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一
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なんと華やかに烈しい死に様であったかと、長岡忠興の胸は焦がれんばかりに熱く震える。二十歳の忠興は、二人の先達が命を散らして半年が経った今もなお、彼らの幕引きに思いを馳せては、ひたむきな憧憬を募らせる。いつか死すとき、俺も斯くありたい。
天正十年(一五八二年)六月二日、洛中は本能寺にて織田信長が死んだ。腹心の家臣、明智光秀に討たれてのことである。
その明智光秀もまた、信長に遅れること十三日、山城国大山崎にて羽柴秀吉の軍に敗れ、近江国坂本へ落ち延びるさなか、山城国小栗栖の山中で土民に討たれて死んだ。
日本中、天地が覆ろうかという大騒ぎである。信長は強大だった。天下を手中に収めるのも時間の問題だった。ところが、その巨星が不意を打たれて堕ちた。信長死すの報が広まるや、慟哭と悲嘆、打算と策略が天下にあふれ返った。
巨星を明け方の薄闇に葬ったのが明智日向守光秀であったという事実にまた、誰もが衝撃を受けた。
あの織田軍きっての忠義者と称賛された男が主君に弓引こうとは、と憤る者がいた。あの目立たぬ男のどこに謀反を起こす覇気などあったのか、と眉をひそめる者もいた。あの不気味なまでに賢明な男がなぜ三日天下の愚行を為したのか、と首をかしげる者もいた。
忠興は一人、動転する者たちを憐れんでいる。やはり、信長と光秀の間に交わされた真の君臣水魚に気付いたのは、忠興だけなのだ。
そう、珠でさえ、何ら気取ってはいなかった。忠興は、誰よりも聡明な愛妻を前に、得意になった。
先だって、珠の住まう味土野の山奥を訪ねた際である。珠は光秀の娘だ。天下の前に姿を現せば、たちまち命を狙われるだろう。珠の居所を知り、珠を独占しているのは、忠興ただひとりである。
忠興は珠を閨に押し倒しながら語り聞かせた。
「御館様と義父上様は、初めから、その結末を思うておられたのだ。御館様は此度、確かに不意を打たれなさった格好となった。しかしその実、義父上の軍を誘い寄せたのは御館様御自身だったに違いない」
小袖を掻き分けて珠の白い肌を吸えば、鮮やかに赤い花が咲いた。子を二人産んだ珠の体はようよう熟れ始め、もっちりと甘く香って、忠興の肉欲を煽る。珠は震える吐息を呑み、忠興に冷たく応えた。
「意図がどうあろうと、父の振る舞いは造反、それ以外の何者でもありませぬ。罪は罪でございましょう。明智の血は子々孫々まで逆賊と貶《おとし》められます。なぜ、御前様は……」
ああ、と女の鳴き声をあげて、珠は賢しげな言葉を途切らせた。
「俺が何か?」
「……殺しなさい」
逆賊たる明智の者を生かすべきではないと、珠その人が再三、忠興の前で繰り返すのである。珠は光秀の子らの中でも殊のほか才気に恵まれ、父に愛されていた。
「俺に珠を殺せと?」
「ええ。殺して首を取り、逆賊の血を滅ぼしたと天下に誇りなさい」
珠は、融け落ちそうな嬌態をちらつかせつつも、凛然と言い放った。
殺す、か。俺が珠を殺すのか。それを想像すると、甘い昂ぶりが忠興の体の奥に沸き起こる。返り血のぬくもりは、珠の体内の潤う熱に似ている。それらはどちらも、無上の興奮をもたらすものだ。
「殺してくれようか」
口に出すと、獣の衝動が加速した。珠を貫く。閨の刀は己の一物である。珠が声を上げる。白く細い喉に惹かれ、歯を立てる。このまま噛み裂いて、溢れ出る血を飲み干してやりたい。
「殺しなさい」
ああ、珠よ、何と聡く恐ろしい女だ。わずか一言で、たやすく俺を狂わせる。
忠興は、ただ愛欲のままに暴れた。意識が赤く燃え、後はもう覚えていない。貪るように珠の体を堪能し、果てて、崩れ落ちて眠った。
