上 下
13 / 27
三 土方歳三之章:Rush

母成峠の戦い(四)

しおりを挟む
 激しい銃撃戦は夕方まで続いた。雨は上がらない。
 敵軍は続々と到着した。圧倒的な火勢に押され、俺たちは撤退を決めた。十六橋からいくらか引いた戸ノ口原の各所に隊ごとに分屯し、一夜を明かす。払《ふつ》暁《ぎょう》には再び開戦することになるだろう。
 容保公は前線に留まりたがったが、戸ノ口原には防塁になるものがない。雨さえ凌《しの》げない野営には皆が反対し、容保公は、鬼の姿を取った佐川さんに担《かつ》がれて滝沢本陣へ戻った。
 白虎隊は前線に残った。容保公に直接掛け合い、戦いたいと申し出たのだ。容保公の許可を得た白虎隊に、俺は、後で合流するからと待機場所を指示した。
「右手に見える小高い丘の北の山《さん》麓《ろく》にいろ。北はわかるな?」
「わかります。磐《ばん》梯《だい》山《さん》を目印に、まわりの山の形を見れば、北の方角は間違いません」
「俺たちが川岸から撤退したら、敵の一部は橋を渡って明日の払暁攻撃の支《し》度《たく》を始めるだろう。夜襲をかけてくるかもしれない。十分に警戒しろ」
「はい。気を引き締めます」
「近くに人影が見えても、味方だと頭から信じて声を掛けちゃならねえ。そいつらがしゃべる言葉をよく聞け。会津の言葉でもなく、俺が使う江戸の言葉でもなかったら、敵だと思って警戒するんだ」
「わかっています。私たち白虎隊が露払いをしておきますから、土方さまたちもお気を付けて」
 機敏な仕草でお辞儀をして、白虎隊は撤退した。それを最後に、儀三郎たちの消息が途絶えた。俺たちが待機場所に到着したとき、そこに白虎隊の姿はなかった。


 夜明けには雨が上がった。うっすらとした霧が朝日に照らされる中、東の猪苗代湖と西の山並とに挟まれた狭い平地を舞台に、銃撃戦の火蓋が切って落とされた。
 敵も味方も小隊に分かれ、わずかな丘陵地を台場に、田圃の畦《あぜ》を塹壕にして、近距離で撃ち合う。撃っては移動し、身を潜め、敵の背後を取ろうと試みる。
 鉄砲の使えない竹子だが、足手まといではなかった。勘が鋭く、目がいい。耳と鼻が利くシジマも連れている。危険を知らせる役として重宝した。
 だが、埒《らち》が明かない。銃弾も尽きかけている。
 大鳥さん率いる伝習隊は昨夜のうちに戦場を離脱して日橋川沿いに北へ向かい、米沢街道方面へと撤退した。会津戦線からの離脱を提案したのは俺だ。いずれ新撰組もそちらで合流する、先に塩川まで行ってくれ、と。
 西の山並の向こう側は若松だ。近藤さんの墓がある天寧寺も、峠を越えればすぐだろう。
 昨日、十六橋を破壊できず、敵に日橋川を渡らせてしまった。容《かた》保《もり》公が自ら出陣して指揮を執り、兵を鼓舞したにもかかわらず、撤退という名の敗北を喫したのだ。ここまで来れば、理解せざるを得ない。
「会津はもう駄目だ」
 ぽつりとこぼすと、斎藤が息を呑み、島田さんが顔を伏せ、竹子が俺に食って掛かった。
「何をおっしゃいますの! 会津はまだ負けてなどおりませぬ」
「いや、会津の戦場としての役割は、もうおしまいだ。会津にはこれ以上、倒幕派と戦う術《すべ》はねぇんだよ」
「戦う術はございます。会津の武家は鶴ヶ城に籠《こも》り、最後まで応戦する覚悟です」
「最後まで、か。その結末はどんな形をしている? 城に籠っているうちに誰かが助けに来るのか? 冬を越せるほどの蓄えが城にあるのか? 延々と閉じ込められるうちに裏切り者が出ねぇと言えるか? 気を狂わせずに耐え切るつもりか?」
