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其の三十二 荼毘
しおりを挟むすっかり骨と皮ばかり。
目元が木の洞のように落ちくぼんでいるのに、奥で眼球だけが異様な光を宿しては、周囲をぎょろり、せわしなく動く。
手は絶えず小刻みに震えていた。全身が激しい痙攣に襲われることもしばしば。
歯茎からやたらと出血しているとおもったら、咳き込んだひょうしに血泡とともに口から零れたのは、根元から抜けた歯。
黄ばんだ歯がぽろぽろと、ぽろぽろと抜けていく。
いくらダメだと注意しても、頭をかきむしるのをやめない。
そのたびにごっそり抜ける白髪。かつては椿油で保たれてあったやわらかなソレも、いまや豚の毛のように固くごわごわに。肌もかきむしるので生傷が絶えず。そんな肌はところどころが赤黒く変色してはまだら模様にて、食せばきっと悶え死ぬ毒茸のよう。
生きながらに醜い木乃伊となっていった老女。
「ひゅう」
病床にて天井をにらみ、乾いた息を吐いたとおもったら、血の混じった糞尿を垂れ流し、それきり静かになった。
◇
尋常ではない不審な最期。
だから女は旦那さまに訴えた。
「こんなのおかしい! まともじゃないです。病気にしたって、こんな、こんなのって」
警察に届けるなり、医者に調べてもらうなりすれば、きっとなんらかの障りが発見されるはず。
けれども旦那さまは沈痛な面持ちにて首を横に振る。
「だめだよ。いまはとにかくまずい。この前のこともある。下手に警察なんぞを呼んだら、どうなることか」
緒方野枝の死に前後して、どこからともなく寝所に持ち込まれた漆塗りの箱。
誰の仕業にて、真意はいまもってわかっていないが、旦那さまはあれを一種の脅しと判断した。
請われるままに、これまで大勢にこっくりさんをして、視てきた女。
相談内容は多岐に渡っており、なかには口にするのもはばかられるような話もたくさんある。
秘密の漏洩を危惧する者が、もしも店に警察関係者が出入りしていることを知れば、どう考えるのかなんてことは容易に想像がつく。
やましいことがある人間ほどすぐに疑心暗鬼に囚われる。
一度目が警告だとすれば、二度目は?
「それにうちは憑き物筋だ。ただでさえ裏では敬遠されうとまれているのに、こんなことを表沙汰にすれば……」
もしもこれが女の身の上に起きたことであれば、旦那さまはすべてを投げうってでも原因を究明しようとしたであろう。いや、きっとしたはず。
だが死んだのは老女。
旦那さまにとっては他人に等しく、守るべき優先順位はかなり低い。
代々受け継がれてきた大店や愛する妻と、どちらが大切なのかなんていちいち秤にかけるまでもない。
結局、老女は病死として処理される。
すっかり縮んで軽くなっていた骸は荼毘にふす。
葬儀は身内のみにてしめやかに執り行われた。
◇
葬儀を終えたあと。
位牌を膝の上にのせて、離れの縁側で女がぼんやりと月を眺めていたら、いつのまにやら背後に立っていた旦那さま。
「今夜は少し風が冷たい。これを」
そっと上着を女の肩に羽織らせる。
布地がほんのり温かい。いままで旦那さまが身に着けていたものなのだろう。
自分を包む生の温もり、それが身に染みれば染みるほどに、膝の上にて物言わぬ位牌の冷たさが際立つ。
どうにも物悲しくなってしまった女。つーっと頬を涙が伝って、ぽとりと位牌の上に落ちた。
そんな女の耳元で旦那さまが穏やかな声音でいった。
「例の箱の中身もあの人といっしょに弔った。ひとりならば寂しかろうが、ふたりでの道行きならばきっと迷うこともないだろう」
はっとする女。女が悲嘆するばかりであったのに、旦那さまは不憫なあの子のことまでちゃんと気にかけていたと知って、とたんに情けなくなってしまった。
「すみません。私は自分のことばかりにかまけて……」
肩をすぼめて恥じ入る女に、旦那さまは微笑む。
「いいんだよ。おまえはそれで。無理をすることはない。しっかり泣いて、悲しんで、別れを惜しんで、あせらずゆっくり自分の中で納得しなさい」
優しい言葉に女がどれだけ救われたことか。
なのに旦那さまときたら「今回のことは本当にすまなかったね。どうか堪忍しておくれ」と頭まで下げたもので、これにはかえって女の方があわててしまった。
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