花束のありがとう

篠宮 京

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第10話 ドーナツの味

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 時々、思い出したように湧いてくる怪談は、夜勤の時の話の種だ。
 使っていない部屋に灯りがついていただの、物陰に人の気配がしたから見に行ったら誰もいなかっただの、後から考えたら気のせいではないのかしらと思うようなことを、面白おかしく広める人がいる。スタッフにも利用者にも、その手の話が好きな輩は一定数存在しているようで、時折、思い出したようにそんな話が密かに囁かれることがある。
 居宅エリアにある2A号室にもそんな噂が付いて回っている。
 部屋の前を通りがかった利用者がドアの隙間から中を覗くと白い影が窓際に立っていたという噂話が先日からまことしやかに囁かれている。特にスタッフの間では、その部屋のドアが勝手に開いてしまうのだともっともらしく言うものだから、中には夜勤を嫌がる人も出てくる始末で。
 かく言う私も、あまりこの手の話は得意ではない。
 いいや、はっきり言おう。好きではないのだ、こういう話は。苦手……というか、嫌いというか。
 とにかく、こういう話がひとたび湧いて出てくると、くだんの部屋の前を通るどころか、該当のフロアを歩くことすら怖くてたまらなくなってしまう。
 しかも。
 今夜、わたしはその2A号室のあるフロアの夜勤を担当することになっている。
 最悪だ。
 本っっ当に、最悪だ。
 よりにもよってこんな時に夜勤だなんて。
 しかも、2A号室のあるフロアに当たるだなんて。
 ギリギリまで誰か代わってくれないだろうかと交渉に交渉を重ねてみたけれど、誰も代わってはくれなかった。皆、こういう時には意外と冷たいのだ。
 仕事だから仕方がないと自分に言い聞かせてわたしは、勤務に就いた。
 いつも通り、時間は過ぎていく。
 やるべきことを淡々とこなし、順番に利用者の様子を確認していく。
 消灯までの時間は特に問題はなかった。
 消灯後すぐも、特に何もなかった。
 気付いたのは、仮眠の時間中のことだった。
 仮眠室のドアが、知らない間に空いているのだ。
 最初はスタッフの誰かが用事があって来たのかと思ったけれど、そうではなかった。
 それでは利用者がしたのだろうかと考えたのだけれど、利用者が仮眠室にまでやって来るはずがなかった。利用者ひとり一人が呼び出し用のベルを持っている。用があったらベルを鳴らすのが通例だろう。
 開いたドアを閉めるとわたしは再び仮眠室の硬いベッドに横になる。
 次の巡回までまだ時間がある。それまでは体力を温存すべく再び目を閉じる。
 ウトウトとしながらも、先程の事があるからなかなか眠ることができない。毛布を被りじっと横になっていると、静まり返った仮眠室に羽虫の立てる音や、どこかで誰かがトイレを使う微かな音が聞こえてくる。
 しばらく目を閉じてウトウトしていると、カタと音がする。ドアの開く音だ。
 目を開け、起き上がると同時にわたしはドアのほうへと視線を向ける。
 半開きになったドアと、その向こうの静かな空間にわたしの背筋がゾクゾクとして、嫌な気配を感じ取る。
 ドアが開いているのに、その向こうの廊下には誰もいない。
 誰も。
「ヒッ」
 と、喉の奥から声が漏れ、その声を耳にしたためかさらに恐怖心が増大する。
 何もないのに。
 この部屋の向こうには廊下があって、この時間は利用者は皆眠っているはずだから、誰かが廊下に立っているなんてことはないのに。
 ただドアが開いているだけ。
 きっと、風か何かでドアが動いたのだ。
 何もいない。
 ここにも、あそこにも、何もいない。
 わたしは恐怖心からか、わざとバタバタと足音を立ててドアを閉めに行く。
 パタン、とドアが閉まるとホッとする。
 くるりと体の向きを変えて仮眠用のベッドに戻るとまた横になる。
 眠らなきゃ。
 目を閉じて、怖くない怖くない、と口の中で唱える。
 早く眠らなきゃ。
 そして早く、朝になれ!
 目を閉じて、ウトウトする。ああ、やっと眠れる。そう思ったところで再びカタ、と音がした。
 ああ、またドアが開いた……。
 目を閉じてしばらくじっとしていたけれど、とうとう我慢できなくなってわたしは目を開ける。
 やはりドアは開いている。
「うう~、最悪」
 呟いて、ドアを閉めに行く。
 なんで開いてしまうのだろう。
 ドアさえ開かなければ、怖くなんてないのに。
「もうっ!」
 怖いのを吹き飛ばすつもりでわたしは声に出して呟いた。
「なんで開いちゃうかな、このドアは」
 バタバタと足音を立ててドアを閉めに行く。
 バン、と少し強めに音を立ててドアを閉めると同時に電話が鳴った。
 一回、二回、三回……コール三回目で音が途切れる。
 別のフロアで夜勤についているスタッフが電話に出たようだ。電話機の外線ランプがちかちか点滅している。
 ホッとしてベッドに戻ろうとしたところで、内線が鳴る。
 すかさずわたしは受話器を手にしていた。
「はい、二階仮眠室」
 三階の夜勤は名尾さんだった。
「ああ、仮眠中にごめんね、のぞみさん」
「いえ、ちょうど起きてましたから」
「今かかってきた電話なんだけど」
 名尾さんの落ち着いた声にわたしは理由もなくホッとしていた。
 次の言葉を耳にするまでは。
「……さんが、……っ…て……」
 え?
「もう一度言ってもらえますか、聞き取れなかったので」
 ええ?
 どういうこと?
「だからね、翠光園にいる長田さんが誤嚥性肺炎で……」
 長田さんは以前、このふるさと園に入所していた利用者だ。認知症が進んだため、看取りのある別の施設に転所していったのだ。
 もっとも、今回のことはありえない話ではなかった。
 現にこのふるさと園にいる間にも、誤嚥性肺炎で入院したことがあったのだから。
「本当……ですか?」
 尋ねると、名尾さんは深い溜息をつきながら「本当だよ」と返してきた。
 嘘、だ。
 信じたくない気持ちと、しかたがないという気持ちとが、同時に込み上げてくる。
「長田さんね、希さんとドーナツを食べに行くんだって最期に言ったみたいだよ」
 ああ……キヨさん。
 なんて……なんて食いしん坊なのかしら、キヨさんたら。
 わたしの目に涙が滲んだ。
 こんなに悲しいことってあるかしら。
 キヨさんの、あの優しい笑顔をもう二度と見ることができないのだと思うと、涙が溢れてきて止まらない。
 受話器を握りしめたままわたしはしばらくの間、子どものように泣きじゃくっていた。
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