目を醒ませば、全身に鬱血の痕を残した珠が髪を乱して寝息を立てていた。
長岡家は、もとは細川姓を名乗っていた。足利将軍に仕える名家、細川氏の系譜を引いている。
忠興が十を出た頃、信長が軍勢を引き連れて上洛し、時の将軍、足利義昭を京都から追放した。内通者がいればこそ、事は速やかに成った。義昭の言動を探っては信長に逐一報じていたのが、忠興の父の藤孝である。
功績を認められ、藤孝は信長から山城国長岡の知行を許された。以後、藤孝と忠興は信長への恭順を示すべく、長岡の姓を名乗っている。
忠興の初陣は十五歳の頃である。元服を迎える前のことで、忠興は与一郎という幼名で呼ばれていた。天正五年(一五七七年)、織田軍の紀州征伐に、父、藤孝とともに馳せ参じた。
忠興は無我夢中で槍を振るった。敵兵の血の海を作った。武功を挙げた。味方はこぞって忠興を称賛した。
父だけが忠興を称賛しなかった。藤孝は地味な眉目をますます曇らせ、小言めいた口調でつぶやいた。
「血気に逸るばかりで、よろしくない」
忠興には解せなかった。なぜよろしくないのか。より多くの敵を殺せばよいではないか。父は、顔立ちだけでなく性根まで地味な男だ。つまらない男だ。
藤孝のことを、忠興は子供の頃から好いていない。自分には長岡家とは別の血が流れているのではないかと、十五歳の忠興は、半ば本気で思う。忠興の顔立ちは両親に似ず、晴れやかに整っており、気性もまた苛烈で勇ましいのだ。
理想の父として忠興が思い描くのは、織田信長の姿である。かつて忠興は、上洛した信長の晴れ姿を、遠くからではあったが目撃した。おお、と思わず声が漏れた。それほどに衝撃を受けた。
信長は、忠興の父、藤孝と同年の生まれだ。しかし信長は、皺ぶいて枯れかけた父とはまるで違っていた。
猛烈な覇気と、あでやかな装い。一挙手一投足はもちろん、まなざしやうなずきの一つに至るまで、武神の舞のごとく力強く且つ華やかだった。信長はただそこにいるだけで、まさしく我こそが天下人となるべき男なのだと、声高に証すかのようだった。
その信長が、忠興の我武者羅な初陣の様子を耳目に入れたらしい。
「与一郎よ、前髪姿からは及びも付かぬ、勇猛な戦ぶりだったそうではないか。今後に期待しておるぞ」
信長の言葉を伝え聞いた忠興の胸に誇らしさが燃えた。信長への憧れが募り、忠義という言葉の意味を悟った。御館様のために命を懸けねばならぬ。次の戦いではより大きな武功を挙げねばならぬ。忠興は固く心に決めた。
果たして、初陣より半年ほど後に参じた信貴山城の戦いでは、信長から直々の感謝状を賜うほどに、忠興は活躍した。忠興の右の額に残る傷も、この戦いで拵えた誉れである。
翌年、十六歳の忠興は元服した。忠興の名を使い始めたのもこのときだった。
「忠」の字は、織田家嫡男、信忠の偏諱である。信長によって「忠」の字を許され与えられた忠興は、自身が織田家と同化したかのように感じた。信長こそが真の父ではないかと、恋い焦がれるがごとく崇拝し、恭順した。
信長という烈しい存在に心を奪われた同じ頃、忠興はもう一人、彼が我が父であればと憧れる男に出会った。それが明智光秀である。
光秀は、忠興の父、藤孝と古くから親交があった。先に信長に仕えたのが藤孝で、光秀は藤孝の斡旋によって信長との面識を得たという。それが永禄八年(一五六八年)のことだから、忠興がほんの幼児だった時分の話だ。
信長は見るからに鮮烈な存在であるのに対して、光秀の真価を知るためには、対面して言葉を交わす必要があった。初め忠興は、光秀のことを舐めてかかっていた。藤孝の旧友なのだ、どうせあの冴えない父と同程度の男だろうと高をくくっていたのだ。
忠興の初陣をひっそりと称賛したのが光秀であった。次いで信貴山城の戦いで、忠興は光秀の怜悧な陣頭指揮を目の当たりにし、強く感銘を受けた。
