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二 斎藤一之章:Spy
蛤御門の変(二)
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試衛館の仲間が京都に到着して、一年と四ヶ月が経った。オレたちが池田屋に討ち入って尊皇攘夷の過激派を征伐した手柄は、京都の情勢を大きく変えた。
新撰組は称賛された。新撰組の直接の上役である会津藩主、松《まつ》平《だいら》容《かた》保《もり》公からも、特別の給金を賜《たまわ》った。金がなくて苦しい生活だったのを、ようやく脱却できそうだ。
尊攘派は逆に、ますます追い詰められた。池田屋事件の始末を巡って、長州藩を京都から追い出そうという声が、朝廷や幕臣から上がった。長州藩とそれ以外の藩との対立が深まった。修復不能なほどに。
そして、池田屋事件から一ヶ月半が経った秋七月中旬。にっちもさっちもいかなくなった長州藩は、過激な手段に出た。勝先生が避けたがっていた「鉄砲だの大砲だの持ち出してどんぱち」やる事態が、京都のまちなかに出現した。
御所西の蛤《はまぐり》御《ご》門《もん》を背にした会津藩、新撰組、桑名藩の連合軍に向けて、長州藩が発砲。御所へ押し入りたい長州藩と、門を守る会津藩連合軍の、激しい戦闘となった。
長州藩のうち発砲した部隊は八百人だが、増援が到着すれば二千人を優に超える兵力だ。これに対し、会津藩は一千人を切る程度。新撰組に至っては、出動できたのは七十人足らずだ。
銃弾、砲弾が飛び交っている。オレのそばで身を伏せながら、土方さんが歯噛みした。
「話にならねえ。新撰組の飛び道具は貧弱だ。金さえありゃ、ちっとぁどうにかなったものを」
屯所にも鉄砲や大砲があるが、古道具みたいな品物だ。どこかの藩がいらなくなったものをもらい受けた。飛び道具だけじゃなく、刀も具足も何もかも、新撰組はそんなふうだ。羽織の代金だって、まだ完済できていない。
火薬の匂いと土埃と、ごくかすかに、血臭。砲弾が破裂すると、しばらく耳が馬鹿になる。
距離を置いて弾を飛ばし合う今のままじゃ、刀を差してここに控えている意味がない。いっそ長州藩が突入してきて白兵戦が始まれば、新撰組も働けるのに。焦りが募る。
焦り?
長州藩のほうこそ焦っているんじゃないのか? 総力を注ぎ込むつもりで来るだろう。緒戦が砲撃と銃撃だけとは思えない。
「嫌な感じがする」
煙と土埃の向こうへと目を凝らす。ずらりと居並ぶ大砲。先頭に立つ鎧《よろい》兜《かぶと》の指揮官が、振り返って何かの指示をした。
異形が姿を現した。
体が長い。蛇かと思ったが、翼と脚とたてがみがある。頭は三つ、脚は七本、尻尾は三股に分かれている。鱗は不気味に赤黒い。
会津藩連合軍から、どよめきと悲鳴が上がった。砲撃を指揮する切れ者の山本覚馬さえ、無防備に棒立ちしている。
異様な姿の龍が、つんのめりそうな格好で駆けてくる。その周囲の空間がひしゃげるのが見える。
「まずい、力場に呑まれたら戦えない」
オレは立ち上がった。刀に手を掛けながら飛び出す。銃弾が頬をかすめた。龍は前衛の目前に迫っている。止めなければ。
凛と響く男の声があった。
「させぬ!」
制止する臣下を振り切って、男が全軍の正面に躍り出た。黒い烏帽子《えぼし》に錦の陣羽織、色白で涼しく端正な顔をした男だ。
「会津公、松平容保さま……」
思わず足が止まった。恐れ多くも、その名をつぶやいてしまう。
