はそれを狙ったのだ」
世間は騒がしい。でも、伊東さんは嬉しそうだ。武力によらない倒幕を、伊東さんは目指していた。思い掛けない形で、一和同心の理想が実現に近付いた。
これから忙しくなる、と伊東さんは皆に告げた。一和同心の考えをいろんな人に語って回るつもりだという。政治論を掲げる思想家はそれぞれ、私塾を開いたり遊《ゆう》説《ぜい》をしたりして、自分の味方を増やしている。
そうか、伊東さんは武士というより思想家なのか。今さらのように、それに気付いた。頭がぼんやりとしている。眠りが足りない。
昼間は高台寺党として過ごして、夜は祇園で過ごして、朝方に少し眠る。いや、眠れる日は、ましだ。それでも剣術の稽古は欠かさない。試合をすれば誰にも負けない。休んでいないのに、動いている。オレはどうかしている。
伊東さんの外出が増えるなら襲撃の危険も増えるだろうと、藤堂さんが言い出した。新しい警備の仕組みを考えよう。役割を決めて、伊東さんのために働こう。藤堂さんの提案に、久方ぶりに皆が勢いのある声を上げた。
高台寺党は最近、今くらいの夕刻にもなれば、いつも酒精で濁っている。ああ、だからオレの剣のほうが強いのか。二日酔いの皆より、ましな状態だから。
一つも発言しないまま、話し合いを聞いた。要点だけ頭に入れる。詳しくは明日ということになって、解散した。
全員が集まった部屋は熱気が籠《こも》って息苦しかった。外に出ると、湿った冷気が顔を撫でる。高台寺から、暮六ツを告げる鐘の音が降ってくる。すでに薄暗い。
門の内側に、見知らぬ人影がある。女だ。オレは刀の柄に触れた。
「何をしてる?」
女が、はっとこちらを向いた。向くと同時に頭を下げた。
「許してくなんしょ。庭の木が見事だったから、つい入っつまったなし」
凛と澄む声の会津訛りに、覚えがあった。
「と……」
時尾、と呼ぼうとして、声が詰まる。呼び捨てにしていいほど親しい間柄じゃない。三年前の秋、一度だけ共闘して、一度だけ二人で話した。それ以来、遠目に見掛けることはあっても、挨拶すらしなかった。
そろそろと顔を上げた時尾が微笑んだ。目尻が垂れて、えくぼができた。
「斎藤さま、お久しぶりだなし。少しお痩せになったんでねぇかし? 」
「さすけねえ」
反射的に、問題ないと言ってしまった。時尾が小さく笑う。白い手が、ふと門塀のそばの木を指した。
「そこの立派な椿の木は、二百何十年も前に、織田信長公の弟の有《う》楽《らく》斎《さい》という人が植えたんだと、お殿さまがおっしゃっていました。つぼみが膨らんで、可愛《めげ》ごどなあ。咲いたら、きっと綺麗だべし」
「椿なのか。試衛館の庭にもあった。実から油を作って、刀の手入れに使っていた」
「会津でも椿油は使われます。実を炒ってから油を採ると、いい香りになっべし」
「同じ作り方だ。炒らずに潰すと、香りもなくて、べたべたする」
「んだべし。椿の花は鮮やかで、散り際が潔いから、わたしはとても好きだなし。有楽斎の椿が咲くころに見に来ても、さすけねぇがよ?」
「武家の女の一人歩きは危険だぞ。東山には、どこぞの藩士を隠して住まわせる寺が案外多い」
「そっだことおっしゃるなら、今の京都は、どこに花を見に行くのも危険だべし。だけんじょ、月真院なら、知った人たちが住んでおられるから、おっかなくねぇです」
呑《のん》気《き》なことを言って、時尾は笑っている。肝が据わっているし、腕も立つからだろうか。でも、女は女だ。時尾の細い体くらい、オレなら片腕で簡単にねじ伏せられる。
「やすやすと他人を信用するな。裏のない人間はいない」
「はい。気を付けます。このあたりは妖の匂いも濃いから、少し不気味だなし」
「妖の匂い?」
「斎藤さまは感じねぇがよ? ここに住んでいたら、だんだん慣れっつまいますか?」
どきりとした。慣れたんじゃなく、鈍ったんだ。感覚を研ぎ澄まそうと試みる。すぐにあきらめた。頭に靄《もや》がかかっている。目も耳も鼻も、自分自身の感覚がひどく遠い。
オレは時尾の問いに答えずに、逆に問い掛けた。
