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其の五十二 酒精怪炎
しおりを挟む駐在は向かい側に座る女の目を直視できない。
否応なしに、瞳に映る自分自身を見ることになるから。
かつてない自己否定、嫌悪感に苛まれて、胸がムカムカする。
もしもいま目の前に鏡があったら、きっと叩き割っていたことであろう。
机ひとつを挟んだ女との距離が近い。どうにも息苦しくてしようがない。無性に遠ざけたい。かすかに漂ってくる女の薫り。鼻孔からそろりと染み入ってくる。喉の奥がむず痒い。痰が絡む。
たまらず逃れるようにして、駐在は壁掛け時計をちら見。
時計の針はそろそろ午前五時を指そうとしている。
そろそろ夜が明ける。太陽が顔を出す頃合い。
ここ和良簾村は四方を険しい連山に囲まれており、他所よりも日の出はやや遅く、日の入りは早い土地。
けれども外はあいもかわらず風が暴れているようで、駐在所兼住居であるこの建物全体もガタガタ、びりびり、小刻みに震えたまま。しかしあれほど激しく屋根を打ちつけていた雨音は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
どうやら季節外れの台風は通り過ぎたようだ。風もそのうち落ちつくだろう。だが昨夜は酷い雨風であったので、きっと集落のそこいらで被害が発生しているはず。村と外部を繋ぐ唯一の道路が無事だといいのだが。朝の巡回のときに確認しておかなければ……。
気がつけば夜通しの事情聴取。
本来であればこんなこと、とても許されない行為。切りのいいところで中断するつもりであったのに、つい女が語るのにまかせてしまった。
それすなわち主導権を完全に奪われていたということ。話に引き込まれ、いつしか自分までもが、その場にいたような感覚に陥ることもしばしば。いやさ、女の話にどっぷり浸かり、溺れたといっても過言ではあるまい。
聴取していたのか、それとも聴取させられていたのか。
いまとなってはもうよくわからない。
徹夜と体調不良も手伝い、頭が少しぼんやりしている。奥で薄もやが張っているようで、どうにもしゃんとしない。体も熱っぽく重だるい。
一方で、ほぼ語り通しであった女はというとけろりとしている。これが二十代と三十代の差であろうか。
◇
今宵のこと、女が語ったことがすべて本当ならば、これはとんでもない濡れ衣、冤罪事件だ。とても許される話ではない。ないのだが……。
すでにレールが敷かれてしまっている。結論ありきの捜査、結論ありきの裁判、行きつく先は決まっている。
たとえ裁判で女が真実を包み隠さず白状したとて、まともには取り合ってはもらえまい。
せっかく記帳したこれもきっと黙認されるのにちがいあるまい。
女に対する同情、理不尽な流れへの憤り、正義への失望、無力な自分、どっと押し寄せる徒労感、胸に去来する虚しさ。
駐在は急に何もかもが嫌になり、すべてを投げ出したくなった。
いっそ拳銃で脳天を撃ち抜けばすっきりするのであろうか。
なんぞという馬鹿なことまでちらりと脳裏をよぎる。
せっかく戦場で拾った命、残された人生を放棄するという考え。
とたんに心がふっと軽くなったような気がした。煩わしいもろもろから解放される。それはとても素敵なこと……。
なのに気分が高揚したことにより、意識がふたたび浮上して現実へと戻った。
ひょうしにふつふつと疑問がいくつか湧く。
思いつくままに駐在はそれらを口にしていた。
「そういえば夜更けに厠へと立った旦那さまは、どうして蔵なんぞに行ったんだ?」
駐在はずっと引っかかっていた。戦後、鍵を新調して固く封印し、長らく近寄りもしなかったというのに、あんな時間帯に急に思い立った理由がわからない。
すると女は「これは現場を調べた消防団の方の見解ですけれども」との前置きをしてから、続けてこう言った。
「酒精に誘われたのではないかと」
蔵の地下にて大量に保管されていた角樽や四斗樽ら。湿気にやられたのか、あるいは鼠にかじられたのかはわからないが、うちのいくつかに傷みが生じて中身が漏れ出していた。
閉じた空間内にて充満していく酒精。外の気温との兼ね合いもあって、ずんずんと膨らんでは凝縮されるばかり。
じきにそれが上へと漏れ、ついには蔵の外にも。
厠へと向かった帰りに、夜風に乗って漂ってくるニオイ。
異変を感じて「もしや」とこっそり確認に向かったまではよかったのだが、手にしていた燭台が仇となる。蝋燭の火により、酒精に引火したのではないかという話。
「海外の強い酒ならばともかく、日本の酒でそんなことが起きるのか?」
という駐在に女は「さぁ、それは」と首をかしげつつ「たしか気化でしたかしらん。蒸発すると弱い酒精でも条件次第では燃えるというお話でしたけど」
女の話を聞きながら駐在はそのときのことを想像する。
もしも自分が旦那さまであったのならば、どうするかを考える。
するとやはり扉を開けて確認すると思った。夜中なのはむしろ好都合であったのだ。店の者らに気取られるまえに処理するには。
そして蔵へと立ち入ったものの、中は真っ暗、地下を確認しようと燭台の火をかざしたところで……。
いきなり炎に襲われ、きっと混乱したはずだ。
瞬間的な着火ゆえに冷静に対処していれば、あるいは助かったやもしれない。
けれどもいざ、そんな場面に遭遇したとき、はたしてどれほどの者が正しい行動をとれるであろうか。少なくとも駐在には自信がない。
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