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三 沖田総司之章:Tragedy
士道に背くまじき事(三)
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京の七口の一つである荒《こう》神《じん》口《ぐち》を発して、北白川の山を越えて、琵琶湖のほとりまでを結ぶ志賀越えの街道は、おおよそ二里半の道行きだ。昼下がりに屯所を出たから、日暮れまでには確実に大津にたどり着ける。
吉田山を越えたあたりから、ひとけがなくなった。脚《きゃ》絆《はん》と草鞋《わらじ》の足をせかせかと交わしていた花乃さんが、何かに腰掛ける格好をして、ふわりと宙に浮いた。
「沖田さま、足を速めてくれはって構いまへんえ。うちの術、男の人の駆け足より速《はよ》ぉ飛べますさかい」
「そう急ぐつもりはないよ」
「山南さまに逃げてほしいんどすか? 土方さまたちは、山南さまを罰したりしぃひんって、おっしゃりましたえ」
「うん。だけど、山南さんを見付けたくないって気持ちがある。おれの前では、山南さんは絶対に武士らしくあろうとするから」
「武士らしく? どないな意味ですのん?」
「山南さんは試衛館の仲間の中でもいちばん潔白で、士道を重んじている人だ。己のいるべき場所から逃げ出すなんて、武士として絶対にあっちゃいけない。例え死んでも、自分の務めや志をまっとうするのが武士の道、士道だ」
幼いころ、おれに剣術を教えてくれたのは近藤さんだけど、士道を説いてくれたのは山南さんだ。山南さんは、口先だけで物を言う人じゃない。自分の生きる道としての士道を、言葉と背中で示してくれた。
ヤミがおれの肩から花乃さんの膝の上に跳び移った。くるりと丸くなるヤミを撫でて、花乃さんはおれに言った。
「せやったら、なおさら早《はよ》ぉ山南さまを見付けんとあかんの違います? 山南さまが自分を罰してしまわはる前に追い付きまひょ」
「まあ、そうだね。うん……山南さんが今どこで何を考えてるのか、おれには想像もつかないんだし。頭の造りが違うから」
花乃さんが小首をかしげた。
「沖田さまと山南さまは年が離れてはりますけど、江戸で同《おんな》し道場に通ってはったんどすか?」
「試衛館の話、したことなかったっけ?」
「へえ、ありまへん。ちらほら耳に入ってはきますけれど。昔から山南さまは学問ができはって、近藤さまと土方さまにとって大事な相談相手やったこととか、沖田さまと斎藤さまと藤堂さまは同い年やさかい、いつでも競い合ってはったこととか」
「新撰組の幹部は、江戸の試衛館で集結した仲間なんだ。近藤さんが道場主で、流派は天然理心流。九つで弟子入りしたおれは古株だよ。いつの間にか別の流派の使い手も出入りするようになって、例えば山南さんと平助は一刀流、斎藤さんは無外流だ」
「どなたがいちばんお強いんどす?」
「今の力の差はわからないな。試衛館のころの試合の成績なら、やっぱり近藤さんがいちばんだよ。普段の練習なら一本取れるのに、試合になると気迫が凄まじくてね。山南さんと近藤さんの出会いも対外試合だったんだけど、気迫の差で近藤さんが勝った」
天然理心流は、礼儀のための剣術とは違う。実戦向けの喧嘩剣術だ。美しい太刀筋は求められない。相手に隙があると見れば、肘で打ち掛かったり蹴り飛ばしたり、野外なら目潰しの砂をぶつけたりもする。
試衛館の出稽古では、多摩の宿場町で農家の男たちに天然理心流を教えていた。脱藩浪人や盗賊から自分たちの身を守るためには、泥臭いけれど実用的な天然理心流がぴったりだった。
おれの話に、花乃さんは、ほうと感心したような声を上げた。
「新撰組の幹部は狼みたいな剣を使わはる、と隊士たちの間で評判やけど、それは天然理心流の喧嘩剣術のことやわなあ」
「たぶんね。一刀流の山南さんや平助はいい家柄できちんとした教育を受けてるから、綺麗な剣を使う。試衛館の仲間の中で特に意地汚い剣を使うのは、おれと斎藤さんじゃないかな。斎藤さんは左右の手の使い分けがずるい。あれは目を欺《あざむ》かれるよ」
