秋嵐の獄、狐狗狸けらけら

月芝

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其の二十三 水銀

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 偽書のなかにたびたび登場してくるのが、水銀。
 何かを錬成するといえば水銀をぽとり。何かの魔術を行使するときにもまたぽとりといった具合に。
 水銀は沸点の低い金属。少し熱を加えるだけで液状化するものだから、昔の人にとってはとても不可解な品であったのであろう。
 なにせそういう物だと理解した現代人の目から見ても、やはり不思議に感じるものなのだから。

 あれこれと悩んだ旦那さま。
 いざとなると選定が難しい。黄金や宝石などでは、金銭目的の騙りと疑われて、のちの障りとなる。もとより、これで稼ごうだなんぞとはちっとも考えていない。むしろすぐにでもこの状況から解放されたいと願っている。
 そこで思案の末に、こっくりさんと交霊する条件として「ドラム缶いっぱいの水銀」を提示してみた。
 すでにこの手の物資は軍部の扱いになっている。一般人では少量ならばともかくこれだけの量となると、まず手に入らない。
 だから大丈夫だろうと、たかをくくっていたのだが……。

  ◇

 客が持ち込んだドラム缶を前にして、固まる女と旦那さま。
 よもやわずか七日ともたずに、策が破られるとはおもわなかった。

「これだけの量、いったいどうやって用意したのか」

 旦那さまが疑問をぶつければ、当の客は目元をにゅうと歪ませて答える。

「方々から温度計をかき集めました。探してみると意外にあるものですよね」と。

 温度計に使用されている水銀の量なんぞはしれている。いったい何百本、いや何千本集めれば、この量に到達するというのか。
 尋常ではない。執念や妄執を通り越しており、狂気の産物にも等しい。
 そんなシロモノを用意した客。大きく見開かれた瞳が血走っている。

「さぁ、奥さま、お願いします。私の話を聞いてください。おや? なにを震えていらっしゃるのですか。よもや、体調が優れぬからまた日を改めてだなんぞと、ふざけたことはおっしゃらないでしょうねえ」

  ◇

 何度も頭を下げては、感謝しつつ客は帰っていった。
 相談内容そのものはなんてことない。

「どうすれば我が子を守れるか」というもの。

 学徒出陣が導入されるようになってから、徴兵が厳しくなった。これまではお目こぼしされていた者のところにまで、赤紙が届くようになった。とても戦地では耐えられまいという虚弱な者にまで容赦なく「出兵せよ。そしてお国のために命を捧げよ」と言ってくる。「いざともなれば爆弾の一個でも抱えて、敵陣に飛び込め」とか本気で教えるというんだから、開いた口が塞がらない。
 そのくせこれを強要する者らは、安全な後方にてただ無策に喚き散らしているだけなのだから、呆れたもの。

 じつはここだけの話、似たような悩みを抱えている相談者は多かった。
 誰が好きこのんで十月十日抱えて大切に育み、腹を痛めて産んだ愛しい我が子を、むざむざ死なせたいと思うものか。
 表向きは「万歳!」と招集された息子を送り出しているが、裏ではみな泣いている。
 もしも本気で喜んで送り出している母親がいたとしたら、そいつは鬼だ。人の皮をかぶった鬼だ。

  ◇

 あまりにも真っ直ぐで深く、そして重たい母の愛。
 接するうちにいつも以上に消耗して、ふらつく足どりの女。
 夫妻が寝起きしている奥の離れへ戻ろうとすると、中庭にてドラム缶の前に立つ夫のうしろ姿を目撃する。
 異様な雰囲気は、まるで親の仇でも前にしているかのよう。
 ひょっとして怒っているのか?

「あのぅ、旦那さま」

 おずおずと女が声をかけるも、夫は振り返らない。
 だからいま一度呼びかけてみたら、ようやく振り返るも、そこにはいつもの温和な旦那さまの顔があって、女は安堵する。

「どうかなさいましたか。なにやら恐い顔をしておいでのようでしたが」
「あぁ、ごめんごめん、こいつの処理についてどうしようかと思ってね。まさか本当に用意してくるとは思わなかったよ。それでお客さんは帰ったのかい?」
「ええ、さきほど」

 話の流れで女が相談内容のさわりだけを伝えると「そうか」と嘆息した旦那さま。「これは完全に見誤ってしまったようだね。母の愛は偉大だ。男なんぞが遠く及ぶところではない。しかしそれはともかく、こいつをどうしたものやら」

 なにせ中身は水銀である。
 その辺の川に流してしまうわけにはいかない。
 というかドラム缶が重すぎて、とても遠くには運べそうにない。
 だというのにあの客は女の身でありながら、ひとりでこれを荷車に載せてやってきた。
 それだけ必死だったということであろうが、なんとも凄まじい情念。
 いかに愛のなせることとはいえ、あまりにも苛烈すぎる。思いつめるがあまり、我が身のみならず守るべき者も焼き尽くしてしまわねばいいのだが。

「いつか子をなし、母となれば自分もああなるのかしらん」

 女は内心で首をかしげつつ、旦那さまとふたりして重たいドラム缶を傾けては、少しずつ移動させる。運び込んだのは蔵の中。
 女は知らなかったのだが、じつはここの床下には秘密の収納場所があったのである。
 現在は使われていないそこにドラム缶を運び込む。

「ひとまずはこれでいいだろう。ここならば万が一、中身が漏れ出たところで周囲が石組と厚い土壁で頑丈に固められてあるから、問題なかろう。おまえも気をつけるんだよ。なにせ水銀には強い毒性があるんだから」

 旦那さまより優しく諭されて、女はコクコクうなづいた。


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