「あんたは会津に帰らず、ずっと京都に、黒《くろ》谷《だに》の金《こん》戒《かい》光《こう》明《みょう》寺《じ》にいたのか?」
「はい。お殿さまの環の具合《あんべ》は、わたししか診られねぇから。お殿さまは高台寺党のことを心配しておいでだなし」
容保公の名に、また、どきりとする。あの純粋で偉大な人を思うと、いたたまれない。
「高台寺党は新撰組を離脱した。会津公の期待を裏切ったんだ。心配していただける立場にはない」
「そっだ寂しいこと、おっしゃらないでくなんしょ。お殿さまは本当に高台寺党のこと、特に斎藤さまのことを案じておられます。高台寺党は倒幕派だけんじょ、掲げていることは少しもおっかなくねえ。お殿さまは話し合いてぇとおっしゃっています」
「女は政治のことに口を出さないほうがいい。今の京都では特に」
「だけんじょ、斎藤さま……」
「あんたは高台寺党に何か用があるのか?」
びしりと言葉を打ち切ったら、時尾は袂《たもと》から紙片を取り出した。手紙のようだ。時尾はそれをオレに差し出した。
「江戸言葉のお侍さまから、斎藤さまに渡してくれと頼まれました。『白い鳩《はと》は夜には飛ばねえ』と言えばわかる、と」
勝先生だ。
雷に打たれたように感じた。最後に手紙を送ってから、どれだけ経っただろう? 覚えていない。白い鳩を見掛けることがあったか? それもわからない。オレはここ最近、何を見て過ごしていた?
オレは時尾から手紙を受け取って開いた。一言だけ書かれている。
――乙部の馴染みの店。
土方さんと会う料理屋か? 色茶屋の建ち並ぶ一角か? いずれにしても、勝先生にはオレの行動を知られている。オレを見張る間者がどこかにいる。誰だ? 月真院の下働きの男か? それとも祇園乙部に潜んでいるのか?
「斎藤さま? 何《な》如《じょ》したがよ? 顔色が……」
「何でもない。オレは出掛ける」
時尾のそばをすり抜けて、門をくぐる。歩き慣れた坂を下る。
「斎藤さま、待ってくなんしょ!」
追いすがってきた時尾は駆け足だ。オレは黙って足を動かす。時尾は離れず付いてくる。東大路を北上する。
祇園の入口で、オレは立ち止まった。時尾を見下ろす。
「来るな。あんたみたいな女がうろつく場所じゃない」
時尾は、はっとした顔で、あたりを見回した。時尾を照らす外灯が異様に明るい。紅ひとつ差していない時尾を、化粧の濃い玄人《くろうと》女が横目に見ながら過ぎていく。
「斎藤さまも、こっだ場所でお酒を飲むのかし?」
「さっさと帰れ。女にはわからない」
「お許しくなんしょ。だけんじょ、斎藤さま、どうぞ無理などなさらねぇで」
時尾は深々と頭を下げて踵《きびす》を返した。小走りに去っていく後ろ姿を、見るともなしに見る。
唐突に。
「後ろががら空きだぜ」
硬い感触が背中に押し当てられた。刀の柄だ。オレの真後ろに、勝先生が立っている。勝先生は笑った。
「久方ぶりじゃねぇか。俺には知らせも寄越さずに花街なんぞに入り浸るとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな。ちょいと話をしようか。何、時間はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」
逃げられない。
勝先生に連れられて入ったのは、乙部の外れにある町屋だった。貧しい者が住む長屋みたいな構えだ。が、通り庭の奥に案内されると、様子が違う。外から見えない場所に、ひどく上等な造りの建物がある。
小部屋には、燗《かん》を付けた徳利が二本と盃、肴《さかな》が用意されていた。勝先生は、さっさと飲み食いを始めながら、にやにやしてオレを見る。笑っているはずの目が鋭い。気迫を突き立てられて、息が止まる。
「年の割に青臭ぇ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔付きになりやがったな。大層な床《とこ》上手だって話じゃねえか。長い得《え》物《もの》を振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」
