白き疑似餌に耽溺す

月芝

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037 調査資料

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 美味い餌にありつけそうだと、佐々木頼人は舌舐めずり。
 方々の伝手を頼って、急遽集めた関係者らの資料の束に目を通す。

 飼部健斗について調べてみてわかったのは、青年の生い立ちの過酷さだ。
 多額の負債を抱えた両親がダブル不倫の末に、幼い健斗ひとりを残して姿を消した。
 以降は親族中をたらい回しにされる。どこでも扱いは酷いもので、都合のいい労働力扱いはまだましな方、搾取と虐待の連鎖が延々と続き、学校ではイジメの対象にされ、性暴力を受けた痕跡もあり、はてには保険金目当てに命を狙われていたことすらある。
 それでも人生を投げ出さなかった。
 歯を喰いしばっては歩み続け、奨学金を得て大学へと進学したのだから立派だ。
 だが、そんな青年の前にあらわれたのが杉浦彩子と桐谷陽太である。
 結果としてこのふたりが、ずっと耐えてきた青年の心を無惨にへし折った。
 諸悪の元凶は陽太である。
 もしも陽太がいらぬちょっかいをかけなければ、彼らが迎えた未来はまた違ったものとなっていたことであろう。
 だがしかし、もっとも罪深いのは彩子だ。
 なにせ孤高を耐え偲び生きてきた青年に、愛と安らぎ、平穏を覚えさせたところで、これをいきなり取り上げたのだから。
 幸福を知ってしまったからこそ、その後にやってきた不幸、絶望はひとしお。
 そのせいで健斗は耐えられなかった。
 以前のままの青年であれば、あるいは――

  ◇

 杉浦彩子について調べてみると、彼女もまたふり幅が極端である。
 高校まではどこにでもいるふつうの、いや、少し控え目な娘であった。
 急激な変化が訪れたのは大学生になってからのこと。
 健斗へは彩子の方からアプローチをかけて、付き合うことになったという。
 この時点では、まだ異状はなかった。

「ふたりはいい感じだった」
「お似合いだった」
「彩子はとても彼氏を尊敬していたみたい」

 彩子と交流があった友人知人たちは、総じてふたりの交際を好意的に捉えていた。
 なのに彩子は健斗を裏切った。
 そして陽太との関係を密にするほどに、まるで毒に蝕まれるかのごとく、どんどんとおかしくなっていく。
 それにともなって交流関係もがらりと変わった。
 警察関係者より近々に撮った彩子の写真の画像を見せられた時、両親は「これはうちの娘じゃない」と言ったことからも、その豹変ぶりは相当であろう。
 浮気、二股の挙句に健斗を捨てた彩子、本来であれば彼女の不実さこそが責められてしかるべき。だが事が周囲に露見するよりも先にばら撒かれた悪意あるデマによって、真実は捻じ曲げられた。
 誹謗中傷により、ストーカー扱いされたのは健斗であった。結果として彼は失意の中、大学でも孤立することになってゆく。
 そんな健斗を彩子と陽太は公衆の面前で罵倒し嘲笑っていたというのだから、恐ろしい。
 いったい何が彼女の性格をこれほどまでに歪め、心境を変化させたのか?
 発端こそは陽太であるが、途中で留まるなり引き返せる機会は幾らでもあった。
 だが彩子はそのままブレーキを一切踏むことなく、ついにはダイブする。
 陽太の子を身籠り、そしてあっさり捨てられた。
 すでに周囲からも見限られており、頼れる者がいない彩子が縋ろうとしたのが、かつて自分が手酷く捨てた男であった。
 けれどもこの時すでに、飼部健斗は大学を休学しており、住んでいたアパートも引き払っていた。

 いくら電話をかけても出てくれない。思いつく限りの連絡手段をとるも、なしのつぶて。
 暗黙の拒絶だ。
 ふつうならばここで諦める。
 だが彩子は執拗に健斗の行方を追い、ついには大学の女性事務員の弱味を握って、恐喝することで欲しい情報を手に入れた。
 が、そのあとがよくわからない。
 レンタカーを返したところまでは追えたが、そこでふつりと消息を絶った。
 車に搭載されてあったカーナビやGPSのデータが確認できれば、彩子の行動を辿れるのだが、さすがにそれは手に入れられなかった。
 もっとも失踪人扱いにて、両親から捜索願も出されており、なおかつ桐谷陽太が腹の子ともども殺害した疑惑が持ち上がった時点で、警察が調べているはずだ。
 その上で、動いていないということは、さして不審な点は見られなかったということなのだろう。
 警察関係者の非公式の見解では「飼部健斗を頼ろうとするも、相手にされずに絶望して、どこぞでみずから命を断っている線が濃厚」とのこと。
 彩子の状況を考えれば、十分にありえる。
 だけれども、はたして本当にそうなのか?
 資料をめくりつつ、頼人は灰皿からまだイケそうな吸い殻を発掘すると、これをくわえて火をつけた。

  ◇

 桐谷陽太に関しては、詳細を省く。
 頼人は記事を書いたときに、陽太についてひとしきり調べたので。
 強請りの常習犯である自分が偉そうに言えた義理ではないが、陽太をひと言であらわせば「クズ」である。
 エリート一家の落ちこぼれ。優秀な兄と弟に挟まれてブラザーコンプレックスを拗らせた挙句に、両親から愛されたいと渇望するあまり無意識のうちに騒ぎを起こしては、関心を惹こうとする。はっきりって迷惑な男だ。
 だがこの手の甘ちゃんは存外多い。
 ただし、ここまで拗らせる者は少ない。
 大学へは高校の推薦枠にて入学したというが、この分では実力で勝ち取った権利ではないだろう。親のコネを使ったか、あるいはなにがしかの汚い手を使ったか……

 杉浦彩子は行方不明である。
 桐谷陽太は逃亡犯だ。
 悪友は借金苦からの失踪にて。
 揃いも揃って安否は不明。

 奇しくも三人に共通しているのが飼部健斗である。
 そんな健斗は遠縁の者からの遺産にて、いきなり大金持ちになった。
 人生大逆転、けれども世俗を厭い、山奥の家にて引き篭っている。
 これまで青年が歩んできた人生を考えれば、それも無理からぬこと。
 だが気になるのが、そんな青年に救いの手を差し伸べたふたりの存在だ。

 遺産の後継者に健斗を指名したという三峰房江。
 後見人として万事の世話を焼いている弁護士の阿刀田隆。
 房江という女に関しては、ほとんどわからなかった。不自然なほどに情報が集まらなかったのが逆に不気味だ。
 そして弁護士の男だが、こちらはどうにもきな臭い。
 表向きはクリーンなのだが何か匂う。一見すると老紳士だが、あの笑顔がどうにも胡散臭い。
 ハイエナの勘が「奴には何かある」と告げている。

「さてと……。飼部健斗と阿刀田隆のどちらから攻めるべきか」

 頼人が天井へとのぼっていくタバコの煙の行方を目で追いながら、背もたれに身をあずけるとイスがぎちりと鳴いた。


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