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五 土方歳三之章:Blood
血華繚乱(二)
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思い返して整理してみれば、倒幕派が奥羽侵攻に本腰を入れる引き金を引いたのは、仙台藩だった。
春三月、仙台藩には倒幕派の先鋒、長州藩の世《せ》良《ら》修《しゅう》蔵《ぞう》が乗り込み、「我らの軍門に降《くだ》って会津に出兵せよ」と命じた。仙台藩は地縁のある会津藩に同情を寄せ、出兵をためらった。
夏四月、仙台藩は米沢藩とともに奥羽諸藩に呼び掛け、閏《うるう》四月には奥羽越列藩同盟を結成して会津藩の助命嘆願を訴えた。
奥羽越列藩同盟の訴えを前に、世良の態度はけんもほろろだった。
「会津の助命など酒宴の笑い話にもならん。つべこべ言わずに会津を攻めろっちゃ。それとも奥羽の山猿どもには人の言葉が通じんか?」
世良は奥羽諸藩の武士と顔を合わせれば詰《なじ》り倒し、酒を食らい女を抱き、行く先々で憎しみを買い続けた。
そして閏四月十九日、ついに仙台藩士が決起し、世良修蔵を暗殺。その動きに呼応した会津軍が翌日に白河城を占拠し、数日のうちに白河が激戦の地となった。
世良の暗殺と白河での戦闘が、会津藩と倒幕派との協調路線を完全に閉ざした。要衝の地、白河を倒幕派に奪われて以降、戦に次ぐ戦がまたたく間に会津藩を追い詰め、今に至る。
「あのとき仙台に駐留していたのが世良修蔵じゃあなく、もうちょっと話のわかる人間だったら、奥羽は開戦していなかったかもしれない」
俺がつぶやくと、粗末な明かりの向こうで顔を上げた島田さんは、さあどうだろうと首を振った。
「斎藤とも似たような話をしたことがある。戦が起こることは止められなかったと思うよ。もし会津でなかったら、どこか別の地が戦場になっていた」
「時を遡《さかのぼ》るなら、もっと前か。京都で俺たち佐幕派はどう動くべきだったんだろう? 先代の天皇と将軍が相次いで崩御したとき、まわりをもっとよく見りゃよかった」
「その時期は局内でごたごたしていて」
「ああ、袂《たもと》を分かった連中をいつどうやって粛《しゅく》清《せい》すべきかと、そんなことばかり考えていた。何も見えてやしなかったんだ。京都を撤退して伏見で負けて勝沼でも宇都宮でも負けて近藤さんを喪《うしな》って、会津に来てようやく、俺が為すべきだったことがいくつもわかった」
「土方さん、そう自分を責めなさんな。斎藤が別れ際に告げた言葉がすべてだ。ここに残っている新撰組は、あんたが土方歳三という男だから、付いていこうと決めたんだ」
「ありがとう」
俺は今、五十人ほどの隊士を引き連れて米沢から仙台へ向かう旅の途上にある。何かと騒がしい宿場を避け、打ち捨てられた大きな寺に泊まることに決めた夜だった。
破れ寺と呼ぶにはまだ新しい。近くに村もあったが、灯は一つもうかがえなかった。重すぎる年貢を苦に、農民が逃散してしまったのだろう。奥羽に来てから、そんな村をいくつも見知っている。
異変の訪れは唐突だった。
外の見張りが尋常ではない悲鳴を上げた。冷え冷えとした講堂で雑魚《ざこ》寝《ね》していた者は皆、跳ね起きた。
俺は真っ先に講堂を飛び出した。何事かと問うまでもない。すでに、ぐるりと囲まれている。
「こいつはまずい」
敵軍ではない。痩せた体に襤褸《ぼろ》をまとい、手に手に鍬《くわ》や鋤《すき》を携《たずさ》えた集団だ。
