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244 放課後
しおりを挟む遠くに懐かしい音が聞こえる。
黄昏時に流れる耳慣れた曲。聞いているとちょっと切なくなってきて、妙に郷愁を誘い、「もう家に帰らなくちゃ」と思わせられるメロディ。
それに混じってガラリと戸が開かれる音がした。
「なんだアマノ? まだ残っていたのか」
担任の男の先生だった。
その声に、はっとして目覚めたわたしは、しばし呆然。
教室に残っていたのはわたし一人きり。他には誰もいない。どうやら居眠りをしているうちに、授業どころかホームルームをも寝過ごし、放課後になっていたようだ。
口元にだらしなく垂れたヨダレを拭う。
自分でも驚くぐらい深く眠りこけていたらしい。
もう思い出せないけれども、よほど楽しい夢を見ていたのか、余韻で胸の辺りがぽわぽわしてほんのり温かい。満ち足りた幸福感がまだかすかに残っている。
なんとなくこのまま忘れてしまうのがどうにも惜しくって、意識を集中して思い出そうとした矢先。
「あきれたヤツだな。いくら成績がいいからって、あんまり油断するなよ。ほら、暗くなる前にとっとと帰れ」
先生に急き立てられるようにして、わたしは教室を追い出された。
十以上もの教室が連なる長い廊下。ペタペタと歩く自身の足音がやたらと響く。等間隔で並ぶすべての扉が閉じられており、生徒たちの姿は見当たらない。みんなとっくに下校してしまったようだ。
窓から校庭に目をやるも、そちらも無人。
部活動もすでに終了していた。
いつもは暗くなるまでがんばっているのに……。まぁ、そういう日もあるか。
周囲をきょろきょろ。付近に先生の姿が見当たらないのを確認してから、わたしは階段の手すりに腰を預けて、すいーっと滑り降りる。
おかげであっという間に、一階に到着。
昇降口にてクツを履き替え、校舎を出る。
乾いた土のグランドを横断し正門へと向かう。その途中で「キンコンカンコン」と大きなチャイムの音がして、思わず立ち止まってふり返った。
よく晴れた茜色の空を背景に、夕闇に沈む校舎。すべてが真っ黒に染まっているかのようで、まるで切り出した影絵のよう。
すっかり見慣れたはずの学校が、ちがう巨大な何かのように感じられて、わたしは一瞬息を呑む。
でもすぐに気を取り直して、ふたたび歩きはじめた。
地域でも有数の進学校。
この高校を選んだのは、たんに家から歩いて通える距離だったから。
通学に電車やバスを乗り継いで、時間を浪費するなんて青春のムダ遣い。
というのは表向きの理由にて、本心は「たんにめんどうくさい」「ギリギリまでねていたい」「朝からおしくらまんじゅうとかイヤ」というもの。
住宅地に商店街に公園、代わり映えのしない景色のルーティーンの中に埋没ししつ、十二、三分ほども歩けば、自宅のあるマンションが見えてきた。
高級の類ではない。さりとて古くもない。基本設計がしっかりしていたのか、生活音が外部に漏れることもなく快適。住人らも良識的な人物ばかりにて仲は良好。中には気ムズカシイお年寄りとかもいるけれども、それとて不仲というほどじゃない。だいたいが顔見知りにて、会えば挨拶を交わし、少し立ち話をする程度には仲良し。
がらんとしたマンションのエントランス。
いつもはエレベーター前でたむろしているおばさまたちの姿もない。
夕食前の時間ゆえに、みんな忙しいのだろう。その証拠に、あちこちからほのかに美味しそうな料理のニオイが漂ってくるもの。
壁の掲示板には「聖クロア教会、バザーのお報せ」とのチラシが張られてある。
えーとなになに、近所の教会で月末にチャリティバザーを開催するのでふるってご参加下さい、か。
ぼんやりチラシを眺めているうちにエレベーターが到着。乗り込んで自宅のある階のボタンを押す。
ゆっくりと閉じられた扉。カタカタと揺れながら上へ上へと向かう箱。照明の具合がよくないのか、ちょっとチカチカして薄暗い。
小さい頃は、この空間があまり得意ではなかった。
原因はお母さんといっしょに見た映画。エレベーター内に殺人鬼とおぼしき人物とヒロインが、二人っきりで閉じ込められるという内容。おかげでしばらくは男の人とエレベーターで乗り合わせるたびに、ビクビクしていたものである。
ドアに鍵を差し込みノブを回すも、扉はわずかに開いただけで、すぐにガチャリと止まる。
チェーンがかけられてあった。
まえに押し売り紛いの新聞勧誘を受けて以来、我が家ではお母さんの方針により、チェーンロックが義務化。終始徹底されている。そのことをうっかり忘れていた。どうやらまだ頭が寝ぼけているようだ。
わたしはドアの隙間から家の中へ向かって「ねー、開けてよー」と声をかける。
するとタタタと軽快な足音が近づいてきて、姿をみせたのはオカッパ頭の女の子。
「おかえりー、リンネお姉ちゃん。いま開けるから、ちょっと待って」
小学生の妹の手を借り、ようやく帰宅。
お姉ちゃん大好きっ子な妹にまとわりつかれながら、台所で夕食の準備をしていたお母さんの背中に「ただいまー」
腰に抱き着いて離れない妹を連れて、そのまま自室へ。
シンプルな学習机に、いろんな本が詰まった棚にベッドという部屋の中。
カーテンは白、カーペットは敷いておらずフローリングがむき出し。
壁に掛けられてあるのは、お気に入りのアイドルのポスターとかではなくって、信用金庫からもらったカレンダーのみという、なんとも女子高生らしくない部屋。
そのくせベッドの枕元周辺には、青い目をしたお人形やら、サメのぬいぐるみ、ゼンマイ仕掛けのブリキのロボット、特撮ヒーローや怪人のビニールフィギュア、お姫さまの着せ替え人形なんかが、乱雑に置かれてある。
「もう。勉強もスポーツもなんでもこなす自慢のお姉ちゃんなのに、この部屋のセンスだけはいただけないよ。いい加減、ベッドの周囲のおもちゃを処分しちゃったら? 今度、教会でバザーがあるっていうし、出したらいいよ」
こちらを見上げながらかわいい妹にそう言われたのだけれども、わたしはうなずくことなく、曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
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