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其の五十六 悪縁
しおりを挟む女の口から語られる出自は壮絶。
血筋だけみれば女は千賀谷家に累しており、吉蔵が父ということは現当主である萬蔵とは、親子ほどにも歳の離れた兄妹ということになる。
だがふたりがたどってきた軌跡はあまりにもちがいすぎる。
本妻と妾の子。
片やぬくぬくと安寧を享受し、吉蔵と同じように女人にとち狂っては、財を食い潰すばかり。
片や想像を絶する艱難辛苦を経験しただけでは飽き足らず、ようやく掴んだ幸福はどこかぐにゃりと歪んでおり、挙句に濡れ衣の果てにすべての悪意を一身に背負わされて、処刑台へと送られようとしている。
世に産まれ落ちてより、今日まで女が歩んできた道。
登場する人物はどいつもこいつも、ろくでなし。
救いがない。光がまるでみえない。
あるのは底知れぬ闇、闇、闇、闇、闇……。
執拗にまとわりついてくる因果、悪縁ここに極まれり。
自分の体験した戦場の凄惨さとはまたちがった種類の因業。ひたすら内にこもっては、ぐつぐつ煮詰められて、よりねっとり濃厚さを増すこれを、なんと例えればいいのであろうか。
あまりのことにくらり、駐在は眩暈をおぼえた。
なのにそれでも鉛筆を動かす手を止めることはない。ひたすら筆記を続けている。
もうやめたいと心が訴えている。
もう聞きたくないと悲鳴をあげている。
なのにやめられない。いつのまにか腕の感覚が失せている。
まるでこっくりさんに操られるコインのように、勝手に動いては女の発した言葉の一語一句を書き留めていく。
ひとしきり記録が終わったところで、ふいに利き手に感覚が蘇る。
解放されたと駐在が感じたとたんに指の骨が軋み、手首にはずきりと鋭い痛み、腕全体の筋肉がぱんと張って、肩がだるさに襲われた。
よほど力んで鉛筆を握っていたものとおもわれる。紙面は隙間なく文字で埋め尽くされており、頁もかなり進んでいる。だからこれほど疲労していても無理からぬと納得しかけたのだが、ふと目を向けた先、壁掛け時計が示す時刻を知って駐在は唖然。
「えっ、どうして……。どうして時計の針がほとんど進んでいないんだ?」
体感的には優に一時間ぐらいは経っていると思っていた。もういい加減にお陽さまが顔を出し、この陰鬱な夜も明けているものだと。
なのに実際にはほんの十分ほどしか進んでいない。
時計のゼンマイは毎日かかさず回している。もしや壊れて止まっているのかと疑うも、コチコチコチ、かすかに聞こえてくる稼動音がそれを否定する。
向かい側に座る女を見れば、急に立ち上がった駐在の態度に、きょとんと不思議そうな顔。
とり乱しているのは己ばかり。
何かがおかしい。でも何がおかしいのかがよくわからない。いいや、おかしいと感じている自分の頭そのものがおかしくなっているのではないのか。
すとんと腰を落とし椅子に戻った駐在はぐったりしつつも、先ほど書き記した内容にぼんやり目を通す
無意識に誤字脱字がないかを調べる。
ここ和良簾村へと赴任してから書き続けてきた日報。立派な職務の一環なのだが、その習慣ゆえに、駐在にはつい文章を確認する癖が自然と身についていたのである。
で、改めて読みなおしてみると、そこにある致命的な矛盾に気がついた。
「なんだこれは? よくよく読み返してみれば視点がおかしい」
例えば女の母親が隠れ住んでいたところを細香に襲撃されたときのこと。
当時、女はまだ乳飲み子であろう。しかもすぐに男に連れ去られて現場からは居なくなっているというのに、まるでその場ですべてを見ていたかのような語り口。
他にも同様の箇所が多々あり散見している。
自供の中に女が知り得ぬ情報が過分に含まれている。
そもそもの話、女はどうやって自分の出自について知り得たのか?
誰がそれらの情報を女に教え、吹き込んだのか?
そんな者どこにも……。
いいや、ちがう!
いるではないか、ひとつだけ心当たりがある。
駐在は壁際に置かれたままの旅行鞄を凝視する。
「まさか、こっくりさん……なのか? だから、だから貴女はここに、この和良簾村にやってきたというのか。復讐をするために」
満面の笑みを浮かべる女。「はい」とよく通る声で返事をした。
その晴れやかな表情を前にして、駐在は最初に女が嵐の中を押して駐在所を訪ねてきた時のことを思い出す。
あの時、女はたしかにこう言っていたではないか。
「自首しにきました」と。
相手は指名手配犯を名乗る女。
だからてっきり駐在は、いま巷を騒がしている鬼子母神殺人事件のことだとばかり思い込んでいた。だがちがう、そうじゃない。
女が罪を悔いて自首してきたのは、まったく別の……。
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