頬が、かっとした。怒りではない。ただ単に、恥ずかしいと感じた。オレにそんな感情が残っているなんて知らなかった。唇を噛む。胡坐《あぐら》の膝をつかむ手に力が入った。
勝先生は盃の酒を飲み干した。
「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてぇだしな。なあ、あの夜、銭取橋の上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」
「なぜ、そこまで……」
「俺がおまえさんについてどれだけ知ってるかって? おまえさんは俺にとって、京都でいちばん優秀な間者だが、おまえさんひとりじゃ情報が足りねえ。ほかにもいろいろ子飼いがいるわけさ」
やはり、と思う。間者だけじゃないだろう。刺客の一人や二人、抱えていてもおかしくない。きっとオレを闇に葬ることだって簡単だ。
勝先生がそれをしないのは、狗《いぬ》一匹、生きようが死のうが関係ないからか。殺す価値もないのか。あるいは、処分せずに生かしておくのは、眺めて楽しむためか。日本を盤に、人間を駒にした将棋を指すのが、この人の楽しみだからか。
勝先生が不意に手を振った。飛んできた盃を、胸に当たる直前に払い落とす。勝先生は、にやりと笑みを深くした。
「鈍いねえ。こいつが銃弾なら、おまえさんは死んでたぞ。おかしなもんだ。新撰組三番隊組長の斎藤一は、相手が攻撃の構えを見せた途端に機先を制するくらいの、油断ならねぇ男のはずだが?」
「……あんたの前で、刀は抜けない」
苦しまぎれの言い訳を、勝先生は笑い飛ばした。オレだってわかっている。刀があろうがなかろうが、オレは反射的に牙を剥《む》くはずなんだ。今のオレには、できない。あまりにも感覚が鈍っている。頭に靄《もや》がかかっている。
「そんなに苦しいかい? おまえさんがあんなに大事にしていた剣客の本能を鈍らせてまで、現実から目を背けたいのかい?」
「逃げている?」
「ちっとぁ自覚しろや。鈍ってる上に、目立ちすぎだぜ。乙部を歩きゃ、引く手あまただろう? 今のおまえさんなら、色男で鳴らす土方とも向こうを張れる」
「意味がわからない」
「困るなあ、斎藤。女の体に逃げることを覚えた今のおまえさんじゃあ、気配が消せねえ。崩れた色気が駄《だ》々《だ》洩《も》れなんだよ。剣客や間者の体《てい》じゃあねえ。そのまま堕ち続けてみろ。隙だらけの背中から刺されて死ぬぞ」
勝先生が、オレの前にある手付かずの盃を取った。投げた盃の代わりだ。酒を注いで口を付ける。ぎょろりとした目が、また笑いながらオレを見る。よく動く口が、いつものように滔々《とうとう》と語り出した。
「十月十四日、大政奉還が為された。これによって、世の中が一気に動き出した。様相は単純じゃあねえ。佐幕派は武力闘争を回避したが、むろん失意に沈んだ者もいる。倒幕派は肩透かしを食わされたが、勢いに乗じて暗躍し始めた者もいる」
盃が空になる。徳利から新たに注がれた酒が、盆の上に少しこぼれる。勝先生は指で酒の雫をすくって、ねぶった。
「伊東甲子太郎率いる高台寺党も動き出した。そうだな? おまえさんは高台寺党の情報を新撰組に横流しする。新撰組も動き出すだろう。世の中がどう転ぶか、先が読めねぇんだ。仲間割れの決着なんか、さっさとつけちまうほうがいい」
喉が干上がっていく。目も耳も鈍らせておきたかったのは、その日の到来に気付きたくなかったからだ。
情けない。こんな体《てい》たらくじゃ、オレが生きている意味がない。
勝先生が、なみなみと酒が入ったほうの徳利をオレに押しやった。そのまま飲め、と手振りで命じられる。黙って従う。酒の口当たりが軽すぎる。まるで白《さ》湯《ゆ》だ。
「伏見でいちばん上等な酒蔵から持ってこさせた酒だぜ。甘ぇよな。俺の舌には、灘の辛い酒のほうが合う。おまえさんもそうだろう」
どうしてこの人は、オレの考えをたやすく見透かすんだ? オレはそんなに隙だらけなのか?
