御者のお仕事。

月芝

文字の大きさ
上 下
109 / 121

109 氾濫

しおりを挟む
 
 氾濫(はんらん)。
 それはふだんは山や森の奥にいる獣や変異種たちが、こぞって人里にあらわれる現象のこと。
 発生する要因としては、餌不足や、環境の変化、あるいは特定の勢力または強い個体の台頭により拮抗が崩れたりと、いろんなことが複合的に重なって起こる。

 逃げ帰った者たちからもたらされた「山の様子がおかしい」との情報。
 もしも本当に氾濫の予兆であれば、すぐさま避難準備を始めなければ手遅れになる。
 氾濫の規模にもよるが、どのみち掘りと柵程度の守りしかないここでは、とてもではないが守りきれまい。
 だが辺境の民が自分の集落を捨てて、他所へ行くということはおいそれと決断出来ることではない。
 都市部の者たちとは土地に対する思い入れがちがう。厳しい環境の中、何代にも渡ってコツコツと開拓してきた場所を放棄するのは、身を切るよりも辛いこと。
 それゆえに集会はざわつくばかり。最悪、逃げる者と留まる者で分かれてしまうかも。

  ◇

 山での異変についての話を聞いた俺は、さもありなんとうなづく。
 なぜならこの集落へと向かう道すがら、旧街道沿いの森で騙裏に遭遇していたからである。
 あのときは「山の奥で暮らしている大ザルどもが、どうしてこんなところに……」と首をかしげたものであった。加えて集落に入り込んでいたハグレの存在。
 いないはずのモノがいる。
 山で何かが起きているのは確かであろう。

 俺は紛糾する会合の場からこっそり抜け出すなり、目指したのは山側の門の近くにある鐘楼。
 見張り台もかねている背の高い櫓へとよじ登るなり、見つめたのは勇壮な山肌。左右にめいっぱいに広がる峰々が、彼方にまで続いている。

「まるで世界を隔てる壁だな」

 感心しつつ拡張能力を発動。目に意識を集中するなりたちまち視界が変化。視野が狭まるかわりに、遥か遠方までをも見通せるようになる。
 つぶさに山を観察すると、そこかしこにて土煙が立ち、岩陰にまぎれては蠢く多数の影も確認できる。すでにあちこちで小競り合いが発生している模様。
 いまはまだふだんは出会わない者同士が遭遇したことにより、戸惑いがみられるものの、いずれは本格的に牙をむくはず。
 ぶつかりって、つぶしあって、殺し合ってくれるのが一番望ましい展開だが、そうそう都合よくいかないのが自然のやっかいなところ。
 行き場を失った力の奔流は、より流れやすい方へ方へと向かう。それすなわち麓にある人間の領域ということ。

「目視だけでも、推定万は越える氾濫になりそうだ。あんなのに襲われたら、こんな集落なんぞはひとたまりもない。こりゃあ、即時退避だな。都市アジエンに逃げ込んでから対処するのが無難だろう」

 都市アジエンは旧ガロン領において第四の都市であり、現存する中ではもっとも栄えて守りが固いところ。あそこの規模であれば近隣の集落の住人らをまとめて収容できるはず。
 さっそく得た情報ともども、そのことを進言すべく櫓から降りようとしたのだが、ふと気になったのが、氾濫の原因である。
 山からこちらに向かおうとしている氾濫。
 ならば原因は山の奥、もしくは山の反対側にあると考えるのが妥当。
 そこで俺は山裾から斜面を登るかのようにして、視線を動かし、頂上付近にきたところでギョッっとなる。

 頂き付近に霞がかかっていた。
 背の高い山であれば別段珍しいことではない。
 ただし、その色が赤くなければの話である。

「赤い霞……。はっ、まさか慮骸アカシオか! だがなんだ、あのふざけた大きさは……」

 慮骸アカシオ。
 海に発生する赤潮にも似た姿の慮骸。
 特殊な慮骸にて、自我はなく、実体は核となる赤慮晶石があるのみ。
 風を受けて赤い霞が動くのにあわせて、核もガランゴロンと転がり移動する。
 霞に触れた有機物を溶かすという凶悪な性質を持ち、倒すのはたいへんだが、追い払うだけならば比較的簡単な相手である。
 極端な話、盛大に焚き火をして、みなでウチワであおいでやれば、それでどこかへ行く。
 けれどもそれも通常の大きさであればのこと。
 山の頂き周辺を覆い隠すほどの規模ともなれば、話がまるで違ってくる。

「万どころの話じゃない。山に住むすべての連中が逃げ出すぞ。氾濫は氾濫でもかつてないほどの大氾濫になる。最悪、旧ガロン領は終わりだ。いいや、風向き次第では国自体もただじゃすまないはず」

 眼前に広がる絶望。
 よもやの事態に、俺はしばし鐘楼の上から動くことができなかった。


しおりを挟む

処理中です...