「斎藤さまの型稽古は、指導も見本もわかりやすいと聞きますえ。沖田さまは、自分が動けはるさかい、よぉ動かん下手くその気持ちがわかってへん。指導が厳しいばっかりで技がちっとも身に付かへんと、もっぱらの噂どす」
「あれ、そうなんだ? 手加減してるつもりなのに、これでも厳しいんだな」
「沖田さまはもともと、いけずやから」
いけず、というのは、意地悪という意味だ。たびたび花乃さんに言われる。そんなにいじめたことはないはずなんだけど。だって、花乃さんを怒らせるほうが、おれの剣術指導なんかよりずっと怖い。
「江戸にいたころの出稽古でも、おれが行くと顔をしかめられてたな。教えるの、下手なんだよね。その点、山南さんはうまいんだ。丁寧だし、物事を順序良く説明できる。剣術も学問も、山南さんに教わったら、すぐに呑み込める」
「せやけど、うちは山南さまが指導をされはるところ、見たことがありまへん。うちと同じころから新撰組に入った隊士も、山南さまはいつも部屋に籠《こも》ってはるお人やと思ぉてます」
「山南さんは、その役割から外れてるから。外れざるを得ない期間が長かったんだよ。山南さんは一度、任務中の怪我が原因で死にかけたんだ」
「死にかけた? いつのことどす?」
「一年半くらい前の、確か七月だね。まだ新撰組という名前を会津公からいただいてなくて、壬《み》生《ぶ》浪《ろう》士《し》組と名乗ってたころだ。用事で大坂に出たとき、山南さんはたまたま店に押し入る不《ふ》逞《てい》浪《ろう》士《し》を見付けて、部下を連れて戦った。でも、部下は逃げた」
「山南さまおひとりで戦わはったんどすか?」
「ああ。相手は鉄砲を持っていたし、五、六人はいた。店の者を庇《かば》いながらじゃ、さすがの山南さんもまともに戦うことはできなくて、ひどい傷を負った。特に脚の怪我はひどくて、一命を取り止めたけど、ろくに立つこともできなくなった」
花乃さんが、はっと目を見張った。
「山南さまが環の力を求めはったのは、その怪我が原因どすか?」
「当然。足手まといになるわけにはいかないだろ。おれが労《ろう》咳《がい》をどうにかするためにヤミの力を借りるのと同じさ」
「ほんまは禁術どす。自分ひとりの環が閉じてしもうたら、大いなる輪《りん》廻《ね》の環に戻ることができひん。この世で野命が終わった後も転生せんと、永遠に妖の力に呪われ続けることにならはるんえ」
「知ってる。山南さんが、おれと斎藤さんに教えてくれたよ。山南さんは禁術について調べて、現世で環を成す者の行く末だとか、生まれつき環を持つ者の特殊な役割とか、何もかもちゃんとわかってる」
花乃さんは、ちらりと横目でおれを睨《にら》んだ。その膝の上で、ヤミが眠たげにあくびをした。
正直なところ、転生やら永遠やらと説かれても、おれには理解できない。目に見えないものについて考えるのは苦手だ。
おれにとって大事なのは、新撰組のために刀を取る力を保ち続けること。仲間を守るために強くあり続けること。それだけだ。
志賀越えの山道はさして険しくないけれど、速足で歩くうちに汗ばんできた。首筋を手の甲で拭って、水筒の水を口に含む。花乃さんに水筒を勧めたら、そっぽを向かれた。
「結構どす」
「おれが口を付けた後だから? まあ、病持ちだしね」
「そないなふうには、別に思ぉてまへん」
「口移しみたいで気まずい?」
「けったいなこと言わんといてください!」
ぴしゃりとした言葉と一緒に、術で呼び出した水しぶきがおれの額に飛んできた。びしょ濡れになるほどの量じゃなくて、火照った顔にはかえって気持ちがいい。
道は下りに差し掛かっている。不意に木立が開けて、眼下に一面の水が見えた。琵琶湖だ。
大津は東海道の宿場町だ。琵琶湖を水上の道として、船での交易もさかんらしい。人と物が集まる大津は、物騒な京都よりもずっとにぎやかだ。水の匂いがするせいもあって、大坂と少し似ているようにも感じる。
花乃さんは術で浮くのをやめて、二本の脚で歩いている。
「田舎やわなあ。せやけど、大津のほうから来る肉や魚があらへんかったら、屯所の台所は回りまへん」
「肉や魚って、もしかして、ときどき食事に出る猪《いのしし》の肉も大津の商人から買ってるの?」
「へえ、そのとおりどす。猪の肉は滋養が付くさかい、新撰組の皆はんにはぴったりどっしゃろ? 沖田さまは箸も付けへんけれども」
