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六 斎藤一之章:Survival
敗残兵(二)
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くずおれるように、皆、ひざまずいた。畳で額をこするほど深く下げた頭に、柔らかな声が落ち掛かる。
「面《おもて》を上げよ。顔を見ないのでは、まともな話などできぬ」
恐る恐る、言葉に従う。
容保公は質素な着流し姿だった。整然と正装したところしか、今までは見たことがない。だから、うっかり凝視してしまったかもしれない。
「袴《はかま》も付けぬだらしない部屋着のままで、すまぬ。このような刻限なのでな」
容保公は照れ笑いを浮かべた。場違いなくらい屈託のない微笑み方だった。
佐川さんが呆然と言った。
「殿、お髪《ぐし》が……」
「ああ、ここ二十日ほどで真っ白になってしもうた」
「何とも、お労《いたわ》しいごど」
「気に病むでない。わしは擦り傷ひとつない。髪だけじゃ。城の皆が何くれと心を砕いてくれた」
「殿はお体がお強ぇわけではねぇのに、ますますお痩せになったべし」
「情けない話だが、幾度か倒れてしもうてな。日のあるうちは引っ切り無しに砲弾が飛んできたが、特に集中する刻限や場所があった。煮炊きの火を使うころを狙い、火事を起こそうと。必ず防がねばならぬときに限って障壁を張ったのだが、これが大仕事だった」
容保公は額の赤い環に触れてみせた。
なぜ守りの力なのだろうかと、唐突に思った。禁忌を犯して環を身に宿して、攻める力を得なかった。守る力だけを得た人は、容保公を置いてほかに知らない。
会津生まれではない容保公は、血縁の事情で会津藩主の座に就いた。よそ者だからこそ誰よりも会津に忠実に生きたいのだと、かつて語り聞かされたことがある。
もしも容保公が会津生まれの会津育ちだったら、どうだろう? 徳川宗家への絶対的忠誠を誓った保《ほ》科《しな》正《まさ》之《ゆき》公を引き合いに出されて京都守護職の任を命じられたときや、徳川宗家に身代わりとして倒幕派に攻められることとなったとき。
オレも会津藩士ではない。故郷の風土に誇りを抱く会津藩士の前では、何も持たない自分がむなしくなる。会津の誇りを、よそ者の自分が穢《けが》してはならないと思う。
容保公もオレと同じだ。いや、オレよりずっと強い心持ちで、会津の誇りを守ろうとしてきた。だから、その環は誰をも傷付けず、ただ守る力だけを持つのだろう。守り通すことができずに、傷付いた目をするのだろう。
オレは、握り締めていた守り袋を容保公に差し出した。
「縮地の術式の守り袋。高木時尾が、公に奉じたのですか?」
「さようだ。わしの姉、照姫を通じてのことだがな。いざというときには使うてくれと、二組の守り袋をくれた。此《こ》度《たび》、二組とも使うてしまうつもりだ」
「此度?」
「斎藤一、そして佐川官兵衛。頼みがある。それを話しにここへ来た。見張りに気付かれぬうちに戻らねばならぬから、さほど時間はないのだが」
「我々にお会いくださるために、危険を冒《おか》して、こちらへ?」
「縮地を使うて逃亡することもできなくはない。しかし、わしが逃げたら、後に残される会津の者たちはどうなる? それを考えれば、わしが為すべきことはおのずと見えてくる。わしは逃げぬ。敗残の罪人と名指される余生を、粛々《しゅくしゅく》として背負うだけじゃ」
盛之輔も健次郎も、ぽかんとしていた。大儀であったと容保公に言葉を掛けられて、ようやく我に返る。
健次郎が問うた。
「殿のご処分は決定したのですか?」