軍全体が色を失った。容保公ひとりが冷静に龍を見据えて、動いた。
容保公は胸の前で両手を合わせた。次の瞬間、内なる気が噴き上がって、烏帽子を吹き飛ばす。半ば隠れていた額があらわになった。そこに赤い環がある。透明な翅《はね》が三対、容保公の背中に広がった。
環の力を得た者だ。けれど、妖ではない。呪詛にも似た妖気を、容保公は欠片《かけら》も発しない。
容保公が気迫の声を放った。六角形の白い光の板が、とっさに数え切れないほどたくさん出現した。会津藩連合軍の正面に立ち上がった六角形は、蜂の巣のようにみっちりと組み合わさって、白い光の壁を成す。
銃撃と砲撃が止んだ。いや、止んではいない。こちらに届かないだけだ。銃弾も砲弾も光の壁に当たって消滅する。
龍が壁にぶち当たって弾き返された。距離は近い。けれど、妖気は迫ってこない。容保公の壁が防いでいるらしい。
「誰ぞ妖を討てる者は!」
容保公が呼ばわった。オレは戦陣を駆け抜けて、前衛の守りから飛び出した。
ここに沖田さんはいない。胸の病で寝付いている。山南さんもいない。屯所を守っている。だから、オレが一人で行く。
問題ない。図体だけは大きいが、異形の龍はさして強くない。抜き放った太刀、環《ワ》断《ダチ》がそう告げている。
オレは環断の鍔《つば》を外した。面妖な姿になった環断が本来の力を解放する。オレの気を食って、妖の肉を断つ力だ。
妖の空間に突っ込んだ。平べったく押し延べられた景色。銃弾らしきものが、極彩色の尾を引きながら、歪んだ世界の向こうを滑っていく。
オレは龍を睨《にら》む。首の長さがばらばらの三つの頭は、いちばん高いやつがオレの背丈の倍といったところか。体幹が安定せず、重心がふらついている。
「さっさと潰してやる」
胴を狙うより細い首を討つほうが手早いだろう。オレは刀を構えた。万全の気迫が、しかし削がれた。
「助太刀させてくなんしょ!」
女の声だ。会津の言葉だ。
道着姿に薙刀《なぎなた》を携えた娘が、妖の力場に飛び込んできた。色白の綺麗な顔が、あまりにも場違いだ。
「あんた、何なんだ?」
「時《とき》尾《お》と申します。貴方《おめさま》と同じ、環を断つ者だなし」
襷《たすき》を掛けた袖の下、ちらりと、白い二の腕に蒼い環がのぞく。その細い腕で薙刀なんか振り回せるのか。不安が差したが、丁重に構っている余裕はない。
「自分の身は自分で守れ」
言い捨てて、走る。突進の勢いを刀に乗せる。ふらつく龍の右の首へ、大振りの斬撃。鱗の肌に刃が深々と食い込んだ。
骨を砕く感触はあった。血を撒《ま》き散らしながら、首はまだつながっている。オレは跳び下がる。
真ん中の頭が顎《あご》を開いた。何かが来ると勘付いた次の瞬間、龍が火を噴いた。避ける暇はない。環断をかざして、ただ耐える。
肌が焼ける。額の鉢《はち》金《がね》が、着込んだ鎖《くさり》帷子《かたびら》が、猛烈な熱を持つ。思わず声を上げる。
炎の息吹が止んだ。次の息を吸い込もうと、龍に隙ができた。見逃せない。
オレは地面を蹴った。火傷《やけど》の痛みの八つ当たりのように、全力で薙《な》ぐ。千切れかけだった右の首が刎《は》ね飛んだ。
ぐらりと、龍の体が傾いた。憎悪のまなざしが四対、オレを見下ろした。二つの顎が同時に開かれる。オレは身構えた。
炎は来なかった。
「無茶しらんにべ」
オレの前に、時尾と名乗った娘がいる。両腕を開いた時尾の正面に、淡い色の膜が広がって、炎を防いでいる。
炎が止んだ。龍の前脚が三本まとめて、オレと時尾に振り下ろされる。転がって避けて、龍から間合いを取る。
