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四 斎藤一之章:My heart

誠義(二)

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 軽やかな笛の音が、晴れた秋空の下に奏でられる。とひよれよれ、ひゅうるり、ひゅるり。弾む太鼓が囃《はや》し立てれば、笛の音はまた一層、伸びやかに躍る。
 通り囃子の音に合わせて、三体の獅子が黒いたてがみを振り乱して舞い、歩く。緋色の小袖に黒い袴《はかま》。腹には小さな太鼓を括《くく》り付けて、箸のように小さな撥《ばち》で打つ。
「彼岸獅子、か」
 つぶやくと、隣を歩く盛之輔が小声で説明した。
「会津では、春の彼岸に、村ごとの獅子が練り歩くのです。みんな自分の村おらほの獅子がいちばんだと譲らねぇから、別の村の獅子と鉢合わせしたら、殴り合いの喧嘩になります。けんじょ、喧嘩も含めて彼岸獅子で、殴り合っても仲が悪いわけではねぇなし」
「火事と喧嘩は江戸の華というが、会津の者も喧嘩を見世物にするんだな」
「殴り合って許されるのは、彼岸獅子の喧嘩だけです。獅子は、江戸にもあるんだべし?」
「あるにはあるが、姿が違う」
 江戸の獅子は、舞い手がすっぽりと布をかぶる。赤い獅子頭の顎《あご》で宙を噛みながら舞って、子どもを追い掛けたりするものだ。三体も連れ立つことはなく、大抵は一体で、囃し手とともに練り歩く。
 そんなふうに盛之輔に教えてやろうとしたが、暇がなかった。今まさに、獅子の先に立って歩く弓持の少年が敵陣の只中に突入したところだ。続いて、拍子に合わせて機敏に頭を振る三体の獅子。さらに、笛と太鼓の囃し手たち。
 彼岸獅子の一団は、下は十一から上は十八の若い男たちだ。ただ一人、笛を吹く男だけが三十で、一団の長を務めている。
 季節外れの獅子を繰り出したのは、鶴ヶ城より一里ほど西の小松村。村の周辺、阿《あ》賀《が》川《がわ》より西の一帯はまだ倒幕派の手が及んでいない。
 目の前に鶴ヶ城が見えている。敵はぐるりと城を囲んでいる。敵の布陣の真ん中を、彼岸獅子を先頭にしたオレたちは歩いて突っ切ろうとしている。
 敵軍から、ざわざわと声が上がった。
「あれは何じゃろ? 祭りか?」
「さあ? あんなもん、初めて見たっちゃ」
「獅子舞やろ。しかし、おかしな姿じゃな」
「脚が足りんほ。二本足で歩く獅子じゃ」
 言葉から察するに、長州だ。オレは陣《じん》笠《がさ》の内側に顔を隠す。万一にもオレの顔を知る者がいたら厄介だ。作戦が台無しになる。
 数歩先を行く馬上の男は、会津藩若年寄、山川おお蔵《くら》。オレより一つ年下の山川さんは、ロシア帰りの洋装に短髪で、威風堂々と胸を張っている。
 馬の轡《くつわ》を取るのは、髪を切って洋装に着替えた健次郎だ。山川さんと健次郎は兄弟で、似た格好をすると本当にそっくりだった。
「どこかの藩の余興じゃろか。見ろ、弓持は子どもじゃ」
「獅子の舞い手も、頭のせいで大きゅう見えるが」
「ああ、子どもじゃな。小さくて、よぉ飛び跳ねちょる」
「誰や、陣中に若衆を連れ込んだけしからんやつは!」
 長州藩士が、どっと笑う。
 若松に倒幕派の侵入を許したという知らせを受けて、山川さんたち会津軍の主力は江戸街道の前線から取って返してきた。越後街道からも同じく、続々と軍が戻ってきている。