「会津松平家は廃絶。会津藩は消滅し、わしは無期限の謹慎に処せられる。会津藩士はよそへ送られるだろう。行き先の沙汰は決しておらぬ」
賢いはずの健次郎が、率直で稚拙な言葉を吐いた。
「意味が、わかんねぇなし。藩が消滅? 想像もつかねえ。私は今まで会津から出たこともありません。家も日新館も武道場もお城も、私を作ったすべてが会津でした。その会津が消えるなら、私という人間も消えっつまうのではねぇかし?」
盛之輔はうなずいた。容保公はかぶりを振った。
「健次郎、藩という枠組みが消えても、会津の外に出ても、おぬしは消えぬ。おぬしの兄、山川大蔵を見よ。ロシアに赴《おもむ》き、ヨーロッパを視察し、洋服に身を包みながらも、大蔵は会津藩士じゃ。おぬしにも外国を見せたいと言うておった」
「わかんねぇなし。朱子学も礼儀も武術も砲術も、今まで身に付けてきたもの全部、何の役にも立たねぇと、一箇月の籠城の間に思い知りました。そっだら今度は、壊れるはずもねぇと思ってきた藩という枠組みが壊れっつま。私はこれから何を信じればいいがよ?」
無礼な物言いだった。冷たい態度でもあった。誰も咎《とが》めなかった。健次郎の言葉は的を射ている。
容保公は健次郎の真正面に膝を突くと、健次郎の肩に手を載せた。
「己を信じよ。信じられる己に出会うまで、どうかまっすぐに生きてくれ。健次郎、おぬしはまだ若く、わしなどよりもずっと賢い。兄の大蔵のように外国へ行き、見知らぬものに触れ、心行くまで学んでみるがよい。渡航の援助のため、わしも労を惜しまぬ」
健次郎は切れ長の目で、じっと容保公を見つめた。容保公はそのまなざしを受け止めて、微笑んでうなずく。
佐川さんが降伏の白旗を拾い上げた。旗は、健次郎がひざまずいた弾みに投げ出されていたらしい。
「殿、おれたちにお話があるとは何だべし? この白旗を掲げよとのご命令かし?」
「いや、命令ではない。頼みがあると言うたであろう。聞けぬならば聞けぬと突き放してもろうて構わぬ。佐川官兵衛、斎藤一、おぬしらの驍《ぎょう》勇《ゆう》をわしは誇りに思う。だから、もうその刀を収めてはくれぬか? ここで命を散らさずにいてもらえぬか?」
薮《やぶ》から棒な言葉、ではなかった。わかっていた。
佐川さんは眉間にしわを寄せた。
「京都で会津は間違ったことなどしねかった。朝廷のため、幕府のためと一心に勤めてきたのに、いつの間にか話がすり替わって、薩長が正義で会津は悪だと決め付けられた。納得できねえ。おれは死んでも納得できねえ」
容保公は、ぐるりと部屋を見回した。隅に鉄砲と槍が置いてある。火鉢が一つと、茶碗で酒を飲んだ跡。布団はなく、眠るときにくるまるのは古びた綿入れ半《はん》纏《てん》だけ。
「ここは寒かろう?」
労《いたわ》わるようにつぶやいた容保公にとって、こんな部屋は初めてかもしれない。質素というより粗末な有り様だ。
容保公は、オレと佐川さんを順に見つめた。人に物を語るときにそっと微笑むのは、容保公の癖なのだろうか。
「佐川、斎藤、おぬしらは間違っておらぬが、正しくもないかもしれぬ。誰が正しいと判ずることは、きっと当世の誰にもできぬのだ。だからこそ、おぬしらが悪であるなどと誰にも言わせたくない。おぬしらは義を貫いてくれた。その心根はわしが知っている」
「殿、勿体無《いだまし》いお言葉を……だけんじょ、おれは!」
「もう十分ではないか? おぬしらは十分に戦ってくれた。十分に忠誠を示してくれた。これ以上を望むのは欲張りだと、わしは思うておる」
十分という言葉に、静かな恐怖を覚えた。
動乱の日々が収束すれば、その前にどんな生き方をしていたか思い出せない。だから戦うことをやめられない。けれども、それが容保公の意に反するのなら、戦うことに何の意味がある? 容保公への忠誠のためにこそ戦っていたのに。