一目で常人ではないとわかった。おそらくかつては農民だったのだろうが、見開かれた両眼は爛々《らんらん》と赤く、篝《かがり》火《び》よりも強く光っている。
妖の群れだった。ゆらりゆらりと左右に揺れながら、毒気を吐き散らして近寄ってくる。
怖《おぞ》気《け》が体を這い上った。冷たい手で臓腑を握り潰されるような錯覚。見張りの隊士が震えながら崩れ落ちた。
環を持つ者は、今の新撰組にいない。妖気に当てられて動ける者は一人もいないのだ。このままでは為す術《すべ》もなく取り殺されてしまう。
いや、違う。
どこからともなく、つややかに黒い四つの尾を揺らしてシジマが現れた。
「あやつら、殺されたものの死に切れず、瘴気を呑んで妖に堕ちたと見える」
「殺された? 戦に巻き込まれたってことか?」
「村を軍に供せよと求められて拒んだか、何ぞ見聞きして口封じのために狩られたか。いずれにせよ、武士への恨みがあやつらの本能」
「武士そのものを恨んでるんなら、佐幕派も倒幕派もありゃしねぇな」
「さよう。あやつら、人の形を為してはおるが、あの頭はお飾りよ。物を思うも考えるもできぬ。肉が腐れ落ちて動けなくなるまで、夜な夜な刀の金気を嗅ぎ分けては、武士の襲うつもりであろう」
シジマの深く裂けた獣の口は軽やかに動いた。舌に記された赤い環と油断なく見開かれた黄金色の目が、闇の中に輝いている。
妖が唸《うな》り出した。冷えた夜気に呪詛が凝《こご》り、吸う息さえも重く淀《よど》む。俺を庇《かば》って前に立った島田さんが、どさりと倒れ、瘧《おこり》のように震え出した。
俺も膝がわななき、立っていられない。妖の赤い目など見るのはおぞましい。だが、俺は刀を杖にしてすがり、じっと敵を睨んだ。
「おい、シジマ、頼みがある」
「何じゃ、歳三」
「力を得る方法を教えてくれ。こんなくだらねぇところで全滅なんて洒落《しゃれ》にもならん」
「環の力を求めるか?」
「それ以外にあいつらを叩っ斬る手はねぇだろう」
「己が斯《か》様《よう》な妖に堕ちるやもしれぬぞ」
「堕ちるもんかよ。俺はもともと鬼だ」
「鬼とな?」
「人斬り集団、新撰組で最も冷たい男、鬼の副長の土方と呼ばれていた。俺は鬼なんだよ」
床に転がった島田さんが、幽霊でも見るような目を俺に向けた。
「土方さん、誰と、何をしゃべってる?」
四尾の妖狐、シジマの姿は闇に溶け、島田さんの目には映っていないらしい。ましてや声など聞こえようもないのだろう。ならば、シジマと言葉を交わせる俺はきっと、すでにまともな人間ではない。
俺は島田さんに微笑んだ。倒れ伏して呻《うめ》く隊士たちにも笑顔を向けた。
「心配するな。俺が今すぐ化け物どもを追い払ってやる。新撰組局長の誇りに懸けて、おまえたちを無駄に死なせやしねぇさ」
「土方さん、それは、一体……」
「無力なままではいられねえ。なあ、シジマよ」
俺はシジマに手を差し伸べた。シジマが鼻を鳴らした。
「我、妖狐シジマが身を依《よ》り代《しろ》に、汝が肉に彼岸の呪文を施《ほどこ》し、宿《しゅく》業《ごう》の大環に悖《もと》る罪科の赤環を成さん。歳三よ、気を確かに持て。さもなくば、食らうぞ」
言うが早いか、シジマは俺の首に飛び付き、牙を立てた。ぶつり、と皮膚の破れる音がした。
痛みではなく灼熱を感じた。酸《す》い匂いがして煙が上がる。
シジマは俺から離れ、噛み千切った肉を飲み込んだ。
