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其の三十一 そして鼬はいなくなった
しおりを挟む湯飲みが手からすべり落ちて、ごとりと倒れた。
中身が四方へと広がる。危うく卓の縁から畳へとしたたりそうになったもので、女があわてて「あらあら」と布巾でこれを拭う。
一方で湯飲みを落とした老女は、自分の震える指先をじっと見つめている。
「すみません、お母さん。ちょっとお茶が熱過ぎましたね」
女がそう声をかけるも、老女は固まったままで応答なし。
そこでいま一度「どうかなさいましたか、お母さん」と女が言えば、ようやく気がついたのか、「あぁ、いや、なんでもない。ごめんよ。うっかり手がすべっちまった。私も歳かねえ」と返事した。
これに女は「いやですよ、お母さん。そんなことをおっしゃってわ。まだまだかくしゃくとしたもんです」と微笑む。
しかし本心では「まただ」とひそかに危惧を募らせていた。
じつは似たような場面が、ここのところ増えていたのである。
食事中、箸でつかんだ芋の煮っころがしをぽろりとしたかとおもえば、ふいに親指が反って手がつってしまい箸そのものを落としたり、お吸い物の入った椀を置くときに乱雑となってタンっ、中身が跳ねたり、小鉢をがちゃんと鳴らしたり……。
元置屋の女将だけあって、行儀作法については厳しい老女。
以前の彼女では絶対になかったこと。
気になることはほかにもあった。
ちょっとした段差でけつまづく。歳をとれば足腰が弱るから、それ自体はべつにおかしなことじゃない。それこそ何もないところでも、おっとっととなるもの。
とはいえ、それでも襖の敷居程度の溝に足をとられるとなれば、やはり心配になる。
上がり框にて草履を履くとき、前かがみになると頭の重みでぐらり、体勢を崩してでんぐり返しをしそうになるもので、女は見かけるたびにハラハラのしどうし。それに幾分、耳も遠くなったような。
いっそ杖でも持たそうかとしたのだが、勧めたとたんに機嫌が悪くなってしまった。
自分で「歳をとった」と言う分にはかまわないけれども、周囲から年寄り扱いされるのは嫌なようだ。
女が寝所にて「だいじょうぶかしらん」と心配を口にすると、旦那さまも「それは心配だね。どれ店の者らにもそれとなく注意しておくように言っておこう」といってくれたもので、女はとりあえず安堵したものである。
けれども事態が好転することはなかった。
そればかりかより悪化する。
ついに老女は倒れてしまったのである。
医者の話では「季節の変わり目にて、おおかた寒暖差にでもやられたのであろう。若いうちならば平気なことでも、この歳になったらそうもいかない。それにずっと夜の生活をしていたツケもあるな。本来、人はお天道様に合わせて生活する生き物だから。長年、蓄積されていた疲れがどっと出たのであろう。しばらくは安静にしているように」とのこと。
だからいわれた通りに、処方された薬を与えては静養させていた。
しかしいっこうに回復する兆しはなく、床に伏したまま日に日にやせ衰えていく老女。
「せっかく元気になっていたのに急にどうして」
嘆く女。
それでも懸命に看病していたのだが、それもすぐに限界がきた。
急に錯乱したかとおもえば、支離滅裂なことを口走り、手足をばたつかせたり、近くにある物を手当たり次第に投げたりと、老女が暴れるようになったからである。
老女が「くるな、くるんじゃない! あっちいけっ」と投げた水差しが、女の頭に当たって傷つけたのを知って、旦那さまもさすがに黙ってはいられない。「これ以上はもうダメだ。あとは他の者に任せなさい」とぴしゃり。
旦那さまにとって優先すべきは自分の妻であって元置屋の女将ではない。「手にあまるようならば、どこぞの病院に入れる」とまで。
しかし相手は女にとっては育ての親のようなもの。
「そんな後生ですから」
女は泣いてすがる。
いつもはなにかと妻に対して甘い旦那さまも珍しく頑迷となる。
するとこれを見かねて「それでしたら私たちでお世話をしましょうか」と言い出したのが、平林環と影山秀子。
老女と彼女たちとの確執を知らぬ女はその言葉を鵜呑みにして、見ず知らずの人間に任せるよりかは、気心の知れた相手ならばと納得し、しぶしぶながらも旦那さまもこの案を受け入れいちおうの決着をみる。
平林環と影山秀子のふたり。
少なくとも表向きは真摯に老女の看護に取り組んでいたかのようにみえた。それこそじつの母親に尽くすかのように。
だから女も安心して任せていたのだが、しかしながら献身も虚しく、わずかひと月ほどにて老女は不帰の客となってしまった。
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