佐川さんが、聞き分けのない子どものように首を左右に振った。
「十分ではねぇなし。おれは命を懸けて会津への義を貫く覚悟だ。殿を悪人の親玉のように言われて、このままで許しておけるわけがねえ!」
畳を叩いて力説した佐川さんに、容保公はただ微笑んだ。
「悪人の親玉でよい」
「殿、何をおっしゃる!」
「わしは悪でよい。賊でよい。愚か者でよい。わしがすべて引き受けて収まるのなら、わしは何と呼ばれても構わぬ。どんな役柄も背負うてやろう。しかし、背負い切れぬものもあるのじゃ。何かわかるか?」
佐川さんは、開きかけた口をわなわなと震わせて黙った。容保公がオレに微笑みを向けた。畏《おそ》れ多くて目を伏せると、柔らかな声で咎められた。
「面を上げよ、斎藤。顔を見せてくれ。苦労を掛けたな。おぬしはもっと優しい目をする男のはずだが」
「優しい目など、今まで一度も」
「仲間を想う優しい目をしておったであろう。それが今は、ひどく乾いた目をしておる」
「……滅相もありません」
「斎藤よ、このまま死んでよいなど思うてくれるな。死なんでくれ。わしには、これ以上の命は背負い切れぬ。すでに戦のためにたくさんの者が死んだ。わしの代わりに腹を切った者、わしへの忠義の証として自害した者もおる。もう耐え切れぬのじゃ」
なおも微笑んだままの容保公の両眼から涙がこぼれた。
胸を抉《えぐ》られた。目が覚めた。オレは常軌を逸していた。
人が死ぬこと、人を殺すことが当たり前の毎日で、今さらオレは傷付かない。なのに、オレの代わりに傷付いてしまう人がいる。繊細な心と体で何千人ぶんもの罪と業《ごう》を背負ってしまった人がいる。
オレは頭を下げた。額を畳にこすり付けた。
「申し訳ございません。公のお気持ちを裏切る行為を重ねてしまいました」
誰のために、何のために、戦うのか。オレの誠義はどこにあるのか。一度は答えを見出したはずなのに、オレは馬鹿だ。
佐川さんがオレの隣で頭を下げる。声を殺しながら泣いている。
容保公は、ため息をつくように笑った。
「面を上げよと言うたばかりではないか。わしと話をするときは、硬くならずともよい、目を見てくれ。わしが嘘をついたと思えば、はっきりと、そう申せ。その代わり、おぬしらもわしに嘘などつかないでくれ。よいか?」
否と答えられるはずもなかった。痛む胸を拳で一つ打って、オレは告げた。
「かしこまりました。嘘はつきません。オレは、刀を収めます」
佐川さんが拳で涙を拭って言った。
「殿のご意向に従ぇます。殿がくださった白旗を掲げて、我らも、降伏いたします」
容保公はうなずいた。
「よう言うてくれた。ありがとう。敵に降《くだ》れば、戦とはまた別の苦労をおぬしらに強いることになるだろう。わしを恨んでくれてよい」
「殿、そっだつまらねぇことをおっしゃってはなんねぇべし。何《な》如《じょ》しようもねぇほど苦しい目に遭ったとしても、おれは、会津に生まれたことと殿にお仕えしたことを恨みも悔いもしねえ。んだべ、斎藤!」
「佐川さん、オレは会津藩士じゃない」
応えに窮したオレに、容保公が、思い掛けない言葉を披露した。
「わしも会津の生まれではねぇけんじょ、会津藩主を務めたべした。斎藤、主《にし》ゃ、わしの胸の中では立派な会津藩士だ。会津の地から藩がなくなっつまっても、主ゃらの会津士魂は決して消えねえ。んだべ?」
完璧ではなかった。本物の会津の言葉は、もっと響きが丸くて柔らかい。
それでも十分だった。単なる音の響きなどどうでもいい。言葉に込められた思いの丈の大きさに、オレは胸が詰まった。そのとおりですと、ただ一言だけ返すので精一杯だった。
「んだなし」
容保公は満足そうに声を立てて笑った。そして、縮地の術式を使って妙国寺へと帰っていった。