俺は首筋に触れる。血は流れていなかった。うぞうぞと皮膚がうごめき、傷が塞がる。灼熱の形を指先でたどると、緻密な文字がぐるりと一周、環を描いている。
どうってことないと言おうとした途端、心臓が異様に強く打った。
目眩《めまい》がした。床に手を突く。刀の倒れる音が妙に高く耳に響いた。
「歳三」
呼ばれ、顔を上げる。シジマの黄金色の目に俺が映り込んでいる。
苦しい呼吸、痛む鼓動、眼前をちらつく微細な稲妻、背筋を伝う脂汗。だが、俺は奥歯を噛み締め、シジマに求める。
「くれよ。もっと、俺に力を」
新鮮な血の匂いをさせたシジマが、にっと笑った。獣の口が俺の口を塞ぎ、シジマはそのまま、ずるりと俺の体の中に入ってきた。
血がたぎる。気が暴れ狂う。力が噴き上がる。臓腑も骨も肉も何もかもが膨れ上がって皮膚を弾き飛ばすのではないかと、それほどに、血も気も力もすべてが刹《せつ》那《な》のうちにみなぎった。
「熱い」
こぼした声は人の言葉の形をしていただろうか。目を開く。夜の闇さえまぶしい。すべてが鮮明に見分けられる。耳もまた冴え渡り、足音の数まで聞き分けられる。
俺は九尾を打ち振るい、跳ね起きて刀を抜いた。
刀が軽い。体が軽い。地を蹴って飛び出す。吠える妖に、横薙ぎの一閃。胴が刎《は》ね飛ぶ。濁った返り血。心地よい手応え。
たやすい。紙人形でも破るかのように。虫でもひねり潰すかのように。
力があるってのはこういうことか。斎藤、妖刀の力を解き放つときのおまえには、こんな景色が見えていたのか。
巨大な力が体に満ちている。頭のてっぺんからつま先まで、すべてが己の意のままに動く。今の俺なら何でもできる。
「暴れてやるぜ。妖ども、俺の新撰組を襲おうとしやがったことを地獄で悔いろ!」
上段から振り下ろし、老いた妖の頭蓋をかち割る。振り向いて、大柄な妖に刺突。鍔《つば》の根元まで肉に埋まる。刀を振り回し、死体を吹っ飛ばす。どろりと濡れた刀でまた、斬る。
妖の腐りかけた血が雨と降る。足蹴にするだけで、肉の削げた妖の体に穴が空いた。倒れたところを踏み付ける。肺腑も心臓も胸郭ごと、ぐしゃりと潰れる。
「脆《もろ》いな。こんなもんかよ、人の肉体なんて、所詮」
俺は笑う。
力がほしいと思い続けてきた。剣を操る力、火砲を指揮する力、組織を動かす力、人を率いる力。今の俺に足りないものは何なのかと問い続け、求め続け、少しずつ一つずつ手に入れてきた。
何を呑気なことをしていたんだろう? もっと早く、俺は強くなるべきだった。赤い環の力があれば、こんなにも簡単に敵を滅ぼせるじゃないか。皆を守れるじゃないか。
わらわらと群がり寄る妖を斬撃の下に沈める。なおもつかみ掛かってくる者は、逆に首をつかむ。そのまま引き千切る。
血臭と腐臭がひどく甘い。喉の渇きを覚え、血濡れた手を舐める。
甘いが、いくらか渋くて苦い。やはり、死んだばかりの女の血のほうが圧倒的にかぐわしかった。
「かぐわしい……竹子の、血の味?」
「浴びてしもうただけじゃ。好きで吸うたのではないわ。しかしながら、あの甘さ、忘れられなんだ」
腹か胸か頭の内側で、シジマが舌なめずりをした。
俺は、まだしも腐食の進んでいない女の妖をとらえ、はだけた胸元に食らい付く。薄い肉を噛み千切り、心臓を舐める。
「こいつも駄目だ。もっと甘いのがほしい。新鮮な心臓を食いてえ」
「欲を抑えよ。理性の失せた妖になど堕ちとうはあるまい。人ならぬ身の我とて、人を食らうはおぞましいと思う。歳三、血に酔うてはならぬ。気を確かに持て」