「なんて侮辱を! 今まで会津のために戦ってこられた武士のお言葉とは思えませぬ!」
「会津のためだと言った覚えはねぇよ。幕府軍、佐幕派の旗印が会津だっただけだ。会津の旗が倒れるんなら、俺たちはまた別の旗を立ててそこに集い、戦う」
 左の頬が派手な音を立てた。竹子が平手を翻《ひるがえ》すのは見えていたが、敢《あ》えて受けた。
「痛ぇな」
 笑いに歪めた口元がたちまち腫《は》れ出すのがわかる。痛みがむしろ心地よい。
 容保公も会津の武士たちも好きだ。若松の地にも世話になった。後ろ髪を引かれないと言えば嘘になる。
 しかし、俺はここで立ち止まれない。先に進みたい。先がないとわかっている会津では死ねない。
 俺は一同を見回した。新撰組の旗の下に残った隊士は五十人ほど。よく生き延びているとも思う。こんなに減っちまったかとも思う。俺は、島田さんが刀よりも大事そうに抱え続ける旗に手を添えた。赤地に誠の一文字を広げ、掲げてみせる。
「今より戸ノ口原から離脱し、北上して米沢街道を目指す。戦意のある者はこの旗に続け!」
 斎藤が俺の前にまろび出た。
「待ってくれ、土方さん。このまま会津を離れるのか?」
「言ったとおりだ。新撰組はここで滅びるわけにはいかねえ」
「でも……」
 シジマが突然、鋭く鳴いた。とっさに地に伏せる。
 頭上を火炎が薙《な》ぎ払った。馬《ば》蹄《てい》の響きと哄笑が轟《とどろ》いた。
「見付けたど、新撰組! 生きてこの戦場から出られるち思うなよ!」
 斎藤が舌打ちする。
「伊地知だ。しつこい。オレが防ぐから、皆は退いてくれ」
 刀を抜いた斎藤は鍔《つば》を弾き飛ばした。刀が低く笑うように唸《うな》った。
 馬上の伊地知が腕を掲げると、巨大な手の形を取った炎が、今にもつかみ掛かりそうに赤々と爆《は》ぜた。伊地知の背後に薩摩軍が控えている。
 俺は号令した。
「撤退! 総員、塩川で集合せよ。撤退!」
 島田さんに先駆けを命じる。島田さんが旗を背負って走る。隊士が続く。
 斎藤が俺を背に庇《かば》う位置で告げる。
「土方さんも早く。オレも塩川に向かう」
「わかった。おまえも無理をするな。後で必ず……」
 俺は言葉を呑んだ。
 竹子が気迫の声を放ち、薙刀《なぎなた》をしごいて飛び出した。止める間もなかった。薩摩軍がざわつく。伊地知が兵を振り返って焚き付けた。
「女子《おごじょ》じゃ、活きのよか女子じゃっど! 生け捕った者が好きにしたらよか!」
 わっと歓声が起こった。薩摩軍が竹子へ殺到しようとする。俺は刀を抜きながら竹子に追い付き、薙刀を構える細腕をつかんだ。
「向こう見ずが過ぎる! こんな数を相手にどうにかできるわけねぇだろうが!」
「お放しくださいませ! 男でなくては武士として物の数にも入らぬとはいえ、武家の誇りは女にも備わっております。見事、討ち死にしてご覧に入れます!」
 御《ご》託《たく》の途中で、俺は竹子の腕を引いて走り出した。
「馬鹿言え! 敵はおまえさんを討ち取ろうなんぞ思っちゃいねえ。死ぬよりひでぇ目に遭わされるぞ」
 斎藤に目配せをする。斎藤はうなずき、行ってくれ、と顎《あご》をしゃくった。
 喚《わめ》く竹子を引きずるようにして逃げる。しつこく追い掛けてくる敵がいる。シジマが敵の足下に絡み付いては転ばせる。怒号と銃声。振り返らず、走って走って走った。