一人の将帥が斯くも自在に兵力を動かし得るものなのか。まるで己の手足のようではないか。光秀は、徹底して効率的に敵軍を殲滅した。聞けば、六年前の比叡山延暦寺の焼打ちで采配を振るったのも光秀であったという。
光秀は多くを語らない。静かな男である。口下手というわけではない。軍略でも詩歌でも政治でも茶の湯でも、口を開いて論ずべき場面では大いに弁を振るい、それがまた整然として筋道立っている。
彼もまた烈しい男だと、忠興は感じた。光秀は、信長とは違った烈しさを胸に秘めている。信長の烈しさが炎であるなら、光秀の烈しさは氷である。
日向守様が俺の父なら、と忠興は光秀当人の前で口走ったことがある。どういった場面だったか、しかとは覚えていない。ただ、光秀の形良く禿げ上がった額が酒精のためにつやつやと赤らんでいた。そういう席ではあった。
藤孝との旧交を懐かしげに語る光秀に、忠興は、俺は父と似ていないし父を好いてもいないのだ、と漏らした。光秀は忠興の言葉に、そのときは静かに微笑んだだけだった。
思うに、光秀は忠興の発言を気に留めてくれたのではないか。なぜなら、信貴山城の戦いの翌年、忠興が十七歳のとき、光秀が忠興の「父」になったのである。
忠興は、光秀の三女である珠と夫婦となった。長岡家と明智家の縁組を仲介したのは、忠興が敬愛してやまない信長だった。
無論、忠興はただならぬ感銘を受けた。この縁は大切にせねばならないと、これ以上ないほど用心した。恐れたと言ってもよい。
が、嫁いできた珠の顔を一瞥するなり、用心など不要だったと悟った。いわゆる一目惚れである。珠は美しかった。その美しさは、単なる姿かたちの優良さにとどまらず、むしろ内面からあふれ出る烈《はげ》しさによって冴え渡る種類のものだった。
忠興は、珠ほど手ごわい目をした女を知らなかった。忠興は興奮し、また慄然とした。珠の全てを手に入れるための戦を、これから珠に挑まねばならない。女の体を落とすことはできよう。ただ、珠の心を奪い支配することはきっと、途轍もなく難しい。
珠は聡明だった。男の忠興に並ぶほどに、あるいはそれ以上に学問に通じ、知識に富み、弁が立ち、とりわけ人々のしがらみが織りなす綾を読むことに長けていた。
といっても、珠は表舞台に立ちたがるでもない。淡々として世の動きを見据えては、夫の忠興を前に容赦のない言葉を吐く。
「御前様は狂うておられますね。虐げられる長岡の民が気の毒です」
珠が輿入れをした先が、山城国長岡の勝竜寺城だった。輿入れから二年ほどを勝竜寺城で過ごし、藤孝の転封に伴って、忠興と珠も丹後国宮津へと居を移した。珠が労いと憐れみを向ける相手も、宮津の民へと変わった。
忠興には、珠の言い草が不満である。忠興は民を虐げたことなどない。藤孝は、内政だの治水だのといった方面には評価が高い。そのやり方を真似るだけでよいのだから、知行の補佐など簡単なことだ。長岡でも宮津でも、大きな問題など起こっていない。
問題があるとすれば、ただ一点、珠に対する下民らの無礼である。不届きな民が後を絶たぬのだ。
下男も庭師も僧侶も、珠の姿が視界に入るや、ねっとりと絡み付く目をする。あれは珠を視姦する目だ。色づいた唇やしなやかな首筋に見とれては、小袖の下の柔肌を、甘く喘ぐ吐息を、熱く濡れた女陰を、あえかに果てる姿を、彼奴らは思い描いている。
例えそれが下民の妄想の中であっても、珠がほかの男に穢される姿がこの世に存在することに、忠興は耐えられない。珠を見つめ珠に触れ珠を抱いてよいのは、忠興ただひとりなのだ。
ある日、食事中、庭師が珠を見ていた。それに気付いた瞬間、忠興の腹の底に猛烈な熱が生まれた。無礼者、と怒鳴った。炎のごとく燃える怒りに呑まれ、興奮に身を預けると、時が飛んだ。
両腕に快い手応えがあった。紅色が噴き上がった。