翌日、十月八日。オレと佐川さん、配下の兵士一同は白旗を掲げて、倒幕派の軍門に降伏した。
会津の戦は終息した。
「面《おもて》を上げよ。顔を見ないのでは、まともな話などできぬ」
恐る恐る、言葉に従う。
容保公は質素な着流し姿だった。整然と正装したところしか、今までは見たことがない。だから、うっかり凝視してしまったかもしれない。
「袴《はかま》も付けぬだらしない部屋着のままで、すまぬ。このような刻限なのでな」
容保公は照れ笑いを浮かべた。場違いなくらい屈託のない微笑み方だった。
佐川さんが呆然と言った。
「殿、お髪《ぐし》が……」
「ああ、ここ二十日ほどで真っ白になってしもうた」
「何とも、お労《いたわ》しいごど」
「気に病むでない。わしは擦り傷ひとつない。髪だけじゃ。城の皆が何くれと心を砕いてくれた」
「殿はお体がお強ぇわけではねぇのに、ますますお痩せになったべし」
「情けない話だが、幾度か倒れてしもうてな。日のあるうちは引っ切り無しに砲弾が飛んできたが、特に集中する刻限や場所があった。煮炊きの火を使うころを狙い、火事を起こそうと。必ず防がねばならぬときに限って障壁を張ったのだが、これが大仕事だった」
容保公は額の赤い環に触れてみせた。
なぜ守りの力なのだろうかと、唐突に思った。禁忌を犯して環を身に宿して、攻める力を得なかった。守る力だけを得た人は、容保公を置いてほかに知らない。
会津生まれではない容保公は、血縁の事情で会津藩主の座に就いた。よそ者だからこそ誰よりも会津に忠実に生きたいのだと、かつて語り聞かされたことがある。
もしも容保公が会津生まれの会津育ちだったら、どうだろう? 徳川宗家への絶対的忠誠を誓った保《ほ》科《しな》正《まさ》之《ゆき》公を引き合いに出されて京都守護職の任を命じられたときや、徳川宗家に身代わりとして倒幕派に攻められることとなったとき。
オレも会津藩士ではない。故郷の風土に誇りを抱く会津藩士の前では、何も持たない自分がむなしくなる。会津の誇りを、よそ者の自分が穢《けが》してはならないと思う。
容保公もオレと同じだ。いや、オレよりずっと強い心持ちで、会津の誇りを守ろうとしてきた。だから、その環は誰をも傷付けず、ただ守る力だけを持つのだろう。守り通すことができずに、傷付いた目をするのだろう。
オレは、握り締めていた守り袋を容保公に差し出した。
「縮地の術式の守り袋。高木時尾が、公に奉じたのですか?」
「さようだ。わしの姉、照姫を通じてのことだがな。いざというときには使うてくれと、二組の守り袋をくれた。此《こ》度《たび》、二組とも使うてしまうつもりだ」
「此度?」
「斎藤一、そして佐川官兵衛。頼みがある。それを話しにここへ来た。見張りに気付かれぬうちに戻らねばならぬから、さほど時間はないのだが」
「我々にお会いくださるために、危険を冒《おか》して、こちらへ?」
「縮地を使うて逃亡することもできなくはない。しかし、わしが逃げたら、後に残される会津の者たちはどうなる? それを考えれば、わしが為すべきことはおのずと見えてくる。わしは逃げぬ。敗残の罪人と名指される余生を、粛々《しゅくしゅく》として背負うだけじゃ」
盛之輔も健次郎も、ぽかんとしていた。大儀であったと容保公に言葉を掛けられて、ようやく我に返る。
健次郎が問うた。
「殿のご処分は決定したのですか?」
「会津松平家は廃絶。会津藩は消滅し、わしは無期限の謹慎に処せられる。会津藩士はよそへ送られるだろう。行き先の沙汰は決しておらぬ」
賢いはずの健次郎が、率直で稚拙な言葉を吐いた。
「意味が、わかんねぇなし。藩が消滅? 想像もつかねえ。私は今まで会津から出たこともありません。家も日新館も武道場もお城も、私を作ったすべてが会津でした。その会津が消えるなら、私という人間も消えっつまうのではねぇかし?」