 どれほど走っただろうか。戸ノ口原の外れ、若松との境にある山並に駆け込んでようやく足を止めた。
 木立の合間から戦場をうかがう。斎藤はどうなっただろう? もう目は届かない。どこか遠くから銃声が聞こえる。
 竹子が俺の手を振り払った。
「土方さまは卑怯です。正面から戦わず、最後まで戦わないなんて」
「何とでも言え。俺にとっちゃあ、ここで死ぬのはただの犬死だ」
「会津を見捨てて先へ進むのですね。土方さまが行き着きたい場所はどこなのです? 何を以てすれば、土方さまの戦う目的が果たされるのですか?」
「じゃあ訊くが、おまえさんが女だてらに戦に繰り出す目的は何だ? 討ち死にしてぇのか? 戦で死ねば誉《ほま》れを立てることができると信じているからか?」
 竹子は、ひたと俺を見つめた。
「城下に敵が侵入したら自害しようと、母と妹は申しました。ならば討ち死にしましょうと、わたくしが二人を説得しました。照姫さまは、女《おな》子《ご》には女子の働きがあるからお城に参れ、お城に籠って戦う男を支えよとおっしゃいますが、多くの女子はお城に入らないでしょう」
「死のうと決めているってのか?」
「土方さまも先ほどおっしゃいましたわね。お城には冬を越すための備えがない、と」
「だから、口減らしのために城に入らず自害を選ぶ?」
「食べ物のことだけではございませぬ。わたくしを始め女子は鉄砲も大砲も扱えませぬから、白虎隊の子どもたちよりも役に立たぬこと、昨日と今日で身を以て思い知りました。斯《か》くなる上は、やはり、死んでお役に立つしかないのだと理解いたしました」
「馬鹿が」
 籠《ろう》城《じょう》で足手まといになると思うなら、会津を離れてしまえばいい。どこに行ったって苦労はするだろう。武家の女が、やったこともない畑仕事に駆り出され、こき使われるかもしれない。それでも、死んだつもりで生き延びればいい。
 死ねば役に立てるなんて思い込みはおぞましい。俺にはわからない。物心つかないころに親に死なれた俺は姉に育てられたが、姉は強かった。畑仕事でも商いでも何でもやって、しなやかにたくましく生きていた。
 武家の女は脆《もろ》い。硬いがゆえに、ぼきりと折れる。
「討ち死にの機会を逸してしまいましたわ。とうに覚悟はできておりますのに」
「よせ。縁起でもねえ」
「土方さまには女子の覚悟がおわかりになりませぬのね。大層お持てになるとうかがいましたけれど、思いのほか朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》ですこと」
「何を言ってやがる。死にたいとほざく女がいて、はいそうですかと死なせる男がどこにいるってんだ。せっかくの髪も、こんなに短く切っちまいやがって」
 肩口にも届かない竹子の髪に指を通し、そっと梳《くしけず》る。竹子が身を硬くした。短い髪は俺の指からたやすくこぼれ、すくってもすくっても、つかまえることができない。
 竹子がささやいた。
「おやめくださいまし。恥ずかしゅうございます。結えもしない短い髪だなんて……」
 目に涙が揺れ、竹子はうつむこうとした。俺は竹子の顎《あご》に指を添え、仰向かせた。
「髪をさわられたくらいで泣きべそをかくのかよ。女も命も捨てる覚悟があったんじゃねぇのか?」
「意地悪をおっしゃらないでくださいまし」