忠興は抜身の刀を提げ、返り血を浴びて立っている。足元には手打ちにした不届き者の死骸が転がっている。首を巡らせれば、かすかに眉をひそめた珠が冷ややかなまなざしをこちらへ寄越している。
ひぃっ、と下女が悲鳴をあげた。たまたま給仕のために来たところ、忠興が庭師を斬るところを目撃したらしい。忠興は死骸を片付けさせようとした。珠がそれを制した。
「目に入れずともよい。行きなさい」
下女は這う這うの体で逃げ出した。転がされた首は、忠興が異臭に耐えられなくなるまで、そのままだった。珠は平然としていた。蛇のような女だと言ったら、鬼のように狂うた夫には蛇くらいがちょうどよいと返された。珠は烈しい女なのだ。ゆえに美しい。
天正十年(一五八二年)六月二日、洛中は本能寺にて織田信長が死んだ。腹心の家臣、明智光秀に討たれてのことである。
その明智光秀もまた、信長に遅れること十三日、山城国大山崎にて羽柴秀吉の軍に敗れ、近江国坂本へ落ち延びるさなか、山城国小栗栖の山中で土民に討たれて死んだ。
日本中、天地が覆ろうかという大騒ぎである。信長は強大だった。天下を手中に収めるのも時間の問題だった。ところが、その巨星が不意を打たれて堕ちた。信長死すの報が広まるや、慟哭と悲嘆、打算と策略が天下にあふれ返った。
巨星を明け方の薄闇に葬ったのが明智日向守光秀であったという事実にまた、誰もが衝撃を受けた。
あの織田軍きっての忠義者と称賛された男が主君に弓引こうとは、と憤る者がいた。あの目立たぬ男のどこに謀反を起こす覇気などあったのか、と眉をひそめる者もいた。あの不気味なまでに賢明な男がなぜ三日天下の愚行を為したのか、と首をかしげる者もいた。
忠興は一人、動転する者たちを憐れんでいる。やはり、信長と光秀の間に交わされた真の君臣水魚に気付いたのは、忠興だけなのだ。
そう、珠でさえ、何ら気取ってはいなかった。忠興は、誰よりも聡明な愛妻を前に、得意になった。
先だって、珠の住まう味土野の山奥を訪ねた際である。珠は光秀の娘だ。天下の前に姿を現せば、たちまち命を狙われるだろう。珠の居所を知り、珠を独占しているのは、忠興ただひとりである。
忠興は珠を閨に押し倒しながら語り聞かせた。
「御館様と義父上様は、初めから、その結末を思うておられたのだ。御館様は此度、確かに不意を打たれなさった格好となった。しかしその実、義父上の軍を誘い寄せたのは御館様御自身だったに違いない」
小袖を掻き分けて珠の白い肌を吸えば、鮮やかに赤い花が咲いた。子を二人産んだ珠の体はようよう熟れ始め、もっちりと甘く香って、忠興の肉欲を煽る。珠は震える吐息を呑み、忠興に冷たく応えた。
「意図がどうあろうと、父の振る舞いは造反、それ以外の何者でもありませぬ。罪は罪でございましょう。明智の血は子々孫々まで逆賊と貶《おとし》められます。なぜ、御前様は……」
ああ、と女の鳴き声をあげて、珠は賢しげな言葉を途切らせた。
「俺が何か?」
「……殺しなさい」
逆賊たる明智の者を生かすべきではないと、珠その人が再三、忠興の前で繰り返すのである。珠は光秀の子らの中でも殊のほか才気に恵まれ、父に愛されていた。
「俺に珠を殺せと?」
「ええ。殺して首を取り、逆賊の血を滅ぼしたと天下に誇りなさい」
珠は、融け落ちそうな嬌態をちらつかせつつも、凛然と言い放った。
殺す、か。俺が珠を殺すのか。それを想像すると、甘い昂ぶりが忠興の体の奥に沸き起こる。返り血のぬくもりは、珠の体内の潤う熱に似ている。それらはどちらも、無上の興奮をもたらすものだ。
「殺してくれようか」
口に出すと、獣の衝動が加速した。珠を貫く。閨の刀は己の一物である。珠が声を上げる。白く細い喉に惹かれ、歯を立てる。このまま噛み裂いて、溢れ出る血を飲み干してやりたい。
「殺しなさい」
ああ、珠よ、何と聡く恐ろしい女だ。わずか一言で、たやすく俺を狂わせる。