時尾がオレに駆け寄った。くっきりした眉がひそめられている。オレは顔を背けた。
「お侍さま、じっとしてくなんしょ」
侍と呼ばれて、名乗っていないと気付いた。
時尾の手がオレの頬に触れた。びくりと、オレはとっさに震える。時尾は手を引かない。その手から、涼しいような温かいような、心地よい何かが流れ込んでくる。
ちりちりとした痛みが癒される。身にまとう鉄から熱が消える。息を呑んで目を見張る、ほんのわずかな時間の出来事だ。
時尾が手を引いた。薙刀を握るくせに柔らかな感触が、オレの頬に名《な》残《ごり》を留めた。時尾はすでに龍に向き直って薙刀を構える。
「この龍、そだに命が感じられね。間違った環の力から早く解放してやっべし」
オレは時尾より前に出た。
「炎には気を付ける」
間合いを一気に詰める。中央の首を滅多突きにする。前脚を避けて跳びのく。
炎の息吹を構える横っ面を、時尾の薙刀が打ち据える。地団太を踏む七本の脚が絡まって、巨体がよろめく。勢いに乗じて攻撃を加える。龍が横倒しになる。
起き上がれない敵をいたぶるのは趣味じゃない。環断を晴眼に構えて、龍を見据える。赤黒い鱗を透かして、心臓のありかがわかった。
オレはまっすぐに踏み込んだ。あばらの間を縫って、正確に心臓を仕留める。
「来世はまともに生きろ」
つぶやいた言葉が、絶命する龍に聞こえたはずもない。
緞《どん》帳《ちょう》が切って落とされたように、いきなり、戦場の現実が目の前に展開された。一瞬、状況がわからなかった。
耳の脇を何かがかすめた。銃弾だ。
容保公の守りの壁は背後にある。正面には、長州藩の前衛。路地を埋め尽くして、ずらりと並んだ鉄砲、大砲。
「お侍さま!」
時尾に飛び付かれるまま、体勢を沈めた。淡い色の膜がオレと時尾を包んでいる。斎藤、とオレを呼ぶ近藤さんの声が、爆音の合間に聞こえた。オレと時尾は体を低くして、会津藩連合軍の前衛に戻った。
両軍の砲撃が続く。会津藩の大砲頭取、山本覚馬の指揮は的確で、斉射のたび、長州藩の前衛が次第に欠けていく。眉のあたりを負傷した山本さんは血を拭いながら、すがめた目で長州藩を睨《にら》んで、大砲と銃に指示を出す。
見ていることしかできない。銃弾と砲弾を防ぐ容保公の壁の内側で、会津藩の中でもオレと同い年くらいの若い連中が戦うのを、ただ見ている。
いつの間にか時尾はいなくなっていた。土方さんと藤堂さんがオレの隣にいた。土方さんの秀麗な顔はひどく険しい。
「よく見ておけ、斎藤。見て、学んで、盗め。俺たちもいずれ、あの戦い方をしなきゃならねえ。今はそんな時代だ」
藤堂さんが額の鉢金に触れている。池田屋で額をやられて以来、無意識に傷に触れる癖がついたようだ。
「敵が逃げ出したら、残党狩りに繰り出す。これは刀を使う仕事だ。そこできっちり働くしかねぇな」
「歯痒い」
「何言ってんだ、斎藤。おまえはついさっき、妖を退治するっていう大仕事をしただろうが。俺にもその力があれば、一緒に行きたかった。俺も力がほしい」
不意に、容保公がよろめいた。オレはたまたま目撃したが、そうでない者もすぐに気付いた。白く光る壁が、花びらを散らすように、六角形の欠片《かけら》になって音もなく崩れていく。
「殿!」
悲鳴のような声があちこちから上がった。容保公の背中に生えた三対の翅が、ふっと掻き消える。容保公は膝を突いた。
土方さんが舌打ちした。
「会津藩は主君への忠誠心が並外れて強い。その主君が戦線離脱するとなりゃ、士気が落ちるのは必然。まずいぞ」