「悪ぃな。かわいい女を見ると、どうもいじめたくなっちまうもんでね。結えねぇ髪が恥ずかしいってんなら、結えるほど長く伸びるまで生きてろ。簪《かんざし》の一つも手土産にして、会いに行ってやるよ」
 竹子の目から一粒、涙が落ちた。それを指ですくってやって、ついでに唇に触れる。竹子はびくりとして顔を背けた。
「からかっておいでなのでしょう? 馬鹿にしないで」
「からかっちゃいねぇさ。死ぬなって言ってんだ」
「聞けませぬ。土方さまのわからず屋」
「わからず屋はおまえさんだろう。男としちゃあ見過ごせねぇんだよ。美人が死んだら勿体ねぇだろうが」
「またそうやってからかって……」
 生意気な口を、押し包むように吸った。竹子の手から薙刀《なぎなた》がこぼれ、落ち葉の上に倒れる。立ち尽くす竹子の体を、俺は一度だけ強く掻き抱いた。
 唇を離す。竹子の潤んだ目を間近に見つめる。
「今は生き延びろ。俺の目の届くところでは死なせねえ。いいな?」
「……無礼です。いきなりこんなこと、口を……」
「来い。若松に出られる道を探そう。そこでお別れだ」
 竹子の薙刀を拾って持たせると、心得たようにシジマが先に立って歩き出した。ふさふさとした黒い尾を追って、木立を縫って進む。
 ほどなくして用水路に行き着いた。水の畔《ほとり》に四十絡みの女がいた。身なりを見るに、付近に住む農民だろう。女は、抜け目のない目を俺と竹子に向けた。
「どこの国の者だ? 山で迷ったがよ?」
 名乗ろうかと思案し、やめた。代わりに、懐《ふところ》にしまい込んでいた金《きん》子《す》を出して女に手渡した。
「道案内を頼みたい。この娘を若松まで送ってやっちゃくれねぇか?」
 女は金子を自分の懐に突っ込むと、竹子をじろじろと眺めた。
「こっだ格好して、男か女か見分けがつかね。武家がやることは、はぁ、わかんねな。さっきも前髪姿の子供《こめら》が大勢、飯《いい》盛《もり》山《やま》さ目指していった。武家の男は、女や子供《こめら》を戦で殺してもさすけねぇがよ? おっかね」
「前髪姿? そろいの黒い服を着た少年たちか?」
「んだ。見掛けねぇ着物だから官軍かと思ったけんじょ、言葉が会津だった。ひでぇ怪我している者もいた。撃たれたんだべなあ」
「白虎隊がここを通ったのか。どの道を行った?」
 女は用水路を指差した。おそらく猪苗代湖から若松へと水を引いているのだろう。用水路伝いに進んだ先が飯盛山なのか。
 胸騒ぎがした。いや、今さら白虎隊の行方を追って何になる? 俺は一刻も早く塩川に行って、新撰組をまとめ直さなければならない。
 しかし、成り行きとはいえ、一時は白虎隊の指揮を預かりもした。はぐれたきりで様子を見届けないまま会津を発つのも気掛かりだ。
 行ってみよう。
 俺は女に竹子の道案内を念押しした。女はうるさげにうなずいて、さっさと歩き出す。竹子が涙をこらえる顔で、強がって微笑んだ。
「土方さま、どうぞご無事で」
「竹子どのもな。もし頼まれてくれるなら、俺の代わりに天寧寺の近藤さんの墓に詫《わ》びておいてくれ。トシが暇《いとま》も告げなかったことを謝っていた、と」
「承知しました、お約束します。必ず近藤さまのお墓にお伝えしますわ。ですから土方さまも、簪《かんざし》をくださるお約束、お忘れにならないでくださいまし」
「ああ。そのときまでにもう少し俺好みの女になっていたら、口紅も買ってやるよ」
 他愛ない戯《ざれ》言《ごと》に、竹子は笑った。
 竹子と会うことは二度とないだろう。
しおりを挟む

処理中です...