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第六話 しょうもない
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そこそこに器量よしで、そこそこに裕福な料理屋の娘だ。商売上手な二親の笑顔を手本にして育ったから、愛想がいいとか気が利いているとかと、ほんの子供の時分から言われてきた。
御陰様で嫁の貰い手には困らなかった。手習い仲間の同年輩の娘の中で真っ先に祝言を挙げたのは、ていだった。
嫁いだあの頃が山の頂だったのだと、ていは思う。島原に馴染みの女がいた夫は、ていにろくすっぽ関心を示さず、二人の間に子も生まれないうちに何某かの病を得てあっさり死んだ。
料理屋に出戻ると、ていは、嫁ぐ前と同じようにきりきり働いた。が、跡取り息子である弟が嫁を取ってからはそうもいかなくなった。ていは、暖簾分けだか厄介払いだかわからない格好でよそに店を一つ任されることとなり、結局、三十路も半ばの行き遅れとなっている。
ていの店の客は、刀を帯びた強面ばかりだ。一つきりの座敷に客を通し、はんなりと色鮮やかな京風の料理と少しばかりの酒を出すのが、どうやら武士の密議の場にちょうどよいらしい。
いつ頃から京都に田舎臭い武士が増えたのだったか。そんな男たちが初めて店を訪れた日は、ていも無論、ぎょっとした。ほんまに何もされへんやろかと、客がいる間中、気が気ではなかった。
とはいえ、客は客だ。ていが毛嫌いを面に出さずにもてなしてやれば、島原でこの店の噂を聞いてきた、馳走になるぞと言った西方訛りの武士は、悪い客ではなかった。金払いはきちんとしていたし、それなりに愛想もよかった。存外おとなしい酒の飲み方をしてもいた。
その最初の客は、五六人での密議の宴席を幾度かに渡って設けた後、一月ばかり経つと、首だけになって三条河原に晒されていた。
あれはどこの国の何者で、何の罪で死んだのだったか、ていはもう忘れてしまった。ていの店を訪れて食事をし、料理を誉め、おかみさんは別嬪だと世辞を言ったりなどした帯刀の客が程無く鬼籍に入ることは、珍しくもないのだ。
だから、近藤勇という名の東国の田舎武士も、すぐにいなくなると思っていた。
四角く厳つい顔に、分厚い体躯をしている。一見、ひどく大きく硬く恐ろしげな印象を与える男だ。恐ろしげとはいっても、その佇まいは鬼というより、巌か山である。のし掛かられれば押し潰されるであろう重みを感じさせるが、静かだ。鬼や閻魔のような激しさはない。
色男やないけれども、男前。
そう思った。初めから、なぜだか。
近藤は妙に無邪気なところがある。握り拳が口の中に丸ごと入るのだと、宴席で奇妙な特技を披露して周囲の者を笑わせた。ていも笑った。近藤は、拳を口に入れるより口から取り出すほうが実は難しいのだと、これまた奇妙な裏話を皆に語った。皆、また笑った。
馳走になるぞと、近藤が大きな体を屈めながら切れ上がった目を細めると、ていの胸はふわりと温かく弾む。夜更けに去っていく後ろ姿を見送ると、次に会うときも彼の首は胴体に繋がっているだろうかと不安になる。
このざわつく胸を、どう宥めればよいか。ざわつきに名を与えるならば、何と呼ぶべきか。
あかんわ。ほんまに、あかん。
気になる男の前で浮わついてしまうなど、熟し切れぬ小娘のすること。ていは、それより二十も年を重ねている。今更、男の一挙一動にいちいち頬など染めるものではない。
わかっていたはずなのに、なぜ。
昆布の出汁を取る。ふつふつと、水が湯に変わっていくにつれ、御天道様の光が縁側に届くときのように、柔らかな黄金色を帯びてくる。
その黄金色を、なるだけ汚してはなからない。出汁そのものの持つ、甘くふくよかな香りとほのかな味わいも、濁してもならない。
干物のあらめは水を吸わせて柔らかく戻し、ざっと荒って、ざるに開けておく。御揚げは細い短冊に刻む。
