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073 影の赤子
しおりを挟むズーン、ズーンという音が響いていたのだが、途中から赤子の声のようなモノがそれに重なる。別方向から聞こえる二つの異音が風雪に混ざり合う。
赤い雪が吹き荒れているので、姿はわからない。
だが足下から伝わる振動や、音の響きからして、どちらも相当の質量をともなう存在だということは容易に察せられる。
俺は拡張能力をさらに強め、視力を極限にまで研ぎ澄ます。
とたんに他の感覚も引きずられるようにして、上昇。
瞬間、風に舞い散る赤い雪の一粒一粒までもがくっきりと判別できるようになった。
自分を取り巻く周囲の時間の流れが遅くなったように感じる。
それにともなってあれほど不明瞭であった視界がより鮮明になる。
闇の中に浮かび上がっているのは、空から降る無数の赤い点々。
その合間を縫うようにして彼方へと視線をのばす。
すると見えてきたのは、山のような何か。地響きはヤツの仕業。
変異種? それとも慮骸?
どちらにしろ、あの巨体は災害級。国が総力をあげて対処するような相手であることだけはまちがいない。
その山が少しずつ大きくなっている。
近づいてきているのだ。
「おいおい、なんだよありゃあ。冗談じゃないぞ! あんなのに踏まれたらちゃちな洞窟なんぞはたちまちぺちゃんこにされてしまう。すぐに移動して、進路上から逃れないと」
迫る危機に俺はすぐに行動を起こそうとするも、その時のことであった。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……。
赤子の声が唐突に変わった。
まるで夜鳴きのような激しい鳴き方。
俺はキョロキョロし声の出所を探すも、吹雪きと反響のせいで位置が特定できない。
そうこうしているうちにも、赤子の鳴き声はいっそう大きくなっていく。
かとおもえば、前後左右からじりじりと這い寄ってくるような錯覚に襲われて、俺はゾゾゾッ。たちまち肌という肌が粟立ち、背中より冷たい汗が吹き出す。
とっさに頭に浮かんだのは「邪悪」とか「忌」という言葉たち。
どうやら俺は早とちりをしていたようだ。
あの正体不明の山のような存在を脅威と考えていたが、そうじゃない。本当にやばいのは赤子の方、俺がずっとピリピリしていた原因はあっちだったのだ。
認識したとたんに全身が凍りつく。指先すらもピクリとも動かない。陸にあげられた魚のように口をぱくぱくし、わずかばかりの酸素を取り込もうとするのがやっとというあり様。
ぐっ、このままだとマズイ。
懸命に足掻いていた時、俺は見た。
いいや、ちがう。
見たのではない。向こうがこっちを見つけたのだ。
制止した時の中、赤い雪の彼方より血走った瞳がぎょろり。
矮小な俺をじっと見ていた。
巨大な影の赤子と御者との視線が交わる。
否応なしに思い知らされたのは、絶対的捕食者と餌にしか過ぎない者。
しかしそんな俺の感傷なんぞにはまるで興味がないとばかりに、あっさり視線を外した影の赤子は、動く山の方へと向かっていく。
◇
「おいっ、ダイア。おいってば」
背後から肩を掴まれ、揺さぶられて俺はハッとなる。
あわててふり返ればそこには少し怒っているウイザの姿があった。
「飛び出したっきりちっとも戻ってこないから、どうしたのかと心配していたんだぞ。なのに、こんなところでぼんやりしていやがってバカ野郎が、すっかり真っ青になって体が冷えきっちまってるじゃねえか」
彼女によればしばらく洞窟で控えていたら、じきにあのナゾの地響きは止んでしまったらしい。
なのにいくら待てども俺が帰ってこないもので、こうして外に出て見れば、ご覧のあり様だったという次第。
記憶がどうにもあやふやであった。
ひょっとしてアレは夢幻の類であったのだろうか。
「なぁ、ウイザ、おまえは聞いたか? あの赤子の声を……」
「赤子の声? それってアレだろう。夜の大樹の墓場を徘徊しているとかいう怪談話。バカバカしい。ほら、いつまでも呆けてないで、とっとと洞窟に戻って体を温めないと」
ウイザに手を引かれるままに、俺は歩き出す。
先を行く彼女の背を見つめながら、俺はぼそり。
「文明の再興どころか、存続すらも危ういな。ひょっとしたらとっくにすべてが手遅れなのかもしれない」
つぶやきは寒風によってたちまちかき消される。
赤い雪はまだ止みそうにない。
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