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110 山颪(やまおろし)
しおりを挟む俺は自分が得た情報を、集落の長に直接伝えるのではなくて、まずはリリンに話しをする。ただでさえ混乱しているところに、いきなり余所者が首を突っ込んだところで、ややこしくなるとの判断から。
すると彼女は真っ青になり「そんな、もうすぐ山颪が吹く時期なのに」とつぶやいたきり絶句する。
山颪(やまおろし)とは、山の天辺から麓へと向けて吹く強風のこと。
この地方特有の季節の風物詩みたいなものにて、数日間は突風と舞いあがる砂塵に悩まされ、洗濯物を干すこともままならなくなる。うっかり窓や扉を閉め忘れようものならば、家の中がたちまち土ホコリだらけになるから注意が必要。
慮骸アカシオは風の向くままに動く。
ちょうど山の頂き付近に漂っているところに、そんな風が吹けばどうなるのかなんて言わずもがな。
だからこそ山の生き物たちはこぞって逃げ出し、氾濫を誘発しているのだ。
リリンを通じて慮骸アカシオの存在を知った集落の住人たち。
もはや多数決をとるまでもなかった。
長の号令一下、すぐさま避難のための準備に入った。
◇
持ち出すのは金銭や身の回りの品などの、必要最低限のみ。
貴重品などは家の地下にある蔵か、床下の隠し金庫などに収納。なければ地面に穴を掘って埋める、あるいは井戸に放り込み封をするなどで処理。
これで生き残れたらあとで掘り出せるという寸法。どさくさに紛れて活動する火事場泥棒対策にもなる。
ガロン家の遺児であるリリン嬢は、弓と矢筒に革製の四角い手提げ鞄がひとつきり。
彼女の従者であるウタカは甲冑を身に着け、愛用の剣を帯刀した以外は、荷袋のみという旅装。
ふたりともに若い娘にしてはやたらと荷物が少ないのは、はなから余分な物は貯め込まない性分のためとのこと。じつにあっさりとしたものである。
二人を俺の荷車にて運ぶにしても、荷台にはまだかなり余裕がある。
そこで他の住人たちも預かることにする。
集落中からかき集めた荷車十台に分乗し、乗り切れない者は徒歩にて。みなが列をなし集落を出たのは日暮れ前のこと。
いかに旧街道沿いとはいえ、夜間の移動はかなり危険をともなうので、出来れば朝を待ちたかったのだが、長は「すぐに行こう」と決断する。
結果として、彼の決断は正しかった。
◇
みな押し黙ったまま。なのにやたらと瞳をギラつかせている沈黙の行進。
徒歩組が疲れて遅れがちになると、すぐさま荷車組と入れ替わっては、ひたすら前へ前へと。一路、避難場所である都市アジエンを目指す。
先触れとして、若いのを馬で先行させている。念のために俺が書いた手紙も持たせた。先のカキンチャクでの失敗もあるから、ちゃんと対処してくれるはず。
俺と相棒のメロウだけであれば集落と都市アジエンの間は一日程度の距離。だが、女子どもに年寄りを加えた旅慣れぬ集団なので、さらに半日、あるいは二日はかかるかもしれない。
延々と続く暗がり。気ばかりが急く。
一切の休憩を挟まず、進み続ける強行軍。
こちらも殺気立っているせいか、幸いなことにいまのところちょっかいをかけてくる存在は出現していない。
夜更け過ぎのことであった。
唐突に背後から闇が迫ってくるような感覚に襲われたとおもったら、轟っと唸り声をあげて見えない巨大な獣が一行のすぐ脇を駆け抜けていった。
風の塊である。
ついに山颪が始まったのだ。
これにより慮骸アカシオが動く。
おそらくはそれを察知して獣らも大移動を開始する。流れが氾濫となって怒涛のごとく麓へと押し寄せるまで、さして時間はかかるまい。
もしもグズグズと夜明けを待って出立していたら、きっと全滅していただろう。
だが安堵するのはまだ早い。慮骸アカシオの動き次第では、氾濫の流れも大きく変わる。どうか激流にならないようにと願いつつ、いまは懸命に進むしかない。
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