あらめを出汁に入れ、塩と酒と砂糖、それから少しの醤油と一緒に煮立てる。ふわりと立ち上る甘やかな臭みは、近藤が言うには、海の匂いだそうだ。あらめは温かい海の底に生え、ゆらゆらと波に揺らぎながら育つ草である。
ほんの一煮立ちでよい。煮すぎれば、歯触りも何もなくなってしまう。あらめに熱が通ったら、御揚げを入れ、灰汁をすくって火から下ろす。煮物の味は、いったん冷ます間にしっくりと染み込むのだ。
ていは淀みのない手付きでそこまで終えると、ほう、と息をついた。このところだんだんと暖かくなって、明けやらぬ刻限の板場でも息は白くない。
かさついた両の手の平で己の頬に触れ、唇に触れる。息を継ぐのも忘れて女の悦びに酔い知れた、つい先程までの火照りは肌の奥深くに沈んでいって、今、ていの指には触れない。ていの手は板場の匂いに戻ってしまった。男の汗ばんだ肌と青臭い精の匂いはもう、わずかも残っていない。
空が淡い朝ぼらけに滲む中を、近藤は壬生へと帰っていった。情を交わした体を寄せ合って眠り、一緒に朝を迎えたい。ていはそう思ったが、口には出さなかった。ていを抱いた後の近藤がゆっくりしていった試しなど、一度もない。
いや、先程は、引き留めるような格好になってしまったかもしれない。未練がましかったかもしれない。
あらめと御揚げの炊いたん、お好きどすやろ? これから炊きますえ。今日は八日やから。ああ、京都では、月のうちで決まった日に決まった御菜を作って食べますのや。月の初めは鰊昆布、月の終わりは炒りおからで、末広がりの八日はあらめどす。
召し上がっていかはらへんやろかと、胸の内に期待を抱いてしまっていた。だからこそ、今晩また隊士を連れて食べに来ようと近藤に笑顔で告げられたとき、ていは落胆した。晩ではない。壬生狼にぞろぞろ来てもらいたいわけではない。近藤ただ一人に、今ここにいてほしい。
叶わぬ想いだ。
近藤のほうが自分よりも四つも年が若いと初めて知ったとき、そっと心が傷付いた。男は三十路で男盛りとされるのに、後家の三十路女など哀れなもので、しおれて枯れゆく一方だ。若い娘のはち切れんばかりの瑞々しさに羨望と嫉妬をいだくよりほかにない。
さりげなく近藤の仲間や部下の者たちに尋ねると、近藤は妻もいれば芸妓にも持てるという答えが返ってきた。これには、ていは思いの外、傷付かなかった。きっとそうだとわかっていたのだ。閨の近藤はあまりにも佳い男だったから。
酒の弱い近藤が、疲れも重なっていたのか、一口、二口ばかりで青い顔になった宵があった。ていは手厚く介抱した。そして、一眠りしてすっきりした様子の近藤を、ていは床に押し止め、覆い被さって口を吸った。
混じり合う唾液の味に酔いながら、ていの心は逸った。ていは近藤の分厚い手の平をつかまえ、いつしか乱れた裾の割れ目から、もっちりと肉付いた腿へと導いた。いいのか、と短く問われ、訊かんといて、と答えた。そない野暮なこと、言わんといて。今は、ただ。
男が欲しかった。男に抱かれたかった。生まれて初めての衝動だった。
恍惚を得たことのなかったていの体の奥は、錆び付いたように固く窮屈で乾いていた。だから、痛くても苦しくてもよいと覚悟していた。こんな不憫な体一つで、けれど、今この時だけは近藤を繋ぎ止めておける。この場所に。ていの中に。それが誇らしかった。
が、一つも痛くはなかった。近藤は手練れだった。憎たらしい程に熟練した指は、舌は、腰は、とてつもなく甘く激しく狂おしくて、震えるていをたちまち骨抜きにした。生娘よりも頑固なはずの古びた体はあっさりと開き、潤った。
あれ以来、ていは毎夜のように飢えて焦がれている。ひとりでに蜜はあふれて止まらないのに、ていの心はひたすらに渇いている。近藤が欲しくて欲しくてたまらない。
近藤は体中がごつごつと硬く、首も腕もびっくりするほど太く、手の平の皮膚はごわついて、ていとは何もかもが違う。そのくせ、吸っても何も出やしないていの乳を一心に吸うときの、まつげの掛かった目元と濡れた舌の柔らかさはどこか頼りなげで、得も言われず、いとおしい。