盛之輔はうなずいた。容保公はかぶりを振った。
「健次郎、藩という枠組みが消えても、会津の外に出ても、おぬしは消えぬ。おぬしの兄、山川大蔵を見よ。ロシアに赴《おもむ》き、ヨーロッパを視察し、洋服に身を包みながらも、大蔵は会津藩士じゃ。おぬしにも外国を見せたいと言うておった」
「わかんねぇなし。朱子学も礼儀も武術も砲術も、今まで身に付けてきたもの全部、何の役にも立たねぇと、一箇月の籠城の間に思い知りました。そっだら今度は、壊れるはずもねぇと思ってきた藩という枠組みが壊れっつま。私はこれから何を信じればいいがよ?」
無礼な物言いだった。冷たい態度でもあった。誰も咎《とが》めなかった。健次郎の言葉は的を射ている。
容保公は健次郎の真正面に膝を突くと、健次郎の肩に手を載せた。
「己を信じよ。信じられる己に出会うまで、どうかまっすぐに生きてくれ。健次郎、おぬしはまだ若く、わしなどよりもずっと賢い。兄の大蔵のように外国へ行き、見知らぬものに触れ、心行くまで学んでみるがよい。渡航の援助のため、わしも労を惜しまぬ」
健次郎は切れ長の目で、じっと容保公を見つめた。容保公はそのまなざしを受け止めて、微笑んでうなずく。
佐川さんが降伏の白旗を拾い上げた。旗は、健次郎がひざまずいた弾みに投げ出されていたらしい。
「殿、おれたちにお話があるとは何だべし? この白旗を掲げよとのご命令かし?」
「いや、命令ではない。頼みがあると言うたであろう。聞けぬならば聞けぬと突き放してもろうて構わぬ。佐川官兵衛、斎藤一、おぬしらの驍《ぎょう》勇《ゆう》をわしは誇りに思う。だから、もうその刀を収めてはくれぬか? ここで命を散らさずにいてもらえぬか?」
薮《やぶ》から棒な言葉、ではなかった。わかっていた。
佐川さんは眉間にしわを寄せた。
「京都で会津は間違ったことなどしねかった。朝廷のため、幕府のためと一心に勤めてきたのに、いつの間にか話がすり替わって、薩長が正義で会津は悪だと決め付けられた。納得できねえ。おれは死んでも納得できねえ」
容保公は、ぐるりと部屋を見回した。隅に鉄砲と槍が置いてある。火鉢が一つと、茶碗で酒を飲んだ跡。布団はなく、眠るときにくるまるのは古びた綿入れ半《はん》纏《てん》だけ。
「ここは寒かろう?」
労《いたわ》わるようにつぶやいた容保公にとって、こんな部屋は初めてかもしれない。質素というより粗末な有り様だ。
容保公は、オレと佐川さんを順に見つめた。人に物を語るときにそっと微笑むのは、容保公の癖なのだろうか。
「佐川、斎藤、おぬしらは間違っておらぬが、正しくもないかもしれぬ。誰が正しいと判ずることは、きっと当世の誰にもできぬのだ。だからこそ、おぬしらが悪であるなどと誰にも言わせたくない。おぬしらは義を貫いてくれた。その心根はわしが知っている」
「殿、勿体無《いだまし》いお言葉を……だけんじょ、おれは!」
「もう十分ではないか? おぬしらは十分に戦ってくれた。十分に忠誠を示してくれた。これ以上を望むのは欲張りだと、わしは思うておる」
十分という言葉に、静かな恐怖を覚えた。
動乱の日々が収束すれば、その前にどんな生き方をしていたか思い出せない。だから戦うことをやめられない。けれども、それが容保公の意に反するのなら、戦うことに何の意味がある? 容保公への忠誠のためにこそ戦っていたのに。
佐川さんが、聞き分けのない子どものように首を左右に振った。
「十分ではねぇなし。おれは命を懸けて会津への義を貫く覚悟だ。殿を悪人の親玉のように言われて、このままで許しておけるわけがねえ!」
畳を叩いて力説した佐川さんに、容保公はただ微笑んだ。