俺の内側から俺を照らす金色の目が静かに諭《さと》した。耳を貸さずに暴れたい衝動がある。それはならないと、自分に言い聞かせる。
すっと波が引いた。
俺は女の妖の死体を捨て、口を拭い、あたりを見渡した。いつの間にか篝《かがり》火《び》は倒れ、暗がりに包まれていた。妖は幾百の肉片と化し、起き上がる者はない。妖気も掻き消えた。血の匂いの満ちる中、立っているのは俺だけだ。
寺の講堂で倒れていた面々が、はっと身を起こした。島田さんが慌てて、手近な明かりを掲げる。
「土方さん、無事か? 全部倒したのか?」
「ああ、俺は何ともない。島田さんは何も見なかったか?」
俺の問いに、島田さんは困惑の表情を浮かべた。
「見てはいけないものがあったのか? 幸か不幸か、土方さんが刀を抜いてすぐに篝火が倒れて、ほとんど真っ暗だったよ」
「そうか。だったら、別にいい」
血に飢えた俺の顔も姿も、島田さんたちは見なかった。俺は息をつき、寺へと歩み寄る。俺が近付くにつれ、皆が俺の姿を認め、愕然と目を見張った。
頭の上に突き出た獣の耳と、軍服の布地を透かして豊かに広がる九尾。両目もきっとシジマと同じ金色に変じているだろう。舌先でたどる歯は異様に尖っている。
「どうした? 俺が怖いか?」
笑ってみせる。心臓は嫌な音を立てて高鳴っていた。
へなへなと座り込んだ島田さんが、俺に笑い返した。
「何を今さら。化け狐の耳と尻尾がどうしたってんだ」
「禁忌に手を出しちまった」
「土方さんが何をしたか、見えなかった。声は少し聞こえたがな。それでも、ふさふさした耳や尻尾なんか生やした格好より、不機嫌な青い顔で押し黙っているときのほうがよっぽど怖いよ。なあ、皆もそう思うだろう?」
本当ですよ、と古参の隊士が膝を打った。安心して気が抜けた、と誰かが笑い出した。笑いは伝播する。
何はともあれ俺はこいつらを守ることができたのだと、俺は唐突に強く実感した。
「皆が無事なら、それでいいんだ。妖の死体がそこらじゅうに転がってるんじゃ気味が悪いかもしれねぇが、明日に備えて休んでおけ」
隊士一同、おうと声を上げて俺に応えた。普段と何ら変わらない。
俺の体の内側で、シジマが俺に問うた。
「そろそろ外に出てもよいか? 窮屈じゃ」
「ああ。俺も少し疲れた」
「少しどころではあるまい。人間の肉体は脆いと留意せよ。汝も、肉体は人間よ」
「そうか。化け物みてぇな暴れ方を覚えても、俺はまだ人間でいられるんだな」
体じゅうから血の匂いがする。酔ってしまいそうだった。裏の井戸で体を清めるからと断って、俺は場を後にした。
ひょいと俺の体から跳び下りたシジマが東の空を仰いだ。
「夜が明けるぞ」
人の目に戻ってぼやけた視界に、すがすがしい光が満ちる。ほう、と吐き出した俺の息は温かく、深まる秋の冷えた朝の空気の中に白く漂《ただよ》った。
春三月、仙台藩には倒幕派の先鋒、長州藩の世《せ》良《ら》修《しゅう》蔵《ぞう》が乗り込み、「我らの軍門に降《くだ》って会津に出兵せよ」と命じた。仙台藩は地縁のある会津藩に同情を寄せ、出兵をためらった。
夏四月、仙台藩は米沢藩とともに奥羽諸藩に呼び掛け、閏《うるう》四月には奥羽越列藩同盟を結成して会津藩の助命嘆願を訴えた。
奥羽越列藩同盟の訴えを前に、世良の態度はけんもほろろだった。
「会津の助命など酒宴の笑い話にもならん。つべこべ言わずに会津を攻めろっちゃ。それとも奥羽の山猿どもには人の言葉が通じんか?」
世良は奥羽諸藩の武士と顔を合わせれば詰《なじ》り倒し、酒を食らい女を抱き、行く先々で憎しみを買い続けた。