ふと、声がした。
「おかみさん」
ていが振り向くより早く、若い男の肉体がどすんとぶつかってきて、ていを後ろから抱きすくめた。
「何や、菊。もう起きてきたの」
菊太郎の歯噛みをする音が耳元で聞こえた。食い縛った歯の間から押し出された低い声が、ていの首筋に触れた。
「眠られへんかった。おかみさんかて、わかってはるやろ。あたしがどないな思いで離れにおったか。おかみさんは、ひどい人や」
「あら、口だけは一人前なことを」
ていの店に菊太郎が転がり込んだのは、近藤に時折抱かれるようになって少し経った頃だ。たどたどしく舌に載せた菊太郎という名は、きっと偽名だった。ようやく髭が生えてきたといった様子の、まだ柔らかい肌をした男で、二十二だと本人は言うものの、おそらく本当はもっと若い。
どこぞの板場で修行をしていたが、こっぴどい目に遭わされて逃げてきたのだそうだ。空腹のあまり店先でうずくまっていた菊太郎に、ていは気紛れに情けを掛け、握り飯と一椀の汁を与えた。そうしたらひどく懐かれてしまい、後生だから働かせてほしいと頼み込まれた。
菊太郎が板前を目指していたのは嘘ではないだろう。包丁を持たせてみると、それなりに様になる手付きだった。皿を洗ったり火の番をしたりといった、板場のこまごまとした仕事も、難なくこなしてのける。
菊太郎は役に立つ。店の金回りには余裕がある。だから、ていは菊太郎の面倒を見ることにした。店主と奉公人という、初めはそれだけのはずだった。
狂ったのは、狂わせたのは、ていだったのか、菊太郎だったのか。
「なあ、おかみさん、あたしは耐えられへん。何であたしだけを見てくれはらへんのや。壬生狼の、人殺しの首魁なんぞに、どうして」
骨っぽく細い腕のどこにそんな力があるのか。ていがどうやったって振りほどけないほどの力で、菊太郎は、ていを掻き抱いて離そうとしない。
菊太郎、御前、何を勘違いしてはるのや。御前は、うちの何でもないんえ。
そう突き放すことができないのは、菊太郎が男として愛しいからではない。
男なら誰でもよかった。近藤でないなら、誰だって同じなのだ。渇きのあまり蜜を流して泣くていの奥を満たし、掻き混ぜ、哀れんで宥めて乱してくれる生きた熱い棒ならば、ていにとって、誰のそれであっても同じだった。
ていはある晩、菊太郎を使った。ちょうどそこにいたから。うちはちょいと手が離せへんから御鍋を見といてだとか、今日は天神さんに市の立つ日やから御使いに行ってだとか、そんな用事を頼むくらいのつもりだった。
だって、せやろ。一回りよりももっと年の離れた後家に迫られて、立場の低い若い男が、仕方なしに。そんなんで終わって、あれは悪い夢やったんやと、忘れてしまえばええだけの話やったんえ。
「阿呆や、菊は」
何で逃げ出さへんの。鬼女に取って食われた言うて、どっかへ行ってくれてよかったのに。
「ああ、あたしは阿呆やで。こないひどい女に惚れて、にっちもさっちもいかへん。あんたをあたしのもんにしたいのに、あんたはそっぽ向いてばっかりや。あたしを見てもくれへん」
「菊」
「裸になったときかて、なんぼあたしが激しゅうしたって、あんたはよがってみせながら、ほんまはあたしなんか見てはらへん。極楽を見てはるような目をこっちに向けながら、あたしの後ろっ側にあの男を見てはる」
「それは違う」
「どうせあたしは、あんたにとって、あの男の代わりや」
「違うわ、菊」
あの人はあの人や。ほかの誰も、あの人の代わりにはなれへんの。御前、自惚れんといて。
ただ、菊太郎のもどかしさは、ていにもわかる。一番愛しい人の一番には、どうやったって、なれない。
一月程前、近藤に、俺の妾になるかと問われた。考えときますわ、と笑って答えた。むなしくなった。近藤が帰って一人になって、泣いてしまった。
近藤は江戸に妻を残してきている。子供もいるという。島原の芸妓を落籍し、妾に囲って子を為させたとも聞く。馴染みの女は、花街にも市井にもたくさんいるらしい。