それで、と勝先生が片膝を立てて身を乗り出した。
「いつやるんだ?」
決めていない。まだ覚悟が決まっていない。でも、先延ばしにはできない。オレが終わりを告げなければならない。
「今年じゅうには」
言った途端、ぷつりと糸が切れた気がした。早く終わらせよう。でなきゃ、耐えられない。重ねすぎた嘘に押し潰されて死んでしまう。
徳利を呷《あお》る。もう空だった。勝先生が冷たく笑った。
「せいぜい頑張れよ。新撰組にはまだ、やってもらわなけりゃならねぇことがごまんとある。乱世は続く。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」
酒に焼けた舌と喉が、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。
「斎藤一の名は近々変える」
高台寺党を裏切るときに名前も捨てよう。急にそう思い付いた。名前と一緒に、記憶まで捨ててしまえたらいいのに。
「徳川家が朝廷に政権を返還した」
伊東さんが頬を上気させて言った。その出来事を、朝廷の人間は「大政奉還」と呼んでいるらしい。
藤堂さんが目をしばたかせた。
「それはつまり、徳川家が自分から倒幕を成しちまったってことか?」
皆、藤堂さんと同じ疑問を持つ様子だ。伊東さんはぐるりと一同を見回した。
「そのとおり。名目上、幕府は倒れた。しかし、実際のところ、幕府の幹部は権力を失わない。今、天皇を支えている官僚は、幕府に親しい者ばかりだ。朝議によって政治を動かすことになっても、当然、幕府の幹部も官僚として招かれる」
「じゃあ、大政奉還の意図は何だ? どっちにしたって幕府の幹部は政治の中心にいられるなら、なぜ今までの状態を崩す必要があった?」
「倒幕の過激派、薩摩や長州をおとなしくさせるためだ。連中は、倒幕を目標として暴力を振るう。ところが、倒幕がすでに幕府の手によっておこなわれてしまった。ということは、薩長が暴力を振るう名目がなくなる。幕府の幹部はそれを狙ったのだ」
世間は騒がしい。でも、伊東さんは嬉しそうだ。武力によらない倒幕を、伊東さんは目指していた。思い掛けない形で、一和同心の理想が実現に近付いた。
これから忙しくなる、と伊東さんは皆に告げた。一和同心の考えをいろんな人に語って回るつもりだという。政治論を掲げる思想家はそれぞれ、私塾を開いたり遊《ゆう》説《ぜい》をしたりして、自分の味方を増やしている。
そうか、伊東さんは武士というより思想家なのか。今さらのように、それに気付いた。頭がぼんやりとしている。眠りが足りない。
昼間は高台寺党として過ごして、夜は祇園で過ごして、朝方に少し眠る。いや、眠れる日は、ましだ。それでも剣術の稽古は欠かさない。試合をすれば誰にも負けない。休んでいないのに、動いている。オレはどうかしている。
伊東さんの外出が増えるなら襲撃の危険も増えるだろうと、藤堂さんが言い出した。新しい警備の仕組みを考えよう。役割を決めて、伊東さんのために働こう。藤堂さんの提案に、久方ぶりに皆が勢いのある声を上げた。
高台寺党は最近、今くらいの夕刻にもなれば、いつも酒精で濁っている。ああ、だからオレの剣のほうが強いのか。二日酔いの皆より、ましな状態だから。
一つも発言しないまま、話し合いを聞いた。要点だけ頭に入れる。詳しくは明日ということになって、解散した。
全員が集まった部屋は熱気が籠《こも》って息苦しかった。外に出ると、湿った冷気が顔を撫でる。高台寺から、暮六ツを告げる鐘の音が降ってくる。すでに薄暗い。
門の内側に、見知らぬ人影がある。女だ。オレは刀の柄に触れた。
「何をしてる?」
女が、はっとこちらを向いた。向くと同時に頭を下げた。
