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二 斎藤一之章:Fire

白河口の戦い(四)

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 雲一つない夏空から鳥の羽ばたきが降りてきた。白い鳩《はと》だ。脚に手紙が括《くく》り付けられている。
 オレは鳩に腕を差し出した。鳩は腕には止まらずに、肩に降り立ってオレに頬ずりする。鳩の体をそっと押さえて、オレは手紙をほどいた。
 京都にいたころから懐いていた鳩は、オレが江戸から宇都宮、会津、そして白河へと転戦しても、迷わずオレに手紙を届ける。鳩が賢い鳥なのか、こいつが特別に賢いのか。
 江戸からの手紙が来るたびに、開くのが怖い。覚悟はできていると幾度も自分に言い聞かせて、ようやく文字に目を通す。
 訃報だった。江戸は千《せん》駄《だ》谷《や》の植木屋に匿《かくま》われた沖田総司が、五月三十日、息を引き取った。享年二十五。
 天才の剣、猛者の剣と謳《うた》われた凄腕が労《ろう》咳《がい》のために病み付いて、そのまま弱って死んだ。戦場で死なせてくれと、熱にうかされた譫《うわ》言《ごと》が耳に残っている。
「斎藤さま、何《な》如《じょ》したがよ?」
 呼び掛けられて振り返る。時尾は、何かを予感した顔をしていた。オレは事実だけを告げた。
「沖田さんが死んだそうだ」
 時尾は顔を伏せた。小さな唇が動くのが見えた。声は聞こえなかった。
 オレは空を仰いだ。戦の日々の最《さ》中《なか》にあって、ひどく静かな時間がたまに訪れる。今がまさにそうだった。なすべきこともなく、ただ、やるせなさに呑まれる。
 白河街道、三《み》代《しろ》宿《じゅく》。猪《い》苗《なわ》代《しろ》湖《こ》の南にあって、白河の北のかた約十里に位置する。白河から撤退したオレたちは、軒を連ねる宿屋に分かれて駐屯している。
 オレが寝泊まりする宿屋は格式が高いらしい。勢《せい》至《し》堂《どう》峠《とうげ》を借景にするこの庭は、ちょっとした名所だそうだ。
 だったら何だ、と言いたくなる。物見遊山に来ているわけじゃない。
 オレたちは白河奪回を目指すとしながら、一箇月以上も、ろくな手立てを打てずにいる。
 小丸山で伊地知と対峙したあの日、五月一日。夕暮れ時を待たずして、白河は倒幕派の手に奪われた。
 後にわかったことによると、倒幕派の軍勢はわずか七百だった。対する会津藩連合軍は二千五百の兵力を擁していたのに、大敗。七百人以上の兵士が命を落とした。
 耳元で鳩が喉を鳴らした。オレは鳩の体に手のひらを添えてやる。鳩は甘えるように、オレの指をついばんだ。
「オレが怖くないのか?」
 問うてみても、鳩は首をかしげるだけだ。
 時尾がおずおずと近付いてきた。隣というには遠いところで立ち止まる。
「鳩さんには、斎藤さまのお人柄がわかってんだべし。おっかねぇお人ではねえ、と」
 時尾の声は涙に震えていた。思わず顔を見ると、潤んだ目で微笑んでいた。
「沖田さんのこと、つらいか?」
「はい。だけんじょ、斎藤さまのほうがきっと、お苦しいべし。子どものころから同じ道場に通う仲間で、京都でもずっと一緒で……わたしにとっての八重さんのようなお人だ。そっだ大事な仲間が、亡くなっつまったら……」
 こらえ切れなくなったように、時尾は口を押さえて下を向いた。小さな肩、地味な小袖、擦り傷の残る手、宿場の髪結いがこしらえた女《おんな》髷《まげ》。