そして閏四月十九日、ついに仙台藩士が決起し、世良修蔵を暗殺。その動きに呼応した会津軍が翌日に白河城を占拠し、数日のうちに白河が激戦の地となった。
世良の暗殺と白河での戦闘が、会津藩と倒幕派との協調路線を完全に閉ざした。要衝の地、白河を倒幕派に奪われて以降、戦に次ぐ戦がまたたく間に会津藩を追い詰め、今に至る。
「あのとき仙台に駐留していたのが世良修蔵じゃあなく、もうちょっと話のわかる人間だったら、奥羽は開戦していなかったかもしれない」
俺がつぶやくと、粗末な明かりの向こうで顔を上げた島田さんは、さあどうだろうと首を振った。
「斎藤とも似たような話をしたことがある。戦が起こることは止められなかったと思うよ。もし会津でなかったら、どこか別の地が戦場になっていた」
「時を遡《さかのぼ》るなら、もっと前か。京都で俺たち佐幕派はどう動くべきだったんだろう? 先代の天皇と将軍が相次いで崩御したとき、まわりをもっとよく見りゃよかった」
「その時期は局内でごたごたしていて」
「ああ、袂《たもと》を分かった連中をいつどうやって粛《しゅく》清《せい》すべきかと、そんなことばかり考えていた。何も見えてやしなかったんだ。京都を撤退して伏見で負けて勝沼でも宇都宮でも負けて近藤さんを喪《うしな》って、会津に来てようやく、俺が為すべきだったことがいくつもわかった」
「土方さん、そう自分を責めなさんな。斎藤が別れ際に告げた言葉がすべてだ。ここに残っている新撰組は、あんたが土方歳三という男だから、付いていこうと決めたんだ」
「ありがとう」
俺は今、五十人ほどの隊士を引き連れて米沢から仙台へ向かう旅の途上にある。何かと騒がしい宿場を避け、打ち捨てられた大きな寺に泊まることに決めた夜だった。
破れ寺と呼ぶにはまだ新しい。近くに村もあったが、灯は一つもうかがえなかった。重すぎる年貢を苦に、農民が逃散してしまったのだろう。奥羽に来てから、そんな村をいくつも見知っている。
異変の訪れは唐突だった。
外の見張りが尋常ではない悲鳴を上げた。冷え冷えとした講堂で雑魚《ざこ》寝《ね》していた者は皆、跳ね起きた。
俺は真っ先に講堂を飛び出した。何事かと問うまでもない。すでに、ぐるりと囲まれている。
「こいつはまずい」
敵軍ではない。痩せた体に襤褸《ぼろ》をまとい、手に手に鍬《くわ》や鋤《すき》を携《たずさ》えた集団だ。
一目で常人ではないとわかった。おそらくかつては農民だったのだろうが、見開かれた両眼は爛々《らんらん》と赤く、篝《かがり》火《び》よりも強く光っている。
妖の群れだった。ゆらりゆらりと左右に揺れながら、毒気を吐き散らして近寄ってくる。
怖《おぞ》気《け》が体を這い上った。冷たい手で臓腑を握り潰されるような錯覚。見張りの隊士が震えながら崩れ落ちた。
環を持つ者は、今の新撰組にいない。妖気に当てられて動ける者は一人もいないのだ。このままでは為す術《すべ》もなく取り殺されてしまう。
いや、違う。
どこからともなく、つややかに黒い四つの尾を揺らしてシジマが現れた。
「あやつら、殺されたものの死に切れず、瘴気を呑んで妖に堕ちたと見える」
「殺された? 戦に巻き込まれたってことか?」
「村を軍に供せよと求められて拒んだか、何ぞ見聞きして口封じのために狩られたか。いずれにせよ、武士への恨みがあやつらの本能」
「武士そのものを恨んでるんなら、佐幕派も倒幕派もありゃしねぇな」