「許してくなんしょ。庭の木が見事だったから、つい入っつまったなし」
凛と澄む声の会津訛りに、覚えがあった。
「と……」
時尾、と呼ぼうとして、声が詰まる。呼び捨てにしていいほど親しい間柄じゃない。三年前の秋、一度だけ共闘して、一度だけ二人で話した。それ以来、遠目に見掛けることはあっても、挨拶すらしなかった。
そろそろと顔を上げた時尾が微笑んだ。目尻が垂れて、えくぼができた。
「斎藤さま、お久しぶりだなし。少しお痩せになったんでねぇかし? 」
「さすけねえ」
反射的に、問題ないと言ってしまった。時尾が小さく笑う。白い手が、ふと門塀のそばの木を指した。
「そこの立派な椿の木は、二百何十年も前に、織田信長公の弟の有《う》楽《らく》斎《さい》という人が植えたんだと、お殿さまがおっしゃっていました。つぼみが膨らんで、可愛《めげ》ごどなあ。咲いたら、きっと綺麗だべし」
「椿なのか。試衛館の庭にもあった。実から油を作って、刀の手入れに使っていた」
「会津でも椿油は使われます。実を炒ってから油を採ると、いい香りになっべし」
「同じ作り方だ。炒らずに潰すと、香りもなくて、べたべたする」
「んだべし。椿の花は鮮やかで、散り際が潔いから、わたしはとても好きだなし。有楽斎の椿が咲くころに見に来ても、さすけねぇがよ?」
「武家の女の一人歩きは危険だぞ。東山には、どこぞの藩士を隠して住まわせる寺が案外多い」
「そっだことおっしゃるなら、今の京都は、どこに花を見に行くのも危険だべし。だけんじょ、月真院なら、知った人たちが住んでおられるから、おっかなくねぇです」
呑《のん》気《き》なことを言って、時尾は笑っている。肝が据わっているし、腕も立つからだろうか。でも、女は女だ。時尾の細い体くらい、オレなら片腕で簡単にねじ伏せられる。
「やすやすと他人を信用するな。裏のない人間はいない」
「はい。気を付けます。このあたりは妖の匂いも濃いから、少し不気味だなし」
「妖の匂い?」
「斎藤さまは感じねぇがよ? ここに住んでいたら、だんだん慣れっつまいますか?」
どきりとした。慣れたんじゃなく、鈍ったんだ。感覚を研ぎ澄まそうと試みる。すぐにあきらめた。頭に靄《もや》がかかっている。目も耳も鼻も、自分自身の感覚がひどく遠い。
オレは時尾の問いに答えずに、逆に問い掛けた。
「あんたは会津に帰らず、ずっと京都に、黒《くろ》谷《だに》の金《こん》戒《かい》光《こう》明《みょう》寺《じ》にいたのか?」
「はい。お殿さまの環の具合《あんべ》は、わたししか診られねぇから。お殿さまは高台寺党のことを心配しておいでだなし」
容保公の名に、また、どきりとする。あの純粋で偉大な人を思うと、いたたまれない。
「高台寺党は新撰組を離脱した。会津公の期待を裏切ったんだ。心配していただける立場にはない」
「そっだ寂しいこと、おっしゃらないでくなんしょ。お殿さまは本当に高台寺党のこと、特に斎藤さまのことを案じておられます。高台寺党は倒幕派だけんじょ、掲げていることは少しもおっかなくねえ。お殿さまは話し合いてぇとおっしゃっています」
「女は政治のことに口を出さないほうがいい。今の京都では特に」
「だけんじょ、斎藤さま……」
「あんたは高台寺党に何か用があるのか?」
びしりと言葉を打ち切ったら、時尾は袂《たもと》から紙片を取り出した。手紙のようだ。時尾はそれをオレに差し出した。
「江戸言葉のお侍さまから、斎藤さまに渡してくれと頼まれました。『白い鳩《はと》は夜には飛ばねえ』と言えばわかる、と」
勝先生だ。
雷に打たれたように感じた。最後に手紙を送ってから、どれだけ経っただろう? 覚えていない。白い鳩を見掛けることがあったか? それもわからない。オレはここ最近、何を見て過ごしていた?