長州藩も同じ読みをしたらしい。ここぞとばかりに砲撃が勢いを増した。銃弾が盾の隙間を縫って飛び込んでくる。前衛の目の前で炸裂した砲弾が鉄片を撒《ま》き散らす。倒れる者が続出する。
ころりと形勢が覆《くつがえ》った。焦って怯《ひる》めば、その空気はまたたく間に全軍に伝播する。門を守って路地にひしめく軍勢が一斉に浮足立った。
いけない。持ち応えなければ。
土埃と煙の向こうで、長州藩が前進して、斉射の構えを見せた。足音と怒号。会津藩の焦燥が、あわや恐怖に変わりかける。
突如、横合いから轟音が聞こえた。
何が起こったか、とっさには読めない。
長州藩の前衛が崩れた。見えない手に薙《な》ぎ倒されるように、兵士がばたばたと倒れる。再び、轟音。長州藩がさらに崩れる。
会津藩の山本さんが、ぱっと顔を輝かせた。
「薩摩だ! 薩摩軍が、新式の銃と大砲を引っ提げて加勢に来たぞ!」
形勢が再び覆った。会津藩連合軍は俄然、気勢を盛り返した。不意打ちに攪《かく》乱《らん》された長州藩を、薩摩藩と呼吸を合わせて攻め立てる。
長州藩が完全に崩れるまでに、さほど時間は必要なかった。回収できない大砲は壊して打ち捨てて、長州藩は散り散りになって逃げた。
会津藩の老武将、林《はやし》権《ごん》助《すけ》が先頭に立って、残党狩りの開始を告げた。林さんの年代の会津藩士は刀だけの武士だ。鉄砲を扱う若い世代のそばで歯噛みしていたに違いない。
近藤さんも意気揚々として、新撰組に言い渡す。
「我らも会津藩に続け! 手柄を立てて、新撰組の名を日本じゅうに知らしめるぞ!」
おうッと吠えて、土方さんが、藤堂さんが、永倉さんが、刀に手を掛けながら駆け出していく。そんな様子を、オレはじっと見つめる。
原田さんが、先陣から外れたオレに気付いて、足を止めた。
「どうした、斎藤? さっきの妖狩りで消耗したか?」
十番隊組長、原田左之助。刀を使う者がほとんどを占める新撰組の中では珍しい、槍の使い手。伊予から江戸に流れてきた脱藩浪人で、熱い気性とどこか醒《さ》めた目を持ち合わせる。近藤さんや土方さんを、頭から妄信してはいない。飄《ひょう》々《ひょう》として、ある意味では我が強い。
「消耗したわけじゃない。殿《しんがり》に就こうと思っただけだ」
「道理だな。近藤さんや土方さんは筆頭で手柄を立てようと突っ走るだろうし、平助や新八は熱中したらまわりが見えなくなる。尻拭い役が必要だ」
流れ弾で負傷した隊士がいた。会津藩の負傷兵とともに待機することを告げる。新撰組から死者は出ていない。動ける隊士全員がそれぞれの組長に続くのを見届けて、オレと原田さんも隊士を引き連れて駆け出す。
新撰組は手勢が少ない。七十人にも満たない。容保公からは信頼されて、竹田街道の要所の守りを預かっていた。でも、南の伏見から攻め上がる気配の長州藩を睨《にら》んでおくのがせいぜいで、追い払うこともできなかった。
しかも、装備が手薄だ。御所西での急変の知らせを受けて会津藩の加勢に駆け付けたものの、砲撃戦の中で何もできなかった。
「時代遅れ」
いつだったか、勝先生に言われた。新撰組はかわいいもんだ、刀を振り回すだけの時代遅れのかわいい犬だ、と。狼ですらなかった。
ふと見ると、容保公が戦死した家臣の前で合《がっ》掌《しょう》していた。今にも倒れそうに顔色が悪い。病みがちなのを押して出陣したと聞く。容保公の後ろで、時尾が目を閉じて手を合わせている。