「さよう。あやつら、人の形を為してはおるが、あの頭はお飾りよ。物を思うも考えるもできぬ。肉が腐れ落ちて動けなくなるまで、夜な夜な刀の金気を嗅ぎ分けては、武士の襲うつもりであろう」
シジマの深く裂けた獣の口は軽やかに動いた。舌に記された赤い環と油断なく見開かれた黄金色の目が、闇の中に輝いている。
妖が唸《うな》り出した。冷えた夜気に呪詛が凝《こご》り、吸う息さえも重く淀《よど》む。俺を庇《かば》って前に立った島田さんが、どさりと倒れ、瘧《おこり》のように震え出した。
俺も膝がわななき、立っていられない。妖の赤い目など見るのはおぞましい。だが、俺は刀を杖にしてすがり、じっと敵を睨んだ。
「おい、シジマ、頼みがある」
「何じゃ、歳三」
「力を得る方法を教えてくれ。こんなくだらねぇところで全滅なんて洒落《しゃれ》にもならん」
「環の力を求めるか?」
「それ以外にあいつらを叩っ斬る手はねぇだろう」
「己が斯《か》様《よう》な妖に堕ちるやもしれぬぞ」
「堕ちるもんかよ。俺はもともと鬼だ」
「鬼とな?」
「人斬り集団、新撰組で最も冷たい男、鬼の副長の土方と呼ばれていた。俺は鬼なんだよ」
床に転がった島田さんが、幽霊でも見るような目を俺に向けた。
「土方さん、誰と、何をしゃべってる?」
四尾の妖狐、シジマの姿は闇に溶け、島田さんの目には映っていないらしい。ましてや声など聞こえようもないのだろう。ならば、シジマと言葉を交わせる俺はきっと、すでにまともな人間ではない。
俺は島田さんに微笑んだ。倒れ伏して呻《うめ》く隊士たちにも笑顔を向けた。
「心配するな。俺が今すぐ化け物どもを追い払ってやる。新撰組局長の誇りに懸けて、おまえたちを無駄に死なせやしねぇさ」
「土方さん、それは、一体……」
「無力なままではいられねえ。なあ、シジマよ」
俺はシジマに手を差し伸べた。シジマが鼻を鳴らした。
「我、妖狐シジマが身を依《よ》り代《しろ》に、汝が肉に彼岸の呪文を施《ほどこ》し、宿《しゅく》業《ごう》の大環に悖《もと》る罪科の赤環を成さん。歳三よ、気を確かに持て。さもなくば、食らうぞ」
言うが早いか、シジマは俺の首に飛び付き、牙を立てた。ぶつり、と皮膚の破れる音がした。
痛みではなく灼熱を感じた。酸《す》い匂いがして煙が上がる。
シジマは俺から離れ、噛み千切った肉を飲み込んだ。
俺は首筋に触れる。血は流れていなかった。うぞうぞと皮膚がうごめき、傷が塞がる。灼熱の形を指先でたどると、緻密な文字がぐるりと一周、環を描いている。
どうってことないと言おうとした途端、心臓が異様に強く打った。
目眩《めまい》がした。床に手を突く。刀の倒れる音が妙に高く耳に響いた。
「歳三」
呼ばれ、顔を上げる。シジマの黄金色の目に俺が映り込んでいる。
苦しい呼吸、痛む鼓動、眼前をちらつく微細な稲妻、背筋を伝う脂汗。だが、俺は奥歯を噛み締め、シジマに求める。
「くれよ。もっと、俺に力を」
新鮮な血の匂いをさせたシジマが、にっと笑った。獣の口が俺の口を塞ぎ、シジマはそのまま、ずるりと俺の体の中に入ってきた。
血がたぎる。気が暴れ狂う。力が噴き上がる。臓腑も骨も肉も何もかもが膨れ上がって皮膚を弾き飛ばすのではないかと、それほどに、血も気も力もすべてが刹《せつ》那《な》のうちにみなぎった。
「熱い」
こぼした声は人の言葉の形をしていただろうか。目を開く。夜の闇さえまぶしい。すべてが鮮明に見分けられる。耳もまた冴え渡り、足音の数まで聞き分けられる。
俺は九尾を打ち振るい、跳ね起きて刀を抜いた。