 鶴ヶ城には女や子ども、老人を中心に一千余人が立て籠《こも》ったが、守備を担《にな》う兵力は乏しい。食糧と物資も心《こころ》許《もと》ない。敵の包囲を突破して城に兵力と食糧と物資を届けることが、何よりの急務だった。
 敵陣に正面から突撃した者が幾人もいる。戦果は半々だ。うまく城内に入れた者もいるが、怪我や討ち死にも少なくない。せっかくの食糧を敵に奪われることもあった。
 山川さんは奇策を思い付いた。それが彼岸獅子だ。祭り囃子を先頭に行列を作って、敵の虚を突く策だった。
 敵がただ一藩から成る軍なら、こんな手に騙されないだろう。が、倒幕派の軍勢には薩摩、土佐、長州、大垣、彦根、大村と、雑多な藩が入り交じっている。しかも、山川さんが支給した黒い洋式軍服は、ぱっと見ただけでは、どこの藩のものかわからない。
 だから、敵は引っ掛かった。自分たちに馴染みのない祭り囃子も、きっと味方の他藩が送り出した陣中見舞いだろうと高を括《くく》っている。手拍子が広がっていく。まさかこの一千人の行列が会津の軍勢だとは、思いも付かないらしい。
 痛快だ。人の目を欺《あざむ》く仕事は、オレもいくらでもやってきた。だが、ここまで大掛かりで派手な仕事は初めてだ。山川さんの知恵と度胸には恐れ入る。
 入り組んだ形をした鶴ヶ城の城壁に、きらりと光るものがある。銃口だろう。誤射される恐れはない。彼岸獅子の通り囃子は、会津では誰もが知っている。
 赤みがかった瓦屋根の五重の天守が、青空によく映えている。城を巡る堀から水鳥が飛び立つ。西出丸の郭《くるわ》はもう目前だ。山川さんが合図を出すのを、オレたちは今か今かと待っている。
 城壁の石垣のすぐそばで、弓持の少年が体ごと山川さんを振り返った。山川さんは右手を振り上げ、振り下ろした。
 途端、通り囃子が止んだ。彼岸獅子の一団を先頭に、軍勢は脱兎のごとく駆け出す。西出丸から梅坂を通って本丸へ。一千人の軍勢は雪崩《なだれ》を打って城内へ飛び込んでいく。
 敵軍が初めてオレたちの正体を悟った。
「出会えっちゃ! あいつらは会津じゃ!」
 オレは盛之輔の肩から銃を奪い、疾走する軍列から外れる。
「山口さま!」
「先に行け!」
 たちまち人混みの中に盛之輔を見失う。オレは一千人の軍勢の殿《しんがり》に就いた。敵がようやく銃を構える。オレが機先を制して撃つ。敵の一人が銃を取り落とす。悲鳴が上がる。混乱が起きる。オレは再び走る。
 銃声が追ってくる。転んだ会津藩士を庇《かば》って、盛之輔の銃を撃つ。次の弾を込める暇はない。
「走れ!」
 会津藩士を叱《しっ》咤《た》して、オレも走る。ほとんどの者がすでに入城を果たしている。オレたちも急がなければ。城門が開いた隙を、敵に突かれるわけにはいかない。
 案の定、追いすがってくる敵がいる。斬って倒すか。オレは肩越しに背後をうかがった。
 その瞬間、銃声。敵がくずおれる。再び、みたび、銃声が響く。そのたびに前列の敵が倒れる。
 はっとして、オレは西出丸の城壁を見上げた。八重だ。連射の利くスペンサー銃がまた火を噴く。
 オレが最後に駆け込んで、鉄《くろがね》門は固く閉ざされた。城内は歓喜に沸き返っている。人混みを掻き分けて、盛之輔がオレに跳び付いた。
「山口さま、よかった! 一人も欠けず、みんな無事でお城に入れました! 山川さまのお知恵はすげえ。小松の獅子の一団も、武士でねぇのに勇敢だ。本当にすげえ!」
「ああ、大したもんだな。肝が冷えたが、成功してよかった」
「山口さまみてぇな立派な武士でも、肝が冷えることがあんだべし?」
「そりゃあ、あるさ。ないわけがない」