羽ばたきの音が聞こえた。見慣れた白い鳩《はと》が頭上にいる。脚に手紙が結ばれている。鳩は呑《のん》気《き》に鳴いて、オレの肩に舞い降りようとした。
「今は寄るな」
短く告げて腕を振ると、鳩は素直に飛び去った。
新撰組は称賛された。新撰組の直接の上役である会津藩主、松《まつ》平《だいら》容《かた》保《もり》公からも、特別の給金を賜《たまわ》った。金がなくて苦しい生活だったのを、ようやく脱却できそうだ。
尊攘派は逆に、ますます追い詰められた。池田屋事件の始末を巡って、長州藩を京都から追い出そうという声が、朝廷や幕臣から上がった。長州藩とそれ以外の藩との対立が深まった。修復不能なほどに。
そして、池田屋事件から一ヶ月半が経った秋七月中旬。にっちもさっちもいかなくなった長州藩は、過激な手段に出た。勝先生が避けたがっていた「鉄砲だの大砲だの持ち出してどんぱち」やる事態が、京都のまちなかに出現した。
御所西の蛤《はまぐり》御《ご》門《もん》を背にした会津藩、新撰組、桑名藩の連合軍に向けて、長州藩が発砲。御所へ押し入りたい長州藩と、門を守る会津藩連合軍の、激しい戦闘となった。
長州藩のうち発砲した部隊は八百人だが、増援が到着すれば二千人を優に超える兵力だ。これに対し、会津藩は一千人を切る程度。新撰組に至っては、出動できたのは七十人足らずだ。
銃弾、砲弾が飛び交っている。オレのそばで身を伏せながら、土方さんが歯噛みした。
「話にならねえ。新撰組の飛び道具は貧弱だ。金さえありゃ、ちっとぁどうにかなったものを」
屯所にも鉄砲や大砲があるが、古道具みたいな品物だ。どこかの藩がいらなくなったものをもらい受けた。飛び道具だけじゃなく、刀も具足も何もかも、新撰組はそんなふうだ。羽織の代金だって、まだ完済できていない。
火薬の匂いと土埃と、ごくかすかに、血臭。砲弾が破裂すると、しばらく耳が馬鹿になる。
距離を置いて弾を飛ばし合う今のままじゃ、刀を差してここに控えている意味がない。いっそ長州藩が突入してきて白兵戦が始まれば、新撰組も働けるのに。焦りが募る。
焦り?
長州藩のほうこそ焦っているんじゃないのか? 総力を注ぎ込むつもりで来るだろう。緒戦が砲撃と銃撃だけとは思えない。
「嫌な感じがする」
煙と土埃の向こうへと目を凝らす。ずらりと居並ぶ大砲。先頭に立つ鎧《よろい》兜《かぶと》の指揮官が、振り返って何かの指示をした。
異形が姿を現した。
体が長い。蛇かと思ったが、翼と脚とたてがみがある。頭は三つ、脚は七本、尻尾は三股に分かれている。鱗は不気味に赤黒い。
会津藩連合軍から、どよめきと悲鳴が上がった。砲撃を指揮する切れ者の山本覚馬さえ、無防備に棒立ちしている。
異様な姿の龍が、つんのめりそうな格好で駆けてくる。その周囲の空間がひしゃげるのが見える。
「まずい、力場に呑まれたら戦えない」
オレは立ち上がった。刀に手を掛けながら飛び出す。銃弾が頬をかすめた。龍は前衛の目前に迫っている。止めなければ。
凛と響く男の声があった。
「させぬ!」
制止する臣下を振り切って、男が全軍の正面に躍り出た。黒い烏帽子《えぼし》に錦の陣羽織、色白で涼しく端正な顔をした男だ。
「会津公、松平容保さま……」
思わず足が止まった。恐れ多くも、その名をつぶやいてしまう。
軍全体が色を失った。容保公ひとりが冷静に龍を見据えて、動いた。
容保公は胸の前で両手を合わせた。次の瞬間、内なる気が噴き上がって、烏帽子を吹き飛ばす。半ば隠れていた額があらわになった。そこに赤い環がある。透明な翅《はね》が三対、容保公の背中に広がった。