「泣くな」
「はい……申し訳ごぜぇません」
「違う」
 謝らせたいんじゃない。責めているわけでもない。
 オレは鳩を抱えて、時尾の肩に載せた。鳩はオレを見て時尾を見て、時尾の腕と胸の間に、すとんと収まった。うつむいたままの時尾が微笑んだ。頬を涙が伝って落ちた。
 短い間、黙っていた。
 蝉《せみ》の声が急に耳に迫ってきた。晩夏とはいえ、京都の蒸し暑さに馴染んだ体に、奥羽は涼しい。
 時尾が小さく鼻をすすって顔を上げた。
「斎藤さま、怪我や火傷の具合《あんべ》、何《な》如《じょ》だべし? 弥曽さんが、肩や二の腕の傷が痕になるのではねぇかと心配していました。治りが遅ぇようなら、わたしが施術するけんじょも」
「さすけねえ。大《おお》袈《げ》裟《さ》だ」
「また斎藤さまは『さすけねえ』なんて。島田さまも心配しておいでだなし」
「島田さんこそ重傷だろう。あんたの術がなければ死んでいた」
「だけんじょ、斎藤さまはいつもいちばん危険な任務を引き受けて、何度も死にそうな目に遭って、怪我だらけで」
 時尾が口を閉ざした。時尾の視線を追うと、弥曽が庭に出てきたところだった。
「山口さま、傷にお薬を塗って差し上げます」
 ため息が出た。
「いらん世話だ」
 独り言を時尾に聞かれた。時尾はかぶりを振って、声を潜めた。
「そっだこと口にしたら、弥曽さんが傷付きます。お世話してもらえばよかんべし。弥曽さんは気立てのいい美人だと、会津でも評判が高ぇのですよ」
「気立てがいい? お節介が過ぎる。オレが間違いでも起こしたらどうするつもりだ?」
 時尾が息を呑んだ。じっと見られて、ばつが悪くなる。オレは時尾の腕から鳩を抱き上げた。くるくると鳴く鳩を自分の肩に載せて、時尾にも弥曽にも顔を向けずに告げる。
「鳩に何か食わせてくる」
「山口さま、そっだら、わたくしが台所に行って何かいただいてきますから」
「いい。一人にしてくれ。古馴染みの仲間が死んだんだ」
 嘘ではない。が、胸が鋭く痛んだ。沖田さんを出汁《だし》にするなんて卑怯だ。
 オレは足を速めた。どんなに急いだって、気まずさや胸の痛みから逃げ出せるわけでもないのに。


 連夜、棚《たな》倉《ぐら》城の陣中には酒が振る舞われているという。酒とは呼ぶものの、薩摩藩士が水のように呷《あお》るそれは、匂いのきつい焼酎だ。
 そらきゅう、と呼ばれるぐい呑みは、逆さにした笠《かさ》の形をしている。床に置けば独楽《こま》のように転げるから、酒を注がれたら、そのまま飲み干さなければならない。
 オレは注がれた酒を喉に流し込んだ。薩摩藩士たちが喝采を上げる。
「おお、よか飲みっぷりじゃっど! 土佐ん男も凄《わっぜ》かもんじゃ」
 愛想笑いを浮かべて、オレは土佐弁で大声を出してみせる。
「薩摩の男こそ、さすがぜよ。まっこと、聞きしに勝る酒豪ぞろいじゃ」
 オレは隣の薩摩藩士に、そらきゅうを押し付けた。酒を注ぐ。注がれた男は一息に飲み干して、どっと仰向けに倒れた。まわりの薩摩藩士が囃《はや》し立てる。
「土佐に負けてどげんすっとな? そげん体《てい》たらくじゃ、伊地知さあに殴打《うったく》らるっど」
「よし、おいが敵《かたく》討っちゃる。土佐、飲み比べじゃ!」
 無理やり手に持たされたそらきゅうに、また酒が注がれる。やいのやいのと騒ぐ薩摩藩士。オレは酒を飲み干す。ひんやりとした喉越しが直後、じわりと灼熱する。甘い芋の匂いが鼻から抜ける。