オレは時尾から手紙を受け取って開いた。一言だけ書かれている。
――乙部の馴染みの店。
土方さんと会う料理屋か? 色茶屋の建ち並ぶ一角か? いずれにしても、勝先生にはオレの行動を知られている。オレを見張る間者がどこかにいる。誰だ? 月真院の下働きの男か? それとも祇園乙部に潜んでいるのか?
「斎藤さま? 何《な》如《じょ》したがよ? 顔色が……」
「何でもない。オレは出掛ける」
時尾のそばをすり抜けて、門をくぐる。歩き慣れた坂を下る。
「斎藤さま、待ってくなんしょ!」
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「来るな。あんたみたいな女がうろつく場所じゃない」
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「斎藤さまも、こっだ場所でお酒を飲むのかし?」
「さっさと帰れ。女にはわからない」
「お許しくなんしょ。だけんじょ、斎藤さま、どうぞ無理などなさらねぇで」
時尾は深々と頭を下げて踵《きびす》を返した。小走りに去っていく後ろ姿を、見るともなしに見る。
唐突に。
「後ろががら空きだぜ」
硬い感触が背中に押し当てられた。刀の柄だ。オレの真後ろに、勝先生が立っている。勝先生は笑った。
「久方ぶりじゃねぇか。俺には知らせも寄越さずに花街なんぞに入り浸るとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな。ちょいと話をしようか。何、時間はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」
逃げられない。
勝先生に連れられて入ったのは、乙部の外れにある町屋だった。貧しい者が住む長屋みたいな構えだ。が、通り庭の奥に案内されると、様子が違う。外から見えない場所に、ひどく上等な造りの建物がある。
小部屋には、燗《かん》を付けた徳利が二本と盃、肴《さかな》が用意されていた。勝先生は、さっさと飲み食いを始めながら、にやにやしてオレを見る。笑っているはずの目が鋭い。気迫を突き立てられて、息が止まる。
「年の割に青臭ぇ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔付きになりやがったな。大層な床《とこ》上手だって話じゃねえか。長い得《え》物《もの》を振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」
頬が、かっとした。怒りではない。ただ単に、恥ずかしいと感じた。オレにそんな感情が残っているなんて知らなかった。唇を噛む。胡坐《あぐら》の膝をつかむ手に力が入った。
勝先生は盃の酒を飲み干した。
「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてぇだしな。なあ、あの夜、銭取橋の上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」
「なぜ、そこまで……」
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勝先生が不意に手を振った。飛んできた盃を、胸に当たる直前に払い落とす。勝先生は、にやりと笑みを深くした。
「鈍いねえ。こいつが銃弾なら、おまえさんは死んでたぞ。おかしなもんだ。新撰組三番隊組長の斎藤一は、相手が攻撃の構えを見せた途端に機先を制するくらいの、油断ならねぇ男のはずだが?」
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勝先生が、オレの前にある手付かずの盃を取った。投げた盃の代わりだ。酒を注いで口を付ける。ぎょろりとした目が、また笑いながらオレを見る。よく動く口が、いつものように滔々《とうとう》と語り出した。
「十月十四日、大政奉還が為された。これによって、世の中が一気に動き出した。様相は単純じゃあねえ。佐幕派は武力闘争を回避したが、むろん失意に沈んだ者もいる。倒幕派は肩透かしを食わされたが、勢いに乗じて暗躍し始めた者もいる」
盃が空になる。徳利から新たに注がれた酒が、盆の上に少しこぼれる。勝先生は指で酒の雫をすくって、ねぶった。
「伊東甲子太郎率いる高台寺党も動き出した。そうだな? おまえさんは高台寺党の情報を新撰組に横流しする。新撰組も動き出すだろう。世の中がどう転ぶか、先が読めねぇんだ。仲間割れの決着なんか、さっさとつけちまうほうがいい」
喉が干上がっていく。目も耳も鈍らせておきたかったのは、その日の到来に気付きたくなかったからだ。
情けない。こんな体《てい》たらくじゃ、オレが生きている意味がない。
勝先生が、なみなみと酒が入ったほうの徳利をオレに押しやった。そのまま飲め、と手振りで命じられる。黙って従う。酒の口当たりが軽すぎる。まるで白《さ》湯《ゆ》だ。
「伏見でいちばん上等な酒蔵から持ってこさせた酒だぜ。甘ぇよな。俺の舌には、灘の辛い酒のほうが合う。おまえさんもそうだろう」
どうしてこの人は、オレの考えをたやすく見透かすんだ? オレはそんなに隙だらけなのか?