環の力を得た者だ。けれど、妖ではない。呪詛にも似た妖気を、容保公は欠片《かけら》も発しない。
容保公が気迫の声を放った。六角形の白い光の板が、とっさに数え切れないほどたくさん出現した。会津藩連合軍の正面に立ち上がった六角形は、蜂の巣のようにみっちりと組み合わさって、白い光の壁を成す。
銃撃と砲撃が止んだ。いや、止んではいない。こちらに届かないだけだ。銃弾も砲弾も光の壁に当たって消滅する。
龍が壁にぶち当たって弾き返された。距離は近い。けれど、妖気は迫ってこない。容保公の壁が防いでいるらしい。
「誰ぞ妖を討てる者は!」
容保公が呼ばわった。オレは戦陣を駆け抜けて、前衛の守りから飛び出した。
ここに沖田さんはいない。胸の病で寝付いている。山南さんもいない。屯所を守っている。だから、オレが一人で行く。
問題ない。図体だけは大きいが、異形の龍はさして強くない。抜き放った太刀、環《ワ》断《ダチ》がそう告げている。
オレは環断の鍔《つば》を外した。面妖な姿になった環断が本来の力を解放する。オレの気を食って、妖の肉を断つ力だ。
妖の空間に突っ込んだ。平べったく押し延べられた景色。銃弾らしきものが、極彩色の尾を引きながら、歪んだ世界の向こうを滑っていく。
オレは龍を睨《にら》む。首の長さがばらばらの三つの頭は、いちばん高いやつがオレの背丈の倍といったところか。体幹が安定せず、重心がふらついている。
「さっさと潰してやる」
胴を狙うより細い首を討つほうが手早いだろう。オレは刀を構えた。万全の気迫が、しかし削がれた。
「助太刀させてくなんしょ!」
女の声だ。会津の言葉だ。
道着姿に薙刀《なぎなた》を携えた娘が、妖の力場に飛び込んできた。色白の綺麗な顔が、あまりにも場違いだ。
「あんた、何なんだ?」
「時《とき》尾《お》と申します。貴方《おめさま》と同じ、環を断つ者だなし」
襷《たすき》を掛けた袖の下、ちらりと、白い二の腕に蒼い環がのぞく。その細い腕で薙刀なんか振り回せるのか。不安が差したが、丁重に構っている余裕はない。
「自分の身は自分で守れ」
言い捨てて、走る。突進の勢いを刀に乗せる。ふらつく龍の右の首へ、大振りの斬撃。鱗の肌に刃が深々と食い込んだ。
骨を砕く感触はあった。血を撒《ま》き散らしながら、首はまだつながっている。オレは跳び下がる。
真ん中の頭が顎《あご》を開いた。何かが来ると勘付いた次の瞬間、龍が火を噴いた。避ける暇はない。環断をかざして、ただ耐える。
肌が焼ける。額の鉢《はち》金《がね》が、着込んだ鎖《くさり》帷子《かたびら》が、猛烈な熱を持つ。思わず声を上げる。
炎の息吹が止んだ。次の息を吸い込もうと、龍に隙ができた。見逃せない。
オレは地面を蹴った。火傷《やけど》の痛みの八つ当たりのように、全力で薙《な》ぐ。千切れかけだった右の首が刎《は》ね飛んだ。
ぐらりと、龍の体が傾いた。憎悪のまなざしが四対、オレを見下ろした。二つの顎が同時に開かれる。オレは身構えた。
炎は来なかった。
「無茶しらんにべ」
オレの前に、時尾と名乗った娘がいる。両腕を開いた時尾の正面に、淡い色の膜が広がって、炎を防いでいる。
炎が止んだ。龍の前脚が三本まとめて、オレと時尾に振り下ろされる。転がって避けて、龍から間合いを取る。
時尾がオレに駆け寄った。くっきりした眉がひそめられている。オレは顔を背けた。
「お侍さま、じっとしてくなんしょ」
侍と呼ばれて、名乗っていないと気付いた。
