秋嵐の獄、狐狗狸けらけら

月芝

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其の二十九 幕間 境界

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 ドンッ!

 いきなり雨戸が激しい音を立てた。ひょうしにカチャリと何かが割れる音も続く。
 はっと驚いて筆記帳から顔をあげた駐在。女の話にすっかり聞き入り、これを熱心に書き移すうちに、完全に作業へと没入してしまっていた。その間、意識はたしかに女の語る過去の世界にあった。
 まるで急に夢から醒めたかのようで、しばらく惚けていた駐在であったが、それもじょじょに現実へと戻ってくる。
 そして意識がしゃんとするほどに、気になったのが先ほどの音。

「すまん、ちょっと見てくる」

 そう言って駐在は席を立つ。

  ◇

 音がしたのは駐在が寝起きしている奥の六畳一間。
 行ってみたら、ガラスが散乱している。どうやら暴風で飛ばされてきた何かが雨戸へと当たって、その衝撃で内側のガラス戸が割れてしまったようだ。

「そういえば外は季節外れの台風だったか。ますます強くなる一方だ。この分では和良簾村のみでなく、方々にもたいした被害が出るかもしれんな。難儀なことだ」

 つぶやきながらガラスの破片を拾おうとした駐在。とたんに指先に痛みが走る。うっかり鋭利な断面に触れてしまい、指先を切ったのだ。たちまち肌の裂け目からぷくりと血が浮かび垂れる。
 割れたガラスに素手で触れる。ちょっと考えれば危ないことなんぞ、子どもにでもわかること。
 駐在は己のうかつさにイラ立ちながら、ちりとりと箒(ほうき)を取りにいこうとふり返ったところで、部屋の入り口に立つ女の姿があった。

 いつのまにか背後にいた女が「あら、血が」と目敏く怪我に気がつく。

「あぁ、うっかり割れたガラスに触ってしまってな。なんてことのないかすり傷だ」

 事実その通りにて、戦地で見てきたものに比べれば、それは傷と呼ぶのもおこがましい程度のこと。だから「たいしたことはない。放っておけば勝手に治る」と言えば、いきなり女が「いけません」
 するりと近寄ってきたかとおもえば、いきなり駐在の手をとり傷ついた指先を己が口の中へと含む。

 口腔内は生温かく、指先を這う女の舌が妖しくうねる。
 ふたりの身長差から、女を間近で見下ろす格好になった駐在。視線がやや崩れた浴衣の胸元へと吸い込まれる。否応なしに相手が異性であることを意識させられる。ふわりと薫り立つ色香が鼻孔を刺激する。
 たまらず視線をそらせば、今度は部屋の隅に畳まれた布団が目に入った。一人暮らしゆえに押し入れに戻されることなく出しっぱなしにされたもの。
 いろんな妄想が渦を巻き、理性がぐらつく。自分の股間のあたりがカツと熱くなるを感じて、駐在はあわてて手を引っ込めた。

「も、もう、だいじょうぶだ。それよりも悪いが向こうにある掃除道具をとってきてもらえないか」

 ぎりぎりのところで踏みとどまった駐在は、なんとかそう言いつくろうことで女を遠ざける。そしてひとりとなったところで深いため息を吐く。

「危なかった。いったい自分は何を考えていた、何をしようとしていた? くそっ、どうにも調子が狂う。今夜はなにもかもが変だ」

 変といえば女の話もますますおかしな方向へと進んでいる。
 ここにきてようやく人死が起こった。緒方野枝なる人物が亡くなった。
 当時の警察は暴漢に襲われ、逃げるときにうっかり沼に落ち溺れたとの見解のようだが、女はこれに異を唱えている。女は頭巾の奥さまとやらの仕業と確信しているようだが、はたして本当にそうなのか。
 怪しいといえば、その日、都合よく家を空けていたという元置屋の女将の老女、所用があるからと早退した平林環も疑わしいもの。一見理性的にみえる旦那さまや影山秀子も、ひと皮むけばわからない。
 わかっていることといったら、女のところには妖しい品が次々と舞い込んでは、つねに奇妙な空気が漂っているということ。
 そしてその中心にはいつもあのコインと皮紙、狐狗狸さんとやらが……。

  ◇

 女が掃除道具を手に戻ってきた。
 駐在の思考は中断される。
 ふたりで手早く割れたガラスを片付け、破損した箇所には適当な板を打ちつけて応急処置を施しておく。
 ひとしきり片付いたところで駐在は女に言った。

「まだ細かい破片を見落としているかもしれん。うっかり踏んだら危ない。明るくなるまでここには立ち入らぬようにしよう」

 それは半分本心であり、半分は方便であった。
 嵐の夜に男と女がふたりきり。警察官と犯人。
 もしも間違いが起こったら、それこそ目も当てられない。
 もちろん駐在にはそんなつもりは毛頭ない。毛頭ないはずであったのだが……。先ほどのこともあって、いささか自信がぐらついている。
 信条、思想、信仰、矜持、その他もろもろ。人間が掲げるそれらがあてにならないのは、戦地にて知っている。
 いざともなればヒトはたやすくヒトデナシになれる。その境界はとてもあやふや。
 だからこそ己を過信しない。あらためてそのことを心に刻み駐在は女を促す。

「さて、では執務室に戻って事情聴取の続きをしようか」


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