忠興は、ただ愛欲のままに暴れた。意識が赤く燃え、後はもう覚えていない。貪るように珠の体を堪能し、果てて、崩れ落ちて眠った。
目を醒ませば、全身に鬱血の痕を残した珠が髪を乱して寝息を立てていた。
長岡家は、もとは細川姓を名乗っていた。足利将軍に仕える名家、細川氏の系譜を引いている。
忠興が十を出た頃、信長が軍勢を引き連れて上洛し、時の将軍、足利義昭を京都から追放した。内通者がいればこそ、事は速やかに成った。義昭の言動を探っては信長に逐一報じていたのが、忠興の父の藤孝である。
功績を認められ、藤孝は信長から山城国長岡の知行を許された。以後、藤孝と忠興は信長への恭順を示すべく、長岡の姓を名乗っている。
忠興の初陣は十五歳の頃である。元服を迎える前のことで、忠興は与一郎という幼名で呼ばれていた。天正五年(一五七七年)、織田軍の紀州征伐に、父、藤孝とともに馳せ参じた。
忠興は無我夢中で槍を振るった。敵兵の血の海を作った。武功を挙げた。味方はこぞって忠興を称賛した。
父だけが忠興を称賛しなかった。藤孝は地味な眉目をますます曇らせ、小言めいた口調でつぶやいた。
「血気に逸るばかりで、よろしくない」
忠興には解せなかった。なぜよろしくないのか。より多くの敵を殺せばよいではないか。父は、顔立ちだけでなく性根まで地味な男だ。つまらない男だ。
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信長は、忠興の父、藤孝と同年の生まれだ。しかし信長は、皺ぶいて枯れかけた父とはまるで違っていた。
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「与一郎よ、前髪姿からは及びも付かぬ、勇猛な戦ぶりだったそうではないか。今後に期待しておるぞ」
信長の言葉を伝え聞いた忠興の胸に誇らしさが燃えた。信長への憧れが募り、忠義という言葉の意味を悟った。御館様のために命を懸けねばならぬ。次の戦いではより大きな武功を挙げねばならぬ。忠興は固く心に決めた。
果たして、初陣より半年ほど後に参じた信貴山城の戦いでは、信長から直々の感謝状を賜うほどに、忠興は活躍した。忠興の右の額に残る傷も、この戦いで拵えた誉れである。
翌年、十六歳の忠興は元服した。忠興の名を使い始めたのもこのときだった。
「忠」の字は、織田家嫡男、信忠の偏諱である。信長によって「忠」の字を許され与えられた忠興は、自身が織田家と同化したかのように感じた。信長こそが真の父ではないかと、恋い焦がれるがごとく崇拝し、恭順した。
信長という烈しい存在に心を奪われた同じ頃、忠興はもう一人、彼が我が父であればと憧れる男に出会った。それが明智光秀である。
光秀は、忠興の父、藤孝と古くから親交があった。先に信長に仕えたのが藤孝で、光秀は藤孝の斡旋によって信長との面識を得たという。それが永禄八年(一五六八年)のことだから、忠興がほんの幼児だった時分の話だ。
信長は見るからに鮮烈な存在であるのに対して、光秀の真価を知るためには、対面して言葉を交わす必要があった。初め忠興は、光秀のことを舐めてかかっていた。藤孝の旧友なのだ、どうせあの冴えない父と同程度の男だろうと高をくくっていたのだ。
忠興の初陣をひっそりと称賛したのが光秀であった。次いで信貴山城の戦いで、忠興は光秀の怜悧な陣頭指揮を目の当たりにし、強く感銘を受けた。
一人の将帥が斯くも自在に兵力を動かし得るものなのか。まるで己の手足のようではないか。光秀は、徹底して効率的に敵軍を殲滅した。聞けば、六年前の比叡山延暦寺の焼打ちで采配を振るったのも光秀であったという。
光秀は多くを語らない。静かな男である。口下手というわけではない。軍略でも詩歌でも政治でも茶の湯でも、口を開いて論ずべき場面では大いに弁を振るい、それがまた整然として筋道立っている。