無理に手込めにしたのではない。女を心底から惚れさせてしまう何かが、近藤には備わっている。幾人もの女を待たせ、喜ばせ、そして泣かせるだけの甲斐性がある。
ていは、今は、妾になるともなりたくないとも答えられない。近藤が欲しい。でも、うちは何番目なんやろかと考え始めると、溜め息と涙が止まらなくなる。近藤が慈しんでいる、ていが会ったこともない美しい女たちへの嫉妬が、抑え切れなくなってくる。狂いそうになる。
いずれは、近藤に面と向かって答えを求められれば、きっとこの口は、妾になりますと答えてしまうだろう。そして、近藤の一番になれない苦しみを、妾という立場と肩書によって、はっきりと、ていは突き付けられるのだ。
近藤に一番を選んでほしいなどと思っているわけではない。近藤は甲斐性と浮気性を存分に発揮してくれればよい。そうでなくては、ていは捨てられる。孤独に打ち震えながら泣き、近藤の選んだ女を恨み、渇きの癒えぬ寂しい体を持て余し、ついにはきっと鬼になってしまう。
不意に、ていの首筋を菊太郎の口が強く吸った。
「菊、おやめ」
「悔しい」
「阿呆なこと」
「あんたが欲しい。今すぐ」
「何を……」
ていの溜め息を引きちぎって、菊太郎は、ていの口を塞ぎ、舌を絡め取った。ていはささやかに抵抗した。菊太郎の薄い胸を、形ばかりは突き退けようとしてみた。
あかんわ。ほんまに、あかん。
どろどろと、あるいは、ざらざらと。ていの体の中で、濁った熱が疼き始めている。近藤に溶かされたばかりの深い場所から、つ、と伝い落ちるものがある。
ていは目を閉じた。強い渇きを覚えた。まぶたの裏に、愛しくて憎たらしい男の姿がくっきりと浮かんでくる。
「しょうもない男」
呟いて、笑った。
目を開ける。若い男の顔が、欲情と悲哀に歪みながら、ていを見下ろしている。男の体温と息遣いがここにある。何かを言い差した菊太郎の口を、ていは自ら口付けて封じ込めた。
そしてまた、ていは笑った。
もっとしょうもないのんは、わかっとる。うちのほうこそ、ほんまにどないしようもない。しょうもない女や。
春の陽気が、菊太郎の開けっ放しにした戸口から通り庭に忍び込んでくる。鬱陶しいと、ていは思った。朝など、春など、来なくてよい。暗く隠微な夜の中に閉じ籠って、もういっそのこと、壊れてしまいたい。今すぐに。
御陰様で嫁の貰い手には困らなかった。手習い仲間の同年輩の娘の中で真っ先に祝言を挙げたのは、ていだった。
嫁いだあの頃が山の頂だったのだと、ていは思う。島原に馴染みの女がいた夫は、ていにろくすっぽ関心を示さず、二人の間に子も生まれないうちに何某かの病を得てあっさり死んだ。
料理屋に出戻ると、ていは、嫁ぐ前と同じようにきりきり働いた。が、跡取り息子である弟が嫁を取ってからはそうもいかなくなった。ていは、暖簾分けだか厄介払いだかわからない格好でよそに店を一つ任されることとなり、結局、三十路も半ばの行き遅れとなっている。
ていの店の客は、刀を帯びた強面ばかりだ。一つきりの座敷に客を通し、はんなりと色鮮やかな京風の料理と少しばかりの酒を出すのが、どうやら武士の密議の場にちょうどよいらしい。
いつ頃から京都に田舎臭い武士が増えたのだったか。そんな男たちが初めて店を訪れた日は、ていも無論、ぎょっとした。ほんまに何もされへんやろかと、客がいる間中、気が気ではなかった。
とはいえ、客は客だ。ていが毛嫌いを面に出さずにもてなしてやれば、島原でこの店の噂を聞いてきた、馳走になるぞと言った西方訛りの武士は、悪い客ではなかった。金払いはきちんとしていたし、それなりに愛想もよかった。存外おとなしい酒の飲み方をしてもいた。
その最初の客は、五六人での密議の宴席を幾度かに渡って設けた後、一月ばかり経つと、首だけになって三条河原に晒されていた。
あれはどこの国の何者で、何の罪で死んだのだったか、ていはもう忘れてしまった。ていの店を訪れて食事をし、料理を誉め、おかみさんは別嬪だと世辞を言ったりなどした帯刀の客が程無く鬼籍に入ることは、珍しくもないのだ。
