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017 畏御山
しおりを挟む夜になり、いよいよ日付が変わる頃。
阿刀田さんが運転する黒の乗用車が到着した。
「やぁ、健斗くん、こんばんは。とんだ災難でしたね。でも私が来たからにはもう大丈夫ですから。どうぞご安心を」
つねとかわらず、阿刀田さんは落ち着いている。控え目な笑みを浮かべる彼を、出迎えた健斗の方がどぎまぎする。それでも言われるままに、すぐに彩子のところへと阿刀田さんを案内した。
座卓の陰に倒れている彩子に阿刀田さんは近づくなり、口元に手をかざしたり、手首の脈を調べたりしてから、ぼそりとつぶやく。
「おや、しぶとい。まだ生きていますね」
死んでない? てっきり殺したものとばかり――
戸惑いと安堵が入り交じり健斗の視界がぐにゃりと歪む。阿刀田さんの言葉を聞いた途端に、全身から力が抜けた。
へなへなと、畳の上にへたり込む健斗を横目に、阿刀田さんは自身の上着のポケットから黒の革手袋を取り出す。
キュッ、キュッと小気味よい音をさせながら革手袋をつけ、手を開いたり閉じたりしつつ阿刀田さんは言った。
「すみませんが健斗くん。ちょっと裏から一輪車を玄関先にまわしてきてくれませんか。あと、物置からブルーシートもお願いします」
彩子はまだ生きている。
てっきり救急車でも呼ぶのかとおもいきや、意外なことを頼まれたもので健斗はきょとんとなる。それでも再度「さぁ」と優しくうながされて、健斗はのろのろと動きだした。
◇
荷運び用の一輪車に、ブルーシートでくるんだ彩子を乗せて夜の山道を行く。
家の裏山をぐるりと迂回するように通じている細道、舗装はされておらず、でこぼこの地面はところどころぬかるんでいる。外灯などはもちろんない。
周囲は鬱蒼と生い茂った森に囲まれている。山々は黒い壁のようにそそり立ち、見上げた空には恐ろしいほどに星たちがギラついていた。
まるで黒々とした蛇体のような悪路を、阿刀田さんは器用に一輪車を操り進む。健斗は黙ってこれについてゆく。
よく見知った路(みち)なのか、阿刀田さんはずいぶんと慣れた様子である。
はじめて会った時、健斗は彼のことを「まるで痩せた狼みたいな人だ」と称した。所作が洗練されており、身形のいい物腰柔らかな老紳士だけれども、どこか荒涼とした風を感じさせる。
先を行く背中、それを追いかけるうちに、健斗はその思いをいっそう強くする。
頼もしく尊敬もできる。けれども、それでいて空恐ろしい背中……
そんなことをぼんやり考えながら健斗は足を動かし続けていたものの、ふとあることに気がついた。
「えっ、虫の声が止んでいる。それに野鳥の鳴き声も。どうして……」
夏の夜の山というのは、とても賑やかだ。
なのにいつの間にか、あれほどやかましかった合唱がまるで聞こえなくなっていた。
路を進むほどにしんしんと降り積もるのは静寂、ときおりガタゴトと揺れる一輪車、自分たちが土を踏む音ばかりが耳に届く。
空気がねっとりしており喉にはりつく。どろりと濃厚、うまく呼吸ができない。心なしか周囲の闇も濃くなっているかのような。
だというのに阿刀田さんは平然と進み続けている。
重苦しい空気に耐えかねた健斗が口を開く。
「阿刀田さん、僕たちはどこへ向かっているのですか?」
彼はこちらをちらりとすることもなく答えた。
「この先にある畏御山です。おっと、健斗くん、そこ、へこんで泥水が溜まっているので足下にお気をつけ下さい」
注意されて健斗は慌てて窪みを避けた。
畏御山(いみやま)――
房江さんが残した古い日記にあった場所だ。
じつは健斗はあの家に暮らすようになってから、早や数か月が経とうというのに、いまだにほとんど家の敷地から外へ出ていなかったのである。
どうやら家の周辺の山野には毒を持つ植物が多数自生しており、この一帯がちょっとした毒花の園らしく、知識がないと危ないこと。それに遺産目当てに寄ってくるハイエナどもを警戒し、用心をしていたこともある。
だがそれよりも何よりも、蔵の地下室にいるアレから離れがたかったからである。
ゆえに町に降りるのも必要最低限であったし、あとは裏山の社と家を往復するばかり。
こんな状況なのに、アレのことを少し考えただけで健斗は劣情をもよおし、ズボンの股間を膨らませる。そのせいで足取りがやや乱れた。
だが阿刀田さんは気にせず進みながら言った。
「畏御山のオイヌサマは特に女子どもの肉が好物でしてね。妊婦の生餌なんてめったにないごちそうだから、すぐにペロリですよ」
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