刀が軽い。体が軽い。地を蹴って飛び出す。吠える妖に、横薙ぎの一閃。胴が刎《は》ね飛ぶ。濁った返り血。心地よい手応え。
たやすい。紙人形でも破るかのように。虫でもひねり潰すかのように。
力があるってのはこういうことか。斎藤、妖刀の力を解き放つときのおまえには、こんな景色が見えていたのか。
巨大な力が体に満ちている。頭のてっぺんからつま先まで、すべてが己の意のままに動く。今の俺なら何でもできる。
「暴れてやるぜ。妖ども、俺の新撰組を襲おうとしやがったことを地獄で悔いろ!」
上段から振り下ろし、老いた妖の頭蓋をかち割る。振り向いて、大柄な妖に刺突。鍔《つば》の根元まで肉に埋まる。刀を振り回し、死体を吹っ飛ばす。どろりと濡れた刀でまた、斬る。
妖の腐りかけた血が雨と降る。足蹴にするだけで、肉の削げた妖の体に穴が空いた。倒れたところを踏み付ける。肺腑も心臓も胸郭ごと、ぐしゃりと潰れる。
「脆《もろ》いな。こんなもんかよ、人の肉体なんて、所詮」
俺は笑う。
力がほしいと思い続けてきた。剣を操る力、火砲を指揮する力、組織を動かす力、人を率いる力。今の俺に足りないものは何なのかと問い続け、求め続け、少しずつ一つずつ手に入れてきた。
何を呑気なことをしていたんだろう? もっと早く、俺は強くなるべきだった。赤い環の力があれば、こんなにも簡単に敵を滅ぼせるじゃないか。皆を守れるじゃないか。
わらわらと群がり寄る妖を斬撃の下に沈める。なおもつかみ掛かってくる者は、逆に首をつかむ。そのまま引き千切る。
血臭と腐臭がひどく甘い。喉の渇きを覚え、血濡れた手を舐める。
甘いが、いくらか渋くて苦い。やはり、死んだばかりの女の血のほうが圧倒的にかぐわしかった。
「かぐわしい……竹子の、血の味?」
「浴びてしもうただけじゃ。好きで吸うたのではないわ。しかしながら、あの甘さ、忘れられなんだ」
腹か胸か頭の内側で、シジマが舌なめずりをした。
俺は、まだしも腐食の進んでいない女の妖をとらえ、はだけた胸元に食らい付く。薄い肉を噛み千切り、心臓を舐める。
「こいつも駄目だ。もっと甘いのがほしい。新鮮な心臓を食いてえ」
「欲を抑えよ。理性の失せた妖になど堕ちとうはあるまい。人ならぬ身の我とて、人を食らうはおぞましいと思う。歳三、血に酔うてはならぬ。気を確かに持て」
俺の内側から俺を照らす金色の目が静かに諭《さと》した。耳を貸さずに暴れたい衝動がある。それはならないと、自分に言い聞かせる。
すっと波が引いた。
俺は女の妖の死体を捨て、口を拭い、あたりを見渡した。いつの間にか篝《かがり》火《び》は倒れ、暗がりに包まれていた。妖は幾百の肉片と化し、起き上がる者はない。妖気も掻き消えた。血の匂いの満ちる中、立っているのは俺だけだ。
寺の講堂で倒れていた面々が、はっと身を起こした。島田さんが慌てて、手近な明かりを掲げる。
「土方さん、無事か? 全部倒したのか?」
「ああ、俺は何ともない。島田さんは何も見なかったか?」
俺の問いに、島田さんは困惑の表情を浮かべた。
「見てはいけないものがあったのか? 幸か不幸か、土方さんが刀を抜いてすぐに篝火が倒れて、ほとんど真っ暗だったよ」
「そうか。だったら、別にいい」
血に飢えた俺の顔も姿も、島田さんたちは見なかった。俺は息をつき、寺へと歩み寄る。俺が近付くにつれ、皆が俺の姿を認め、愕然と目を見張った。
頭の上に突き出た獣の耳と、軍服の布地を透かして豊かに広がる九尾。両目もきっとシジマと同じ金色に変じているだろう。舌先でたどる歯は異様に尖っている。