 新たな飲み比べの相手も、すでに赤い顔をして、呂《ろ》律《れつ》が回っていない。すぐに潰せるだろう。オレは気のいい土佐藩士のふりをして、薩摩の連中に笑い掛ける。
「けんど、戦をしゆうがに毎晩酒が飲めるっちゅうがは豪勢な話じゃ」
 そらきゅうを空にした薩摩藩士が、据わった目をして膝を打った。
「そいは、おはん、毎日おい達《どん》が手柄ば立てちょっでな」
「毎日? そうながや?」
「毎日んごたるもんじゃろ。まず白河ば落とした。あんときはまだ土佐はおらんじゃったな」
「ああ、薩摩の伊地知さんの軍勢だけじゃった」
「五月の頭じゃったどん、あいからしばらく増援の到着せんじゃった。待ち長かったど。土佐は、五月の末にやっと白河に来たじゃろ」
「ほうじゃった。わしら土佐も早う薩摩と合流したかったに」
 オレはもう一杯飲んで、相手にも飲ませる。座にいる薩摩藩士は全員、かなり酔っている。話を聞き出すのは簡単だ。薩摩藩士たちは調子に乗ってべらべらと勝手に口を割る。
「六月に入って、次々と増援が来たど。長州も阿波も来た」
「じゃっどん、おい達《どん》の大将の伊地知正治さあと、おはん達《どん》の大将の板垣退助さあは別格じゃ」
「おう、伊地知さあと板垣さあがおったら、向かうところ敵なしじゃっど」
「会津は弱か! 連中《あいどん》の武器ば見てみれ。関ヶ原のころの鉄砲ば撃っちょる」
「六月中旬に平《ひら》潟《かた》の港、下旬にこの棚倉ば落とした。たやすかったのう」
「奥羽の農民は奥羽の武士ば嫌ぉちょっで、おい達《どん》に内通して手引きする者が後ば絶たん」
「武士同士も嫌い合うちょっど。奥《おう》羽《う》越《えつ》列藩同盟が何じゃ。会津ば救おうち声ば上げても、ちびっと攻むっだけで崩れかかりよる」
「次に落とすとは三春藩と二本松藩じゃっどん、こいもまた、たやすかろう」
「三春は狐じゃ。表では奥羽越によか顔ばしながら、裏では板垣さあと連絡しちょる」
「二本松は弱か。兵の数も少なか。素直に恭順すれば攻めんち、伊地知さあは言いよったどん、どげん結果になるか」
 オレは酒を注いでやりながら、頭に奥羽の地図を描く。
 若松の南の江戸街道と西の越後方面はまだ守りが効いている。まずいのは東だ。若松の東は猪苗代湖が守っているが、猪苗代湖の南はすでに倒幕派に取られている。三春藩と二本松藩を押さえられたら、猪苗代湖の東まで一挙に危うくなる。
 三春や二本松から会津に至る途中には、山並が横たわっている。いくつかの峠《とうげ》道《みち》のうち、倒幕派はどこを進もうと目論んでいるのか。進撃がいつごろになるのか。
 今は七月半ば。田圃の稲穂が頭《こうべ》を垂れて、秋の到来を告げている。倒幕派は雪が降る前に奥羽から撤退したがるだろう。だとすれば、会津には本当に時間がない。
「おい、土佐!」
 呼び掛けられて、慌てて笑顔を繕《つくろ》う。呂律の回らない赤ら顔が、オレに体を預けてきた。
「おはん、まだ飲むけ?」
「いんや、しまいじゃ。わしは板垣さんに呼ばれちゅうき、そろそろ行くがが良《え》いろう」
 オレは薩摩藩士を引き剥《は》がして立ち上がった。引っ繰り返った者も飲み続ける者も、オレにわあわあと吠え掛かる者もいる。
 隙だらけだ。一掃してやろうかと、一瞬思った。結局、猫背を装って頭を下げて、オレは座を辞した。
 棚倉城に潜入するときは、城下の農民にまぎれて野菜を担《かつ》いで蔵に潜り込んだ。番所で警備の当番だった土佐藩士から話を引き出すときは、薩摩藩士のふりをした。そして薩摩藩士との酒盛りでは、土佐の言葉を使った。