花乃さんは、おれに怖い顔をしてみせる。猪の肉のことでさんざん怒らせたのは、冬の真ん中ごろだった。それなりに起きられる体調だったおれに、花乃さんはほかの隊士と同じ猪の汁を出してくれたんだけど、臭みが強くて食べられなかった。
「おれは匂いの強いものは苦手なんだよ。肉でも青菜でも海のものでも、全部ね。ヤミも臭いものは苦手で、食べないよな?」
肩の上のヤミに同意を求める。ヤミは面倒くさそうにまばたきをしただけだった。花乃さんはぷりぷりして、おれに指を突き付けた。
「沖田さま、苦手やからと言うて、鶏肉の叩いたんとか卵の焼いたんとか、好きなものを出されるまで箸を持たへんなんて、わがままな子どもと変わりまへんえ。少しは我慢して食べよし。きちんと滋養を付けへんから、病に負けて熱が上がるんどすえ」
「勘弁してよ。京都の味付けは薄すぎて、ますます匂いが鼻につくんだ。白味噌も駄目だね。甘ったるくて、口に合わない」
「京都の料理を虚《こ》仮《け》にせんといて。江戸の味付けなんて、塩辛いばっかりやないどすか。田舎くさいわ」
「田舎くさかろうが何だろうが、おれたちにとっては塩気が大事なんだよ。おれたちは剣を振るって汗を流すだろう? 汗で体の塩気がなくなっちまうぶんを食べ物から取らなけりゃ、足が攣《つ》ったり体が痺れたりして、満足に動けなくなるんだ」
花乃さんが不意を打たれた顔をした。
「何やのん、それ。初耳どす」
「そうかもね。今の炊事係は京都や大坂の人ばかりだから。まあ、隊士も半分以上が上方出身だし、ちょうどいいといえばいいんだけど、おれを始め試衛館の面々は江戸の料理を懐かしんでるよ」
花乃さんの足が止まった。往来のさなかだ。立ち尽くす花乃さんとの間に、せわしげな人々が割り込んでくる。はぐれるわけにもいかないから、おれは数歩の距離を戻って、花乃さんの腕を取った。
かすかな声で、花乃さんが何か言った。聞き取れなくて問い返すと、眉をひそめた花乃さんがまっすぐにおれを見上げた。
「すんまへん」
「え? 何のこと?」
「うちは台所を任せてもろてるのに、皆はんの口に合うものを出してへんから。江戸の料理より京都の料理のほうが質がええと思ぉてました。日本でいちばんおいしいものを教えたる、くらいの気持ちでした」
「ああ、うん、京都の料理って世間ではそういう評判だよね。試衛館の仲間内でも、京都の料理は繊細な味で興味深いって、源《げん》さんは言ってるよ。源さんは、京都に来てからは炊事場に入ってないけど、試衛館のころは料理をしてくれていたからさ」
井上源三郎さんは、試衛館の仲間の中で最年長だ。剣術はあまりうまくない。でも、人当たりがよくて算術ができて物事をしっかり考えるから、世知辛い江戸で試衛館の遣り繰りをするために、なくてはならない人だった。
「ほな、井上さまに習《なろ》ぉたら、うちも江戸の料理を覚えられますか?」
「源さんなら教えてくれると思うよ。でも、京都の女は、田舎くさい江戸の味付けなんて嫌いなんじゃないの?」
からかうつもりで笑ってやったら、花乃さんは真剣な顔でかぶりを振った。大きな目に宿る光が強い。
「江戸の味付けやったら、沖田さま、好き嫌いせんと食べてくれはります? うちは塩辛いんは嫌いやけど、ちゃんと味見して、沖田さまにとっておいしいものを作りますさかい」
「おれの、ため?」
大きくうなずいた花乃さんが、腕をつかむおれの手を振り切って、逆におれの腕にすがり付いた。
「沖田さま、痩せはりました。腕も細うて。初めて会《お》ぉたとき、こない細っこい人が刀を振り回すんやと驚きましたけど、半年のうちにあのころより痩せはったでしょう? このままやったら消えてなくなるんと違うかって、不安になります」
腕に花乃さんの体を感じる。温かくて柔らかい。子どものぬくもりじゃなくて、女だ。場違いな熱が体の奥にともって、おれは花乃さんから顔を背けた。
「花乃さんは心配性だな。消えてなくなったりなんかしないよ」
「せやけど、沖田さま……」
「今はおれのことより、山南さんだ。この先に、かわせみ屋という旅籠《はたご》がある。こっちに用事があるときに使う宿で、島田さんからの言《こと》伝《づて》も預かってもらってるはずだ。日が暮れないうちに行こう」