だから、近藤勇という名の東国の田舎武士も、すぐにいなくなると思っていた。
四角く厳つい顔に、分厚い体躯をしている。一見、ひどく大きく硬く恐ろしげな印象を与える男だ。恐ろしげとはいっても、その佇まいは鬼というより、巌か山である。のし掛かられれば押し潰されるであろう重みを感じさせるが、静かだ。鬼や閻魔のような激しさはない。
色男やないけれども、男前。
そう思った。初めから、なぜだか。
近藤は妙に無邪気なところがある。握り拳が口の中に丸ごと入るのだと、宴席で奇妙な特技を披露して周囲の者を笑わせた。ていも笑った。近藤は、拳を口に入れるより口から取り出すほうが実は難しいのだと、これまた奇妙な裏話を皆に語った。皆、また笑った。
馳走になるぞと、近藤が大きな体を屈めながら切れ上がった目を細めると、ていの胸はふわりと温かく弾む。夜更けに去っていく後ろ姿を見送ると、次に会うときも彼の首は胴体に繋がっているだろうかと不安になる。
このざわつく胸を、どう宥めればよいか。ざわつきに名を与えるならば、何と呼ぶべきか。
あかんわ。ほんまに、あかん。
気になる男の前で浮わついてしまうなど、熟し切れぬ小娘のすること。ていは、それより二十も年を重ねている。今更、男の一挙一動にいちいち頬など染めるものではない。
わかっていたはずなのに、なぜ。
昆布の出汁を取る。ふつふつと、水が湯に変わっていくにつれ、御天道様の光が縁側に届くときのように、柔らかな黄金色を帯びてくる。
その黄金色を、なるだけ汚してはなからない。出汁そのものの持つ、甘くふくよかな香りとほのかな味わいも、濁してもならない。
干物のあらめは水を吸わせて柔らかく戻し、ざっと荒って、ざるに開けておく。御揚げは細い短冊に刻む。
あらめを出汁に入れ、塩と酒と砂糖、それから少しの醤油と一緒に煮立てる。ふわりと立ち上る甘やかな臭みは、近藤が言うには、海の匂いだそうだ。あらめは温かい海の底に生え、ゆらゆらと波に揺らぎながら育つ草である。
ほんの一煮立ちでよい。煮すぎれば、歯触りも何もなくなってしまう。あらめに熱が通ったら、御揚げを入れ、灰汁をすくって火から下ろす。煮物の味は、いったん冷ます間にしっくりと染み込むのだ。
ていは淀みのない手付きでそこまで終えると、ほう、と息をついた。このところだんだんと暖かくなって、明けやらぬ刻限の板場でも息は白くない。
かさついた両の手の平で己の頬に触れ、唇に触れる。息を継ぐのも忘れて女の悦びに酔い知れた、つい先程までの火照りは肌の奥深くに沈んでいって、今、ていの指には触れない。ていの手は板場の匂いに戻ってしまった。男の汗ばんだ肌と青臭い精の匂いはもう、わずかも残っていない。
空が淡い朝ぼらけに滲む中を、近藤は壬生へと帰っていった。情を交わした体を寄せ合って眠り、一緒に朝を迎えたい。ていはそう思ったが、口には出さなかった。ていを抱いた後の近藤がゆっくりしていった試しなど、一度もない。
いや、先程は、引き留めるような格好になってしまったかもしれない。未練がましかったかもしれない。
あらめと御揚げの炊いたん、お好きどすやろ? これから炊きますえ。今日は八日やから。ああ、京都では、月のうちで決まった日に決まった御菜を作って食べますのや。月の初めは鰊昆布、月の終わりは炒りおからで、末広がりの八日はあらめどす。
召し上がっていかはらへんやろかと、胸の内に期待を抱いてしまっていた。だからこそ、今晩また隊士を連れて食べに来ようと近藤に笑顔で告げられたとき、ていは落胆した。晩ではない。壬生狼にぞろぞろ来てもらいたいわけではない。近藤ただ一人に、今ここにいてほしい。
叶わぬ想いだ。
近藤のほうが自分よりも四つも年が若いと初めて知ったとき、そっと心が傷付いた。男は三十路で男盛りとされるのに、後家の三十路女など哀れなもので、しおれて枯れゆく一方だ。若い娘のはち切れんばかりの瑞々しさに羨望と嫉妬をいだくよりほかにない。
