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026 星と亀の一騎討ち 前編
しおりを挟む鞘を捨てた星華が、レイピアを自身の顔前に掲げる。
ここで宮本武蔵であれば「小次郎、敗れたり!」と、決め台詞のひとつでも口にするところだが、あいにくと千里にそんな余裕はない。
レイピアを抜いた瞬間、星華の顔つきと雰囲気が明らかに変わったからだ。
星華はフェンシングの若き名手にして、次期オリンピックの金メダル有力候補である。
フェンシングという競技には、三つの種目がある。
頭部と両腕を除く胴体部分が有効面で、胴体には背中も含み、攻撃権というものが設けられているのが、フルーレ。
攻撃権は先に仕掛けた側に与えられ、防御側が相手の剣をたたいたり払ったりして阻止すると、すかさず攻撃権が向こうに移るルールとなっている。
このため目まぐるしく攻守が入れ替わり、スピーディーな応酬が展開される。
全身すべてが有効面となり、相手より先に有効面を突くとポイントになるのが、エペ。
攻撃権はなく、より実戦に近いスタイルにて、いかに間合いを見切り、相手の呼吸を読み、互いの剣を掻い潜り意表をつくかという駆け引きが重要となる。
両腕と頭部を含む上半身が有効面となるのが、サーブル。
この種目は先の二つとは違って突きのほかに斬る判定があり、加えて攻撃権もあるため、より派手でダイナミックな立ち合いが繰り広げられる。
なお三つの種目ごとに使用される剣は異なっており、長さや重さなどの規定が設けられている。
千里は「ふぅうぅぅぅーっ」
腹式呼吸にてゆっくりと息を吐きながら、鉄パイプを両手で持ち中段に構えた。
先端をピタリと相手の喉元へと向ける――正眼の構え。
星華はサーブルの選手である。
だが、これは千里にとってはありがたい。
なにせ千里がやっている剣道も下半身への攻撃を禁じている。
とはいえ油断はならない。星華ほどの才覚の持ち主であれば、エペ・スタイルでの戦い方をもこなせたとておかしくはないのだから。
地の利については、正直言って微妙なところ。
灯室の屋根はドーム状にて内部は外観同様に六角形、直径は六メートルほど。
そこそこの広さではあるが、中央には大きな灯器がデンと陣取っている。それをぐるりと囲む通路の幅は三メートルあるかないか。
フェンシングの試合は、ピストと呼ばれる細長い台の上で行われる。これの幅が一メートル半から二メートルとなっている。
剣道の試合は、板張りの床に一辺が九メートルないし十一メートルの正方形の中で行われる。
そのため地形的には星華がやや有利そうだが、剣道にはすり足を基本とした巧みな足さばきがある。そのうちの一つに開き足というものがあって、横移動の際に用いるもの。相手が打ってきたときに、かわして打つ場合や応じ技などに使う。
剣道は一眼二足三坦四力(いちがんにそくさんたんしりき)といわれている。
これは剣道を学ぶ上で一番大事なのは眼力、二番目が足さばき、三番目が胆力、四番目が技術力であるという教えを示す言葉。
ゆえに習い始めの頃には、徹底して足さばきの練習をさせられる。
(だからきっと大丈夫……それに私は落ちついている)
強敵を前にして、いい感じに集中できている。そのことが千里は不思議であった。少し前までの自分では考えられないこと。
ありえないといえば、この状況もそうであった。
片や常勝無敗を誇る学院の期待の星、片や万年三回戦止まりの剣道部員。
同じ高校に通ってこそはいるが、住む世界がまるで違う。見た目から中身まで、何もかもが違いすぎて、とても同じ人間とはおもえない。近寄るどころか、声をかけるのもはばかられ、ずっと遠から眺めていた。
そんな相手と、千里はいま一対一にて真正面から対峙している。彼女の瞳の中には、いま自分しか映っていない。
すべては旗合戦なんぞに巻き込まれたがゆえなのだけれども……
千里の思考は唐突に中断する。
星華が動いた。
天へと掲げられていたレイピア、その切っ先がスイと下がったとおもったら、次の瞬間にはもうすぐ目の前にまで迫っていた。
踏み込みからの突きだ。
「――っ!」
とっさに身をひねり左横へと移動しながら、千里は鉄パイプで突きを受け流す。ギリギリ間に合った。
互いの得物がぶつかったひょうしに火花が散って、ギリリと耳障りな掻き音が生じる。
当たった箇所をチラ見し、千里は瞠目する。
鉄パイプの表面が軽く抉れて削れていた。
刃がつぶされていない……星華が手にしていたのは真剣であった。
いくら優れた剣士とはいえ、それはあくまで競技の中でのことである。防具をつけていない、真剣を手にしての立ち合いとなれば完全に別物であろう。
だというのに星華の攻撃には一切の躊躇がなかった。
千里はゴクリと喉を鳴らす。
一方で初手を防がれた星華だが、素早くいったん退き距離を置いては、自身の手元と千里を見比べ小首を傾げていた。
様子見ではなく、一撃で仕留めるつもりであった。
試合でもそうそう止められることのない電光石火の突き……それが止められた。しかも弱小剣道部の部員に、である。
ウマの姿をした化生である夜行――迅劉生にまたがり激しく公道を駆けた分の疲労を差し引いても、計算が合わないことを星華は訝しむ。
そのタイミングで千里は攻撃を仕掛けるのではなくて、星華に声をかけた。
「ねえ、鳳さんも旗合戦についての説明はもう受けたんでしょう? だったら……」
暁闇組チームのルイユ・クロイスあたりから、すでに詳細を聞かされているはず。
だとすれば、この旗合戦の勝敗いかんで自分たちの街が、ひいては人々の暮らしに深刻な事態をもたらすこともわかっているはず。
いかに勝った方のチームに所属する旗役の乙女が、なんでも願い事をひとつ叶えてもらえるとはいえ、あまりにも危険だ。
というか、そもそもの疑問として、鳳星華に叶えてもらいたい願いなんぞがあるのだろうか?
容姿端麗、文武両道、やることなすことズバ抜けている。
他者が羨望の眼差しを向けることはあれども、彼女が他人を羨むとはとてもおもえない。
たしかに願い事ひとつというご褒美は魅力的ではあるものの、星華ならばたいていのことを自力で達成するだろう。
ならばまだ交渉の余地があるのではと、千里は密かに期待していたのだけれども、それは星華の次の発言によって泡と消えた。
「私ね……ずっとずっと退屈だったの。でもいまはちょっとワクワクしている」
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