少し力を込めて腕を引くと、花乃さんの手があっさりと離れていった。完全に離れてしまう前に、おれは花乃さんの細い手首をつかんだ。人混みの中を歩き出す。花乃さんは黙って付いてくる。
いくらも行かないうちに、唐突に、おれの肩の上でヤミが立ち上がった。どうした、と訊く間もない。ヤミはおれの肩から跳び下りて、すたすたと歩き出した。数歩行って、二股の尻尾を揺らしながら振り返る。
「どないしはったの?」
「付いてこいってことだろうね。ヤミは人間よりずっと鼻が利くから」
山南さんの気配を嗅ぎ分けたに違いない。
おれと花乃さんはヤミの後を追い掛けた。次第にひとけが遠ざかる。どこをどう歩いたのか、大津の地理に暗いから、もうわからない。
気が付いたら、苔《こけ》むした鳥居の前に立っていた。二股の尻尾の後ろ姿が、鳥居をくぐって歩いていく。
吉田山を越えたあたりから、ひとけがなくなった。脚《きゃ》絆《はん》と草鞋《わらじ》の足をせかせかと交わしていた花乃さんが、何かに腰掛ける格好をして、ふわりと宙に浮いた。
「沖田さま、足を速めてくれはって構いまへんえ。うちの術、男の人の駆け足より速《はよ》ぉ飛べますさかい」
「そう急ぐつもりはないよ」
「山南さまに逃げてほしいんどすか? 土方さまたちは、山南さまを罰したりしぃひんって、おっしゃりましたえ」
「うん。だけど、山南さんを見付けたくないって気持ちがある。おれの前では、山南さんは絶対に武士らしくあろうとするから」
「武士らしく? どないな意味ですのん?」
「山南さんは試衛館の仲間の中でもいちばん潔白で、士道を重んじている人だ。己のいるべき場所から逃げ出すなんて、武士として絶対にあっちゃいけない。例え死んでも、自分の務めや志をまっとうするのが武士の道、士道だ」
幼いころ、おれに剣術を教えてくれたのは近藤さんだけど、士道を説いてくれたのは山南さんだ。山南さんは、口先だけで物を言う人じゃない。自分の生きる道としての士道を、言葉と背中で示してくれた。
ヤミがおれの肩から花乃さんの膝の上に跳び移った。くるりと丸くなるヤミを撫でて、花乃さんはおれに言った。
「せやったら、なおさら早《はよ》ぉ山南さまを見付けんとあかんの違います? 山南さまが自分を罰してしまわはる前に追い付きまひょ」
「まあ、そうだね。うん……山南さんが今どこで何を考えてるのか、おれには想像もつかないんだし。頭の造りが違うから」
花乃さんが小首をかしげた。
「沖田さまと山南さまは年が離れてはりますけど、江戸で同《おんな》し道場に通ってはったんどすか?」
「試衛館の話、したことなかったっけ?」
「へえ、ありまへん。ちらほら耳に入ってはきますけれど。昔から山南さまは学問ができはって、近藤さまと土方さまにとって大事な相談相手やったこととか、沖田さまと斎藤さまと藤堂さまは同い年やさかい、いつでも競い合ってはったこととか」
「新撰組の幹部は、江戸の試衛館で集結した仲間なんだ。近藤さんが道場主で、流派は天然理心流。九つで弟子入りしたおれは古株だよ。いつの間にか別の流派の使い手も出入りするようになって、例えば山南さんと平助は一刀流、斎藤さんは無外流だ」
「どなたがいちばんお強いんどす?」
「今の力の差はわからないな。試衛館のころの試合の成績なら、やっぱり近藤さんがいちばんだよ。普段の練習なら一本取れるのに、試合になると気迫が凄まじくてね。山南さんと近藤さんの出会いも対外試合だったんだけど、気迫の差で近藤さんが勝った」
天然理心流は、礼儀のための剣術とは違う。実戦向けの喧嘩剣術だ。美しい太刀筋は求められない。相手に隙があると見れば、肘で打ち掛かったり蹴り飛ばしたり、野外なら目潰しの砂をぶつけたりもする。
試衛館の出稽古では、多摩の宿場町で農家の男たちに天然理心流を教えていた。脱藩浪人や盗賊から自分たちの身を守るためには、泥臭いけれど実用的な天然理心流がぴったりだった。
おれの話に、花乃さんは、ほうと感心したような声を上げた。
「新撰組の幹部は狼みたいな剣を使わはる、と隊士たちの間で評判やけど、それは天然理心流の喧嘩剣術のことやわなあ」