さりげなく近藤の仲間や部下の者たちに尋ねると、近藤は妻もいれば芸妓にも持てるという答えが返ってきた。これには、ていは思いの外、傷付かなかった。きっとそうだとわかっていたのだ。閨の近藤はあまりにも佳い男だったから。
酒の弱い近藤が、疲れも重なっていたのか、一口、二口ばかりで青い顔になった宵があった。ていは手厚く介抱した。そして、一眠りしてすっきりした様子の近藤を、ていは床に押し止め、覆い被さって口を吸った。
混じり合う唾液の味に酔いながら、ていの心は逸った。ていは近藤の分厚い手の平をつかまえ、いつしか乱れた裾の割れ目から、もっちりと肉付いた腿へと導いた。いいのか、と短く問われ、訊かんといて、と答えた。そない野暮なこと、言わんといて。今は、ただ。
男が欲しかった。男に抱かれたかった。生まれて初めての衝動だった。
恍惚を得たことのなかったていの体の奥は、錆び付いたように固く窮屈で乾いていた。だから、痛くても苦しくてもよいと覚悟していた。こんな不憫な体一つで、けれど、今この時だけは近藤を繋ぎ止めておける。この場所に。ていの中に。それが誇らしかった。
が、一つも痛くはなかった。近藤は手練れだった。憎たらしい程に熟練した指は、舌は、腰は、とてつもなく甘く激しく狂おしくて、震えるていをたちまち骨抜きにした。生娘よりも頑固なはずの古びた体はあっさりと開き、潤った。
あれ以来、ていは毎夜のように飢えて焦がれている。ひとりでに蜜はあふれて止まらないのに、ていの心はひたすらに渇いている。近藤が欲しくて欲しくてたまらない。
近藤は体中がごつごつと硬く、首も腕もびっくりするほど太く、手の平の皮膚はごわついて、ていとは何もかもが違う。そのくせ、吸っても何も出やしないていの乳を一心に吸うときの、まつげの掛かった目元と濡れた舌の柔らかさはどこか頼りなげで、得も言われず、いとおしい。
ふと、声がした。
「おかみさん」
ていが振り向くより早く、若い男の肉体がどすんとぶつかってきて、ていを後ろから抱きすくめた。
「何や、菊。もう起きてきたの」
菊太郎の歯噛みをする音が耳元で聞こえた。食い縛った歯の間から押し出された低い声が、ていの首筋に触れた。
「眠られへんかった。おかみさんかて、わかってはるやろ。あたしがどないな思いで離れにおったか。おかみさんは、ひどい人や」
「あら、口だけは一人前なことを」
ていの店に菊太郎が転がり込んだのは、近藤に時折抱かれるようになって少し経った頃だ。たどたどしく舌に載せた菊太郎という名は、きっと偽名だった。ようやく髭が生えてきたといった様子の、まだ柔らかい肌をした男で、二十二だと本人は言うものの、おそらく本当はもっと若い。
どこぞの板場で修行をしていたが、こっぴどい目に遭わされて逃げてきたのだそうだ。空腹のあまり店先でうずくまっていた菊太郎に、ていは気紛れに情けを掛け、握り飯と一椀の汁を与えた。そうしたらひどく懐かれてしまい、後生だから働かせてほしいと頼み込まれた。
菊太郎が板前を目指していたのは嘘ではないだろう。包丁を持たせてみると、それなりに様になる手付きだった。皿を洗ったり火の番をしたりといった、板場のこまごまとした仕事も、難なくこなしてのける。
菊太郎は役に立つ。店の金回りには余裕がある。だから、ていは菊太郎の面倒を見ることにした。店主と奉公人という、初めはそれだけのはずだった。
狂ったのは、狂わせたのは、ていだったのか、菊太郎だったのか。
「なあ、おかみさん、あたしは耐えられへん。何であたしだけを見てくれはらへんのや。壬生狼の、人殺しの首魁なんぞに、どうして」
骨っぽく細い腕のどこにそんな力があるのか。ていがどうやったって振りほどけないほどの力で、菊太郎は、ていを掻き抱いて離そうとしない。
菊太郎、御前、何を勘違いしてはるのや。御前は、うちの何でもないんえ。
そう突き放すことができないのは、菊太郎が男として愛しいからではない。
男なら誰でもよかった。近藤でないなら、誰だって同じなのだ。渇きのあまり蜜を流して泣くていの奥を満たし、掻き混ぜ、哀れんで宥めて乱してくれる生きた熱い棒ならば、ていにとって、誰のそれであっても同じだった。