 所詮、寄せ集めの連合軍だ。訛りを使い分けるだけで、簡単に付け入ることができる。
 オレの顔立ちもまた、間者として都合がいい。端正だと言われるが、土方さんのように派手な美男子ではない。鼻は低すぎず大きすぎず、歪んでもいない。唇は厚くも薄くもない。特徴が少ないぶん、印象が薄いらしい。どこの藩の生まれだと名乗ってもごまかせる。
 棚倉城は二重の堀と石垣を持つ、こぢんまりとした平城だ。本丸の中央には平屋の館が建つ。館は今、薩摩藩の伊地知正治と土佐藩の板《いた》垣《がき》退《たい》助《すけ》が居城としている。オレが加わった酒盛りは、本丸の櫓《やぐら》の一つでおこなわれていた。
 酒精でいくらか火照った体を、秋の夜風が冷ます。頭の芯は少しも酔わなかった。酔えるはずがなかった。会津は弱い、攻略はたやすいと嘲笑された。押し殺す怒りが、酒に炙《あぶ》られた血さえ凍らせた。
 肥えた月を見上げる。秋の月は黄金色で明るい。美しいよりも不気味だと感じるのは、オレが闇に潜むことに慣れ切ったせいか。
 倒幕派の動き、兵力、武器の様相。おおよその情報は把握した。あとは城外警備の当番が交代するのにまぎれて外に出れば、務めは終わる。
 七月に入って、土方さんが戦線復帰した。今は土方さんが局長だ。オレはこうして使われる立場。このほうが気楽でいい。
 突然。
 背後に立たれていることに気が付いた。オレは足を止めた。ざわりと首筋の毛が逆立つ。
「おんし、一寸《ちっくと》待ちぃや。どこに行くがか?」
 人前で話し慣れた、朗々とした声だ。どこか楽しげにも聞こえる。
 オレの背後で、もう一つ気配が動いた。
「まさかとは思うたどん、本物け?」
 聞き覚えのある声は、はっきりと笑っていた。夜気の中に熱波が膨らむ。
 予感を覚えた。オレは振り返る。炎の塊《かたまり》が眼前に迫っていた。倒れ込んで躱《かわ》す。受け身を取って跳ね起きる。
 手を正面に突き出した伊地知は、赤い環の目を眼帯の下に隠していた。髪は夜目にも赤々と燃え立っている。伊地知は、にたりと笑った。
「また会《お》うたな、斎藤一。二度も自ら敵陣の真ん中に飛び込んでくっとは、大した度胸じゃ。ほんなこつ感心すっど。おいは、少数精鋭の速攻で愚鈍か大軍ば蹴散らす戦術が好っじゃっでな」
 伊地知はゆるゆると手を振った。鞭のように、尾を引く炎がしなう。伊地知の隣に立つもう一人の男は、三十を超えたあたりだろう。面長の顔を、威嚇するような笑みに歪めた。
「ほうか、おんしが新撰組の斎藤一か。良《え》い面構えじゃ。目が炯々《けいけい》としちゅう」
「こん男は手強かど、板垣さあ。おはんと同じ蒼か環の持ち主じゃっでな」
 伊地知の言葉に、オレはその男の刀を凝視した。短髪に洋装だが、腰は武家の二本差しだ。鍔《つば》で力を押さえていても、太刀は異様な気迫を放っている。値打ち物の脇差が霞《かす》んで消えそうなほどに。
 男がその刀に手を掛けた。右の肩口に環があって騒いでいるのが、シャツ越しにも感じ取れる。
 オレの左手の甲で環がざわざわと脈打って告げる。退却せよ。二人を相手取っては勝てない。
 男は刀を抜いた。曇りのない刃が、月と篝火と伊地知の炎の光をまとって赤く燃える。男は切っ先をオレに向けた。
「京都で見《まみ》える機会はなかったき、おんしはわしを知らんろう。わしゃあ土佐藩上士の家の出じゃけんど、昔から一貫して武力倒幕を唱えちょった。土佐では公武合体が主流でのう、一時は土佐を追い出されもしたもんぜよ」