それで、と勝先生が片膝を立てて身を乗り出した。
「いつやるんだ?」
決めていない。まだ覚悟が決まっていない。でも、先延ばしにはできない。オレが終わりを告げなければならない。
「今年じゅうには」
言った途端、ぷつりと糸が切れた気がした。早く終わらせよう。でなきゃ、耐えられない。重ねすぎた嘘に押し潰されて死んでしまう。
徳利を呷《あお》る。もう空だった。勝先生が冷たく笑った。
「せいぜい頑張れよ。新撰組にはまだ、やってもらわなけりゃならねぇことがごまんとある。乱世は続く。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」
酒に焼けた舌と喉が、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。
「斎藤一の名は近々変える」
高台寺党を裏切るときに名前も捨てよう。急にそう思い付いた。名前と一緒に、記憶まで捨ててしまえたらいいのに。
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刀剣アクション。
なんでもありです。
ーー焔の連鎖ーー
卯月屋 枢
歴史・時代
その男の名は歴史に刻まれる事はなかった …確かに彼はそこに存在していたはずなのに。
ーー幕末の世ーー 男達はそれぞれの想いを胸に戦い続ける。
友の為 義の為 国の為 抗う事の出来ない運命に正面から挑んだ。
「あの時の約束を果たす為に俺はここに居る」 「お前と俺の宿命だ……」 「お前が信じるものを俺は信じるよ」 「お前の立つ場所も、お前自身も俺が守ってやる」
幕末で活躍した新撰組とそれに関わったはずなのに歴史に残ることはなく誰一人として記憶に刻むことのなかった1人の男。
運命の糸に手繰り寄せられるように、新選組と出会った主人公『如月蓮二』彼と新選組は幕末の乱世を駆け抜ける!!
作者の完全なる“妄想”によって書かれてます('A`)
※以前エブリスタ、ポケクリにて掲載しておりましたがID&パス紛失にて更新できなくなったため修正を加えて再投稿したものです。
フィクションです。史実とは違った点が数多いと思いますがご了承下さい。
作中の会話にて方言(京弁、土佐弁)で間違いがあるかもしれません。
初物ですので、広い心で見守って頂ければ有り難いですm(_ _)m
新選組奇譚
珂威
歴史・時代
雪月花から題名を変更しました。
こちらは、オリジナル要素(しかないだろう)満載の新選組駄文です。
時代背景、性格、いろんなものを丸っと無視して進んでいくどうしようもない駄文です。
小説家になろうで書いていたものをさらに色々手を加えて書き直しております。
ほぼギャグ?コメディ?展開です
新選組の漢達
宵月葵
歴史・時代
オトコマエな新選組の漢たちでお魅せしましょう。
新選組好きさんに贈る、一話完結の短篇集。
別途連載中のジャンル混合型長編小説『碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。』から、
歴史小説の要素のみを幾つか抽出したスピンオフ的短篇小説です。もちろん、本編をお読みいただいている必要はありません。
恋愛等の他要素は無くていいから新選組の歴史小説が読みたい、そんな方向けに書き直した短篇集です。
(ちなみに、一話完結ですが流れは作ってあります)
楽しんでいただけますように。
★ 本小説では…のかわりに・を好んで使用しております ―もその場に応じ個数を変えて並べてます
三賢人の日本史
高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。
その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。
なぜそうなったのだろうか。
※小説家になろうで掲載した作品です。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
夜に咲く花
増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。
幕末を駆け抜けた新撰組。
その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。
よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。
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