彼もまた烈しい男だと、忠興は感じた。光秀は、信長とは違った烈しさを胸に秘めている。信長の烈しさが炎であるなら、光秀の烈しさは氷である。
日向守様が俺の父なら、と忠興は光秀当人の前で口走ったことがある。どういった場面だったか、しかとは覚えていない。ただ、光秀の形良く禿げ上がった額が酒精のためにつやつやと赤らんでいた。そういう席ではあった。
藤孝との旧交を懐かしげに語る光秀に、忠興は、俺は父と似ていないし父を好いてもいないのだ、と漏らした。光秀は忠興の言葉に、そのときは静かに微笑んだだけだった。
思うに、光秀は忠興の発言を気に留めてくれたのではないか。なぜなら、信貴山城の戦いの翌年、忠興が十七歳のとき、光秀が忠興の「父」になったのである。
忠興は、光秀の三女である珠と夫婦となった。長岡家と明智家の縁組を仲介したのは、忠興が敬愛してやまない信長だった。
無論、忠興はただならぬ感銘を受けた。この縁は大切にせねばならないと、これ以上ないほど用心した。恐れたと言ってもよい。
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珠は聡明だった。男の忠興に並ぶほどに、あるいはそれ以上に学問に通じ、知識に富み、弁が立ち、とりわけ人々のしがらみが織りなす綾を読むことに長けていた。
といっても、珠は表舞台に立ちたがるでもない。淡々として世の動きを見据えては、夫の忠興を前に容赦のない言葉を吐く。
「御前様は狂うておられますね。虐げられる長岡の民が気の毒です」
珠が輿入れをした先が、山城国長岡の勝竜寺城だった。輿入れから二年ほどを勝竜寺城で過ごし、藤孝の転封に伴って、忠興と珠も丹後国宮津へと居を移した。珠が労いと憐れみを向ける相手も、宮津の民へと変わった。
忠興には、珠の言い草が不満である。忠興は民を虐げたことなどない。藤孝は、内政だの治水だのといった方面には評価が高い。そのやり方を真似るだけでよいのだから、知行の補佐など簡単なことだ。長岡でも宮津でも、大きな問題など起こっていない。
問題があるとすれば、ただ一点、珠に対する下民らの無礼である。不届きな民が後を絶たぬのだ。
下男も庭師も僧侶も、珠の姿が視界に入るや、ねっとりと絡み付く目をする。あれは珠を視姦する目だ。色づいた唇やしなやかな首筋に見とれては、小袖の下の柔肌を、甘く喘ぐ吐息を、熱く濡れた女陰を、あえかに果てる姿を、彼奴らは思い描いている。
例えそれが下民の妄想の中であっても、珠がほかの男に穢される姿がこの世に存在することに、忠興は耐えられない。珠を見つめ珠に触れ珠を抱いてよいのは、忠興ただひとりなのだ。
ある日、食事中、庭師が珠を見ていた。それに気付いた瞬間、忠興の腹の底に猛烈な熱が生まれた。無礼者、と怒鳴った。炎のごとく燃える怒りに呑まれ、興奮に身を預けると、時が飛んだ。
両腕に快い手応えがあった。紅色が噴き上がった。
忠興は抜身の刀を提げ、返り血を浴びて立っている。足元には手打ちにした不届き者の死骸が転がっている。首を巡らせれば、かすかに眉をひそめた珠が冷ややかなまなざしをこちらへ寄越している。
ひぃっ、と下女が悲鳴をあげた。たまたま給仕のために来たところ、忠興が庭師を斬るところを目撃したらしい。忠興は死骸を片付けさせようとした。珠がそれを制した。
「目に入れずともよい。行きなさい」
下女は這う這うの体で逃げ出した。転がされた首は、忠興が異臭に耐えられなくなるまで、そのままだった。珠は平然としていた。蛇のような女だと言ったら、鬼のように狂うた夫には蛇くらいがちょうどよいと返された。珠は烈しい女なのだ。ゆえに美しい。
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