 じりじりと、男が間合いを詰めてくる。伊地知もオレの側面に回ろうとする。その気になれば逃げられる距離。だが、オレは敢《あ》えて留まった。
「板垣退助、オレはあんたを知らんわけじゃない。今年の三月、甲州かつ沼《ぬま》の戦でオレたち新撰組を破ったのはあんたの軍勢だ」
 情報がほしい。一つでも多く聞き出して、持って帰りたい。
 板垣は哄笑した。
「おんしらには気の毒なほどの圧勝じゃったのう。劣勢やががわかっちゅうても戦いを挑む心意気は買うちゃるけんど、喧嘩は勝たねばつまらんぜよ」
「会津が相手の喧嘩も、勝てると踏んでいるからか?」
「ほんだら問うけんど、おんし、会津がこの喧嘩に勝つと思っちゅうがか?」
 オレは唇を噛んだ。
 板垣が剣先を振って挑発してくる。伊地知が炎を揺らめかせてオレを嘲《あざけ》った。
「斎藤、答えられんじゃろ。自分《わが》どん、わかっちょっとじゃ。会津はこん戦に勝てん」
「……だったら何だ?」
「惜しか! おい達《どん》は、おはんちいう人間ば惜しんじょる。おはん、何《な》して会津に肩入れすっとじゃ? おはんのごて能のある者ば幕府とともに滅ぼすとは、わっぜ惜しか」
「あんたに惜しまれる筋合いはない」
 板垣が踏み込む。奥まった両眼が、ぎらぎらと輝いている。
「刀を交える前に訊いちゃろう。おんし、わしらに附く気はないがか? 明治政府は、おんしを冷遇しやせん。軍属の高い地位に就けちゃるぜよ」
 もう一歩踏み込まれれば、板垣の刀はオレに届く。オレはまっすぐ立ったまま、板垣と伊地知を順に見据えた。
「断る。オレは会津に命運を捧げる」
「残念じゃのう。わしらはこれから会津を滅ぼす。おんしも会津とともに滅ぶっちゅうことじゃ!」
 板垣が気迫の声を放って飛び込んできた。渾身の刺突。目の隅では伊地知の炎が膨れ上がる。
 オレは体を沈めた。右の上腕を盾に、板垣の刺突を受け流す。上腕をかすめた切っ先が袖を裂いた。内側に仕込んだ術式の袖章もろともに。
 投げ出される心地。体が宙に浮いて、暗転。
 殺気が掻き消えた。いや、消えたのはオレのほうだ。
 虫の音が聞こえた。頭を振って目を開ける。
「斎藤さま……」
 時尾が、へなへなと座り込んだ。縁で座禅を組んでいた土方さんが顔を上げて微笑んだ。
 猪苗代湖の南、白河街道の福《ふく》良《ら》宿《じゅく》。土方さんと合流した新撰組は、ここで待機を命じられている。次に向かうべきは、三春か二本松か。棚倉で聞き出した話をもとに、最良の判断を下さなければならない。
 伊地知正治と板垣退助。あの二人は、まずい。
 環がまだ熱く脈打っている。その環のある手で右腕を押さえた。血の感触がある。深手ではない。

 七月二十六日、あの酒の席で薩摩藩士が噂していたとおり、三春藩が倒幕派に降《くだ》った。
 七月二十九日、老兵や少年兵による悲愴な激戦の末、二本松藩が敗北、落城した。
 伊地知と板垣の率いる倒幕派の軍勢は、猪苗代湖の南と東を完全に掌握した。仙台藩も米沢藩も威圧されて身動きを封じられている。
 秋八月。刈り取られたばかりの稲を、倒幕派が買い占めていく。倒幕派の軍勢は三春藩を拠点に、続々と集結している。
 間もなく若松に火の粉が降りかかる。止めなくてはならない。
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