「たぶんね。一刀流の山南さんや平助はいい家柄できちんとした教育を受けてるから、綺麗な剣を使う。試衛館の仲間の中で特に意地汚い剣を使うのは、おれと斎藤さんじゃないかな。斎藤さんは左右の手の使い分けがずるい。あれは目を欺《あざむ》かれるよ」
「斎藤さまの型稽古は、指導も見本もわかりやすいと聞きますえ。沖田さまは、自分が動けはるさかい、よぉ動かん下手くその気持ちがわかってへん。指導が厳しいばっかりで技がちっとも身に付かへんと、もっぱらの噂どす」
「あれ、そうなんだ? 手加減してるつもりなのに、これでも厳しいんだな」
「沖田さまはもともと、いけずやから」
いけず、というのは、意地悪という意味だ。たびたび花乃さんに言われる。そんなにいじめたことはないはずなんだけど。だって、花乃さんを怒らせるほうが、おれの剣術指導なんかよりずっと怖い。
「江戸にいたころの出稽古でも、おれが行くと顔をしかめられてたな。教えるの、下手なんだよね。その点、山南さんはうまいんだ。丁寧だし、物事を順序良く説明できる。剣術も学問も、山南さんに教わったら、すぐに呑み込める」
「せやけど、うちは山南さまが指導をされはるところ、見たことがありまへん。うちと同じころから新撰組に入った隊士も、山南さまはいつも部屋に籠《こも》ってはるお人やと思ぉてます」
「山南さんは、その役割から外れてるから。外れざるを得ない期間が長かったんだよ。山南さんは一度、任務中の怪我が原因で死にかけたんだ」
「死にかけた? いつのことどす?」
「一年半くらい前の、確か七月だね。まだ新撰組という名前を会津公からいただいてなくて、壬《み》生《ぶ》浪《ろう》士《し》組と名乗ってたころだ。用事で大坂に出たとき、山南さんはたまたま店に押し入る不《ふ》逞《てい》浪《ろう》士《し》を見付けて、部下を連れて戦った。でも、部下は逃げた」
「山南さまおひとりで戦わはったんどすか?」
「ああ。相手は鉄砲を持っていたし、五、六人はいた。店の者を庇《かば》いながらじゃ、さすがの山南さんもまともに戦うことはできなくて、ひどい傷を負った。特に脚の怪我はひどくて、一命を取り止めたけど、ろくに立つこともできなくなった」
花乃さんが、はっと目を見張った。
「山南さまが環の力を求めはったのは、その怪我が原因どすか?」
「当然。足手まといになるわけにはいかないだろ。おれが労《ろう》咳《がい》をどうにかするためにヤミの力を借りるのと同じさ」
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「知ってる。山南さんが、おれと斎藤さんに教えてくれたよ。山南さんは禁術について調べて、現世で環を成す者の行く末だとか、生まれつき環を持つ者の特殊な役割とか、何もかもちゃんとわかってる」
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「結構どす」
「おれが口を付けた後だから? まあ、病持ちだしね」
「そないなふうには、別に思ぉてまへん」
「口移しみたいで気まずい?」
「けったいなこと言わんといてください!」
ぴしゃりとした言葉と一緒に、術で呼び出した水しぶきがおれの額に飛んできた。びしょ濡れになるほどの量じゃなくて、火照った顔にはかえって気持ちがいい。
道は下りに差し掛かっている。不意に木立が開けて、眼下に一面の水が見えた。琵琶湖だ。
大津は東海道の宿場町だ。琵琶湖を水上の道として、船での交易もさかんらしい。人と物が集まる大津は、物騒な京都よりもずっとにぎやかだ。水の匂いがするせいもあって、大坂と少し似ているようにも感じる。
花乃さんは術で浮くのをやめて、二本の脚で歩いている。
「田舎やわなあ。せやけど、大津のほうから来る肉や魚があらへんかったら、屯所の台所は回りまへん」
「肉や魚って、もしかして、ときどき食事に出る猪《いのしし》の肉も大津の商人から買ってるの?」
「へえ、そのとおりどす。猪の肉は滋養が付くさかい、新撰組の皆はんにはぴったりどっしゃろ? 沖田さまは箸も付けへんけれども」