ていはある晩、菊太郎を使った。ちょうどそこにいたから。うちはちょいと手が離せへんから御鍋を見といてだとか、今日は天神さんに市の立つ日やから御使いに行ってだとか、そんな用事を頼むくらいのつもりだった。
だって、せやろ。一回りよりももっと年の離れた後家に迫られて、立場の低い若い男が、仕方なしに。そんなんで終わって、あれは悪い夢やったんやと、忘れてしまえばええだけの話やったんえ。
「阿呆や、菊は」
何で逃げ出さへんの。鬼女に取って食われた言うて、どっかへ行ってくれてよかったのに。
「ああ、あたしは阿呆やで。こないひどい女に惚れて、にっちもさっちもいかへん。あんたをあたしのもんにしたいのに、あんたはそっぽ向いてばっかりや。あたしを見てもくれへん」
「菊」
「裸になったときかて、なんぼあたしが激しゅうしたって、あんたはよがってみせながら、ほんまはあたしなんか見てはらへん。極楽を見てはるような目をこっちに向けながら、あたしの後ろっ側にあの男を見てはる」
「それは違う」
「どうせあたしは、あんたにとって、あの男の代わりや」
「違うわ、菊」
あの人はあの人や。ほかの誰も、あの人の代わりにはなれへんの。御前、自惚れんといて。
ただ、菊太郎のもどかしさは、ていにもわかる。一番愛しい人の一番には、どうやったって、なれない。
一月程前、近藤に、俺の妾になるかと問われた。考えときますわ、と笑って答えた。むなしくなった。近藤が帰って一人になって、泣いてしまった。
近藤は江戸に妻を残してきている。子供もいるという。島原の芸妓を落籍し、妾に囲って子を為させたとも聞く。馴染みの女は、花街にも市井にもたくさんいるらしい。
無理に手込めにしたのではない。女を心底から惚れさせてしまう何かが、近藤には備わっている。幾人もの女を待たせ、喜ばせ、そして泣かせるだけの甲斐性がある。
ていは、今は、妾になるともなりたくないとも答えられない。近藤が欲しい。でも、うちは何番目なんやろかと考え始めると、溜め息と涙が止まらなくなる。近藤が慈しんでいる、ていが会ったこともない美しい女たちへの嫉妬が、抑え切れなくなってくる。狂いそうになる。
いずれは、近藤に面と向かって答えを求められれば、きっとこの口は、妾になりますと答えてしまうだろう。そして、近藤の一番になれない苦しみを、妾という立場と肩書によって、はっきりと、ていは突き付けられるのだ。
近藤に一番を選んでほしいなどと思っているわけではない。近藤は甲斐性と浮気性を存分に発揮してくれればよい。そうでなくては、ていは捨てられる。孤独に打ち震えながら泣き、近藤の選んだ女を恨み、渇きの癒えぬ寂しい体を持て余し、ついにはきっと鬼になってしまう。
不意に、ていの首筋を菊太郎の口が強く吸った。
「菊、おやめ」
「悔しい」
「阿呆なこと」
「あんたが欲しい。今すぐ」
「何を……」
ていの溜め息を引きちぎって、菊太郎は、ていの口を塞ぎ、舌を絡め取った。ていはささやかに抵抗した。菊太郎の薄い胸を、形ばかりは突き退けようとしてみた。
あかんわ。ほんまに、あかん。
どろどろと、あるいは、ざらざらと。ていの体の中で、濁った熱が疼き始めている。近藤に溶かされたばかりの深い場所から、つ、と伝い落ちるものがある。
ていは目を閉じた。強い渇きを覚えた。まぶたの裏に、愛しくて憎たらしい男の姿がくっきりと浮かんでくる。
「しょうもない男」
呟いて、笑った。
目を開ける。若い男の顔が、欲情と悲哀に歪みながら、ていを見下ろしている。男の体温と息遣いがここにある。何かを言い差した菊太郎の口を、ていは自ら口付けて封じ込めた。
そしてまた、ていは笑った。
もっとしょうもないのんは、わかっとる。うちのほうこそ、ほんまにどないしようもない。しょうもない女や。
春の陽気が、菊太郎の開けっ放しにした戸口から通り庭に忍び込んでくる。鬱陶しいと、ていは思った。朝など、春など、来なくてよい。暗く隠微な夜の中に閉じ籠って、もういっそのこと、壊れてしまいたい。今すぐに。