 盛之輔が、へえ、と丸い目を見張った。その目にオレはどんなふうに映っているんだろう? オレと盛之輔では、ちょうど十歳離れている。
 オレと近藤さんも十違いだった。オレが十五のころ、近藤さんは二十五で試衛館の道場長を務めていた。決して追い付けやしないと思った。今もそう思っている。
 ふと、聞き慣れた声がした。
「盛之輔?」
 時尾の姿が人混みの中にある。盛之輔が手を振って、オレは陣笠を外した。時尾が、ぱっと笑顔になった。
 前に時尾と別れてから一月と経っていないのに、妙に懐かしく感じた。駆け寄った時尾は盛之輔の肩に、髪に、頬に触れた。
「盛之輔、生きていてくれてよかった! 心配しただよ。出陣した白虎隊が大勢、帰ってこねかったから」
「おらは怪我ひとつしてねえ。姉《あね》つぁこそ、疲弊《こえ》ぇ顔して、無理しているのでねぇが? おばんちゃと母上は、さすけねぇがよ?」
「高木家はみんな、さすけね。盛之輔は、斎藤さまとずっと一緒だったがよ? 斎藤さまにお世話を掛けっつまったのでねぇが?」
 オレは時尾にかぶりを振った。
「盛之輔が塩川までオレを呼びに来た。世話を掛けさせたのはオレのほうだ」
 時尾はオレに向き直った。
「新撰組は会津から離れていったと、人《ひと》伝《づて》に聞きました。わたし、斎藤さまも行ってしまわれたと……もうお会いできねぇと思っていました」
「土方さんたちは行ってしまった。オレを含めて十人ばかりがここに戻ってきた」
「ありがとうごぜぇます。危険だとわかっているのに、ご自分の国でもねぇ会津のために、本当にありがとうごぜぇます」
 オレは、頭を下げる時尾から顔を背けた。
「礼を言われるような立派なもんじゃない」
「斎藤さまらしいお言葉だなし」
「……何で笑う?」
「お気を悪くしねぇでくなんしょ。嬉しくて、つい」
 青い空から鳥の羽ばたきが聞こえた。はっとして見上げ、腕を掲げる。人混みを憚《はばか》るように、おずおずと、白い鳩《はと》がオレの腕に降りてきた。
 時尾が微笑んで、鳩に顔を寄せた。
「鳩さんも、元気そうで何よりだ。戦に巻き込まれっつまったんでねぇかと心配だっただよ」
 時尾の声音は、子どもをあやすように甘く柔らかだった。鳩に向けられた微笑みから、オレは目が離せなくなる。鳩は得意げに喉を鳴らした。
 盛之輔が、鳩を驚かさないためなのか、小声になって訊いた。
「この鳩は山口さま、いや、斎藤さま、の鳩ですか?」
「山口でいい。だいぶ前からオレに懐いてるんだ」
「真っ白で綺麗だなし。こだに人が多くても、山口さまのことは間違わねぇなんて、賢い鳥だ。姉つぁにも懐いてんのがよ?」
 オレの頭に一つの案が閃《ひらめ》いた。オレは鳩を抱えると、時尾と盛之輔の真ん中あたりをめがけて、ぽいと放った。鳩は翼を一つ打って、時尾の肩に収まる。盛之輔が鳩に手を差し出すが、鳩は時尾の肩から離れない。
「懐いてるな」
「鳩さんが、わたしに?」
「手紙を運ばせよう」
 時尾が眉をひそめた。
「斎藤さま、お城を離れるのですか?」
「そのつもりだ」
「お城の中で一緒に戦ってくださるのではねぇのですか? お堀の外は一万も二万も敵がいて、どこもかしこも危険だべし」
「敵の包囲を突破して、城への補給路を確保する。それがオレの役目だ。今夜にもまた城を出る」
「んだべし……大変なお役目だ」
 時尾は目を伏せた。鳩がくるくると鳴いて、時尾の頬にくっついた。
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