花乃さんは、おれに怖い顔をしてみせる。猪の肉のことでさんざん怒らせたのは、冬の真ん中ごろだった。それなりに起きられる体調だったおれに、花乃さんはほかの隊士と同じ猪の汁を出してくれたんだけど、臭みが強くて食べられなかった。
「おれは匂いの強いものは苦手なんだよ。肉でも青菜でも海のものでも、全部ね。ヤミも臭いものは苦手で、食べないよな?」
肩の上のヤミに同意を求める。ヤミは面倒くさそうにまばたきをしただけだった。花乃さんはぷりぷりして、おれに指を突き付けた。
「沖田さま、苦手やからと言うて、鶏肉の叩いたんとか卵の焼いたんとか、好きなものを出されるまで箸を持たへんなんて、わがままな子どもと変わりまへんえ。少しは我慢して食べよし。きちんと滋養を付けへんから、病に負けて熱が上がるんどすえ」
「勘弁してよ。京都の味付けは薄すぎて、ますます匂いが鼻につくんだ。白味噌も駄目だね。甘ったるくて、口に合わない」
「京都の料理を虚《こ》仮《け》にせんといて。江戸の味付けなんて、塩辛いばっかりやないどすか。田舎くさいわ」
「田舎くさかろうが何だろうが、おれたちにとっては塩気が大事なんだよ。おれたちは剣を振るって汗を流すだろう? 汗で体の塩気がなくなっちまうぶんを食べ物から取らなけりゃ、足が攣《つ》ったり体が痺れたりして、満足に動けなくなるんだ」
花乃さんが不意を打たれた顔をした。
「何やのん、それ。初耳どす」
「そうかもね。今の炊事係は京都や大坂の人ばかりだから。まあ、隊士も半分以上が上方出身だし、ちょうどいいといえばいいんだけど、おれを始め試衛館の面々は江戸の料理を懐かしんでるよ」
花乃さんの足が止まった。往来のさなかだ。立ち尽くす花乃さんとの間に、せわしげな人々が割り込んでくる。はぐれるわけにもいかないから、おれは数歩の距離を戻って、花乃さんの腕を取った。
かすかな声で、花乃さんが何か言った。聞き取れなくて問い返すと、眉をひそめた花乃さんがまっすぐにおれを見上げた。
「すんまへん」
「え? 何のこと?」
「うちは台所を任せてもろてるのに、皆はんの口に合うものを出してへんから。江戸の料理より京都の料理のほうが質がええと思ぉてました。日本でいちばんおいしいものを教えたる、くらいの気持ちでした」
「ああ、うん、京都の料理って世間ではそういう評判だよね。試衛館の仲間内でも、京都の料理は繊細な味で興味深いって、源《げん》さんは言ってるよ。源さんは、京都に来てからは炊事場に入ってないけど、試衛館のころは料理をしてくれていたからさ」
井上源三郎さんは、試衛館の仲間の中で最年長だ。剣術はあまりうまくない。でも、人当たりがよくて算術ができて物事をしっかり考えるから、世知辛い江戸で試衛館の遣り繰りをするために、なくてはならない人だった。
「ほな、井上さまに習《なろ》ぉたら、うちも江戸の料理を覚えられますか?」
「源さんなら教えてくれると思うよ。でも、京都の女は、田舎くさい江戸の味付けなんて嫌いなんじゃないの?」
からかうつもりで笑ってやったら、花乃さんは真剣な顔でかぶりを振った。大きな目に宿る光が強い。
「江戸の味付けやったら、沖田さま、好き嫌いせんと食べてくれはります? うちは塩辛いんは嫌いやけど、ちゃんと味見して、沖田さまにとっておいしいものを作りますさかい」
「おれの、ため?」
大きくうなずいた花乃さんが、腕をつかむおれの手を振り切って、逆におれの腕にすがり付いた。
「沖田さま、痩せはりました。腕も細うて。初めて会《お》ぉたとき、こない細っこい人が刀を振り回すんやと驚きましたけど、半年のうちにあのころより痩せはったでしょう? このままやったら消えてなくなるんと違うかって、不安になります」
腕に花乃さんの体を感じる。温かくて柔らかい。子どものぬくもりじゃなくて、女だ。場違いな熱が体の奥にともって、おれは花乃さんから顔を背けた。
「花乃さんは心配性だな。消えてなくなったりなんかしないよ」
「せやけど、沖田さま……」
「今はおれのことより、山南さんだ。この先に、かわせみ屋という旅籠《はたご》がある。こっちに用事があるときに使う宿で、島田さんからの言《こと》伝《づて》も預かってもらってるはずだ。日が暮れないうちに行こう」
少し力を込めて腕を引くと、花乃さんの手があっさりと離れていった。完全に離れてしまう前に、おれは花乃さんの細い手首をつかんだ。人混みの中を歩き出す。花乃さんは黙って付いてくる。
いくらも行かないうちに、唐突に、おれの肩の上でヤミが立ち上がった。どうした、と訊く間もない。ヤミはおれの肩から跳び下りて、すたすたと歩き出した。数歩行って、二股の尻尾を揺らしながら振り返る。
「どないしはったの?」
「付いてこいってことだろうね。ヤミは人間よりずっと鼻が利くから」
山南さんの気配を嗅ぎ分けたに違いない。
おれと花乃さんはヤミの後を追い掛けた。次第にひとけが遠ざかる。どこをどう歩いたのか、大津の地理に暗いから、もうわからない。
気が付いたら、苔《こけ》むした鳥居の前に立っていた。二股の尻尾の後ろ姿が、鳥居をくぐって歩いていく。
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幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。
御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。
吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~
裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか
―――
将軍?捨て子?
貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。
その暮らしは長く続かない。兄の不審死。
呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。
次第に明らかになる不審死の謎。
運命に導かれるようになりあがる吉宗。
将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。
※※
暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。
低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。
民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。
徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。
本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。
数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。
本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか……
突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。
そして御三家を模倣した御三卿を作る。
決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。
彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。
そして独自の政策や改革を断行した。
いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。
破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。
おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。
その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。
本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
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