「悪人の親玉でよい」
「殿、何をおっしゃる!」
「わしは悪でよい。賊でよい。愚か者でよい。わしがすべて引き受けて収まるのなら、わしは何と呼ばれても構わぬ。どんな役柄も背負うてやろう。しかし、背負い切れぬものもあるのじゃ。何かわかるか?」
佐川さんは、開きかけた口をわなわなと震わせて黙った。容保公がオレに微笑みを向けた。畏《おそ》れ多くて目を伏せると、柔らかな声で咎められた。
「面を上げよ、斎藤。顔を見せてくれ。苦労を掛けたな。おぬしはもっと優しい目をする男のはずだが」
「優しい目など、今まで一度も」
「仲間を想う優しい目をしておったであろう。それが今は、ひどく乾いた目をしておる」
「……滅相もありません」
「斎藤よ、このまま死んでよいなど思うてくれるな。死なんでくれ。わしには、これ以上の命は背負い切れぬ。すでに戦のためにたくさんの者が死んだ。わしの代わりに腹を切った者、わしへの忠義の証として自害した者もおる。もう耐え切れぬのじゃ」
なおも微笑んだままの容保公の両眼から涙がこぼれた。
胸を抉《えぐ》られた。目が覚めた。オレは常軌を逸していた。
人が死ぬこと、人を殺すことが当たり前の毎日で、今さらオレは傷付かない。なのに、オレの代わりに傷付いてしまう人がいる。繊細な心と体で何千人ぶんもの罪と業《ごう》を背負ってしまった人がいる。
オレは頭を下げた。額を畳にこすり付けた。
「申し訳ございません。公のお気持ちを裏切る行為を重ねてしまいました」
誰のために、何のために、戦うのか。オレの誠義はどこにあるのか。一度は答えを見出したはずなのに、オレは馬鹿だ。
佐川さんがオレの隣で頭を下げる。声を殺しながら泣いている。
容保公は、ため息をつくように笑った。
「面を上げよと言うたばかりではないか。わしと話をするときは、硬くならずともよい、目を見てくれ。わしが嘘をついたと思えば、はっきりと、そう申せ。その代わり、おぬしらもわしに嘘などつかないでくれ。よいか?」
否と答えられるはずもなかった。痛む胸を拳で一つ打って、オレは告げた。
「かしこまりました。嘘はつきません。オレは、刀を収めます」
佐川さんが拳で涙を拭って言った。
「殿のご意向に従ぇます。殿がくださった白旗を掲げて、我らも、降伏いたします」
容保公はうなずいた。
「よう言うてくれた。ありがとう。敵に降《くだ》れば、戦とはまた別の苦労をおぬしらに強いることになるだろう。わしを恨んでくれてよい」
「殿、そっだつまらねぇことをおっしゃってはなんねぇべし。何《な》如《じょ》しようもねぇほど苦しい目に遭ったとしても、おれは、会津に生まれたことと殿にお仕えしたことを恨みも悔いもしねえ。んだべ、斎藤!」
「佐川さん、オレは会津藩士じゃない」
応えに窮したオレに、容保公が、思い掛けない言葉を披露した。
「わしも会津の生まれではねぇけんじょ、会津藩主を務めたべした。斎藤、主《にし》ゃ、わしの胸の中では立派な会津藩士だ。会津の地から藩がなくなっつまっても、主ゃらの会津士魂は決して消えねえ。んだべ?」
完璧ではなかった。本物の会津の言葉は、もっと響きが丸くて柔らかい。
それでも十分だった。単なる音の響きなどどうでもいい。言葉に込められた思いの丈の大きさに、オレは胸が詰まった。そのとおりですと、ただ一言だけ返すので精一杯だった。
「んだなし」
容保公は満足そうに声を立てて笑った。そして、縮地の術式を使って妙国寺へと帰っていった。
翌日、十月八日。オレと佐川さん、配下の兵士一同は白旗を掲げて、倒幕派の軍門に降伏した。
会津の戦は終息した。
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