「どうした? 俺が怖いか?」
笑ってみせる。心臓は嫌な音を立てて高鳴っていた。
へなへなと座り込んだ島田さんが、俺に笑い返した。
「何を今さら。化け狐の耳と尻尾がどうしたってんだ」
「禁忌に手を出しちまった」
「土方さんが何をしたか、見えなかった。声は少し聞こえたがな。それでも、ふさふさした耳や尻尾なんか生やした格好より、不機嫌な青い顔で押し黙っているときのほうがよっぽど怖いよ。なあ、皆もそう思うだろう?」
本当ですよ、と古参の隊士が膝を打った。安心して気が抜けた、と誰かが笑い出した。笑いは伝播する。
何はともあれ俺はこいつらを守ることができたのだと、俺は唐突に強く実感した。
「皆が無事なら、それでいいんだ。妖の死体がそこらじゅうに転がってるんじゃ気味が悪いかもしれねぇが、明日に備えて休んでおけ」
隊士一同、おうと声を上げて俺に応えた。普段と何ら変わらない。
俺の体の内側で、シジマが俺に問うた。
「そろそろ外に出てもよいか? 窮屈じゃ」
「ああ。俺も少し疲れた」
「少しどころではあるまい。人間の肉体は脆いと留意せよ。汝も、肉体は人間よ」
「そうか。化け物みてぇな暴れ方を覚えても、俺はまだ人間でいられるんだな」
体じゅうから血の匂いがする。酔ってしまいそうだった。裏の井戸で体を清めるからと断って、俺は場を後にした。
ひょいと俺の体から跳び下りたシジマが東の空を仰いだ。
「夜が明けるぞ」
人の目に戻ってぼやけた視界に、すがすがしい光が満ちる。ほう、と吐き出した俺の息は温かく、深まる秋の冷えた朝の空気の中に白く漂《ただよ》った。
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なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
商い幼女と猫侍
和紗かをる
歴史・時代
黒船来航から少しの時代。動物狂いでお家断絶になった侍、渡会正嗣と伊勢屋の次女ふたみはあるきっかけから協力して犬、猫、鶏と一緒になって世を守る。世直しドタバタ活劇。綺羅星の様な偉人ひしめく幕末の日本で、二人がひっそりと織り成す物語です。
残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道
谷鋭二
歴史・時代
この物語の舞台は主に幕末・維新の頃の日本です。物語の主人公榎本武揚は、幕末動乱のさなかにはるばるオランダに渡り、最高の技術、最高のスキル、最高の知識を手にいれ日本に戻ってきます。
しかし榎本がオランダにいる間に幕府の権威は完全に失墜し、やがて大政奉還、鳥羽・伏見の戦いをへて幕府は瓦解します。自然幕臣榎本武揚は行き場を失い、未来は絶望的となります。
榎本は新たな己の居場所を蝦夷(北海道)に見出し、同じく行き場を失った多くの幕臣とともに、蝦夷を開拓し新たなフロンティアを築くという壮大な夢を描きます。しかしやがてはその蝦夷にも薩長の魔の手がのびてくるわけです。
この物語では榎本武揚なる人物が最北に地にいかなる夢を見たか追いかけると同時に、世に言う箱館戦争の後、罪を許された榎本のその後の人生にも光を当ててみたいと思っている次第であります。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
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