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「そういう与平、お前は怠けすぎだ」
(やれやれ、また始まったよ……)
また二人と一匹の日常が始まる
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香
冬樹 まさ
歴史・時代
米村誠三郎は鳥取藩お抱え絵師、小畑稲升の弟子である。
文久三年(一八六三年)八月に京で起きて鳥取の地に激震が走った本圀寺事件の後、御用絵師を目指す誠三郎は画技が伸び悩んだままで心を乱していた。大事件を起こした尊攘派の一人で、藩屈指の剣士である詫間樊六は竹馬の友であった。
幕末の鳥取藩政下、水戸出身の藩主の下で若手尊皇派が庇護される形となっていた。また鳥取では、家筋を限定せず実力のある優れた画工が御用絵師として藩に召しだされる伝統があった。
ーーその因幡の地で激動する時勢のうねりに翻弄されながら、歩むべき新たな道を模索して生きる侍たちの魂の交流を描いた幕末時代小説!
作中に出てくる因幡二十士事件周辺の出来事、鳥取藩御用絵師については史実に基づいています。
1人でも多くの読者に、幕末の鳥取藩有志たちの躍動を体感していただきたいです。

淡き河、流るるままに
糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。
その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。
時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。
徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。
彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。
肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。
福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。
別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
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剣に生き、剣に倒れていく男達。群像劇に近いスタイルに、作者様の新撰組愛を感じます。料理というか、調理の場面も秀逸でした。
マスケッターさま
ご感想ありがとうございます。
楽しみながら、勉強しながら、書かせていただいています。当時の食べ物のことを調べるのも楽しいですね。
氷月あや 様
作品を読ませて頂き『あれ? ちょっと前に、面白い新選組の物語を読んだなぁあ』と、思ったのです。確かWEB小説ではなくて、指が紙の感触を覚えていますので、それらしき時代小説を、書棚から漁ってみました。散々探したのですが、見つかりません。気になって仕方がなかったのですが、探すのを止めた時に見つかる、とは良くいったもので、何の気なしに読み返した『飯テロ 真夜中に読めない20人の美味しい物語』に『光月あや』の名前が記されているではありませんか。そりゃあ、もう、ビックリでした。
これからも更新楽しみにさせて頂きます。文末に一言「これ好き!」
ペンギン饅頭さま
ご感想、ありがとうございます。
なんと『飯テロ』で覚えていただいていたなんて! 「いけず」はレーベルカラーと違っているし、読書レビューサイト等での評価も芳しくなく、場違いだったかなと肩身が狭かったので、こうしてご感想をいただけるとは、本当に嬉しい驚きです。ありがとうございます!
短編集、のんびり更新していけたらなと思っています。お気に召して光栄です。