時尾の手がオレの頬に触れた。びくりと、オレはとっさに震える。時尾は手を引かない。その手から、涼しいような温かいような、心地よい何かが流れ込んでくる。
ちりちりとした痛みが癒される。身にまとう鉄から熱が消える。息を呑んで目を見張る、ほんのわずかな時間の出来事だ。
時尾が手を引いた。薙刀を握るくせに柔らかな感触が、オレの頬に名《な》残《ごり》を留めた。時尾はすでに龍に向き直って薙刀を構える。
「この龍、そだに命が感じられね。間違った環の力から早く解放してやっべし」
オレは時尾より前に出た。
「炎には気を付ける」
間合いを一気に詰める。中央の首を滅多突きにする。前脚を避けて跳びのく。
炎の息吹を構える横っ面を、時尾の薙刀が打ち据える。地団太を踏む七本の脚が絡まって、巨体がよろめく。勢いに乗じて攻撃を加える。龍が横倒しになる。
起き上がれない敵をいたぶるのは趣味じゃない。環断を晴眼に構えて、龍を見据える。赤黒い鱗を透かして、心臓のありかがわかった。
オレはまっすぐに踏み込んだ。あばらの間を縫って、正確に心臓を仕留める。
「来世はまともに生きろ」
つぶやいた言葉が、絶命する龍に聞こえたはずもない。
緞《どん》帳《ちょう》が切って落とされたように、いきなり、戦場の現実が目の前に展開された。一瞬、状況がわからなかった。
耳の脇を何かがかすめた。銃弾だ。
容保公の守りの壁は背後にある。正面には、長州藩の前衛。路地を埋め尽くして、ずらりと並んだ鉄砲、大砲。
「お侍さま!」
時尾に飛び付かれるまま、体勢を沈めた。淡い色の膜がオレと時尾を包んでいる。斎藤、とオレを呼ぶ近藤さんの声が、爆音の合間に聞こえた。オレと時尾は体を低くして、会津藩連合軍の前衛に戻った。
両軍の砲撃が続く。会津藩の大砲頭取、山本覚馬の指揮は的確で、斉射のたび、長州藩の前衛が次第に欠けていく。眉のあたりを負傷した山本さんは血を拭いながら、すがめた目で長州藩を睨《にら》んで、大砲と銃に指示を出す。
見ていることしかできない。銃弾と砲弾を防ぐ容保公の壁の内側で、会津藩の中でもオレと同い年くらいの若い連中が戦うのを、ただ見ている。
いつの間にか時尾はいなくなっていた。土方さんと藤堂さんがオレの隣にいた。土方さんの秀麗な顔はひどく険しい。
「よく見ておけ、斎藤。見て、学んで、盗め。俺たちもいずれ、あの戦い方をしなきゃならねえ。今はそんな時代だ」
藤堂さんが額の鉢金に触れている。池田屋で額をやられて以来、無意識に傷に触れる癖がついたようだ。
「敵が逃げ出したら、残党狩りに繰り出す。これは刀を使う仕事だ。そこできっちり働くしかねぇな」
「歯痒い」
「何言ってんだ、斎藤。おまえはついさっき、妖を退治するっていう大仕事をしただろうが。俺にもその力があれば、一緒に行きたかった。俺も力がほしい」
不意に、容保公がよろめいた。オレはたまたま目撃したが、そうでない者もすぐに気付いた。白く光る壁が、花びらを散らすように、六角形の欠片《かけら》になって音もなく崩れていく。
「殿!」
悲鳴のような声があちこちから上がった。容保公の背中に生えた三対の翅が、ふっと掻き消える。容保公は膝を突いた。
土方さんが舌打ちした。
「会津藩は主君への忠誠心が並外れて強い。その主君が戦線離脱するとなりゃ、士気が落ちるのは必然。まずいぞ」
長州藩も同じ読みをしたらしい。ここぞとばかりに砲撃が勢いを増した。銃弾が盾の隙間を縫って飛び込んでくる。前衛の目の前で炸裂した砲弾が鉄片を撒《ま》き散らす。倒れる者が続出する。
ころりと形勢が覆《くつがえ》った。焦って怯《ひる》めば、その空気はまたたく間に全軍に伝播する。門を守って路地にひしめく軍勢が一斉に浮足立った。
いけない。持ち応えなければ。
土埃と煙の向こうで、長州藩が前進して、斉射の構えを見せた。足音と怒号。会津藩の焦燥が、あわや恐怖に変わりかける。
突如、横合いから轟音が聞こえた。
何が起こったか、とっさには読めない。
長州藩の前衛が崩れた。見えない手に薙《な》ぎ倒されるように、兵士がばたばたと倒れる。再び、轟音。長州藩がさらに崩れる。
会津藩の山本さんが、ぱっと顔を輝かせた。
「薩摩だ! 薩摩軍が、新式の銃と大砲を引っ提げて加勢に来たぞ!」
形勢が再び覆った。会津藩連合軍は俄然、気勢を盛り返した。不意打ちに攪《かく》乱《らん》された長州藩を、薩摩藩と呼吸を合わせて攻め立てる。
長州藩が完全に崩れるまでに、さほど時間は必要なかった。回収できない大砲は壊して打ち捨てて、長州藩は散り散りになって逃げた。
会津藩の老武将、林《はやし》権《ごん》助《すけ》が先頭に立って、残党狩りの開始を告げた。林さんの年代の会津藩士は刀だけの武士だ。鉄砲を扱う若い世代のそばで歯噛みしていたに違いない。
近藤さんも意気揚々として、新撰組に言い渡す。
「我らも会津藩に続け! 手柄を立てて、新撰組の名を日本じゅうに知らしめるぞ!」
おうッと吠えて、土方さんが、藤堂さんが、永倉さんが、刀に手を掛けながら駆け出していく。そんな様子を、オレはじっと見つめる。
原田さんが、先陣から外れたオレに気付いて、足を止めた。
「どうした、斎藤? さっきの妖狩りで消耗したか?」
十番隊組長、原田左之助。刀を使う者がほとんどを占める新撰組の中では珍しい、槍の使い手。伊予から江戸に流れてきた脱藩浪人で、熱い気性とどこか醒《さ》めた目を持ち合わせる。近藤さんや土方さんを、頭から妄信してはいない。飄《ひょう》々《ひょう》として、ある意味では我が強い。
「消耗したわけじゃない。殿《しんがり》に就こうと思っただけだ」
「道理だな。近藤さんや土方さんは筆頭で手柄を立てようと突っ走るだろうし、平助や新八は熱中したらまわりが見えなくなる。尻拭い役が必要だ」
流れ弾で負傷した隊士がいた。会津藩の負傷兵とともに待機することを告げる。新撰組から死者は出ていない。動ける隊士全員がそれぞれの組長に続くのを見届けて、オレと原田さんも隊士を引き連れて駆け出す。
新撰組は手勢が少ない。七十人にも満たない。容保公からは信頼されて、竹田街道の要所の守りを預かっていた。でも、南の伏見から攻め上がる気配の長州藩を睨《にら》んでおくのがせいぜいで、追い払うこともできなかった。
しかも、装備が手薄だ。御所西での急変の知らせを受けて会津藩の加勢に駆け付けたものの、砲撃戦の中で何もできなかった。
「時代遅れ」
いつだったか、勝先生に言われた。新撰組はかわいいもんだ、刀を振り回すだけの時代遅れのかわいい犬だ、と。狼ですらなかった。
ふと見ると、容保公が戦死した家臣の前で合《がっ》掌《しょう》していた。今にも倒れそうに顔色が悪い。病みがちなのを押して出陣したと聞く。容保公の後ろで、時尾が目を閉じて手を合わせている。
羽ばたきの音が聞こえた。見慣れた白い鳩《はと》が頭上にいる。脚に手紙が結ばれている。鳩は呑《のん》気《き》に鳴いて、オレの肩に舞い降りようとした。
「今は寄るな」
短く告げて腕を振ると、鳩は素直に飛び去った。
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