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第十の怪 黒棟(くろむね) その四
しおりを挟む団地の階段は狭くて急だ。
大人だとすれ違う際に、少し体を傾け互いに譲らねばならないだろう。踏板の奥行もせせこましくて、大きな足の人だとつま先がコツンとぶつかりかねない。打ちっぱなしのコンクリートに気持ちだけ滑り止めがついているが、手すりもない。五階の住人ともなれば、これを毎日上り下りすることになるのだから、それだけで運動不足が解消されそうである。
バリアフリーなんぞはどこ吹く風にて、上階になるほどにお年寄りが敬遠しているのも、納得の不自由さである。
トリ婆の住まいは二階の角部屋なので、麟たちはすぐについた。
が、スチール扉を前にして、ふたりはまたもや顔をしかめることになる。
落書きと張り紙がひどいからだ。
いくら鳥へのエサやりが自治会で問題になっているとはいえ、これはあんまりだ。正義感からの行動というには、あまりにも卑劣で悪辣である。
「ねえソラちゃん、わたし……、外にいる鳥たちよりもこっちの方がよっぽど怖いんだけど」
「奇遇ね、リンちゃん、わたしも同じよ。世の中、何が怖いかっていったら、なんだかんだいっても、やっぱり人間が一番怖いかも」
暴走する誤った正義をまのあたりにして、四年生コンビの表情はやや青ざめていた。
だが、これはけっして他人事ではない。
なぜなら自分たちもまた学級だよりを通じて、情報を世に発信する立場だから。
一歩間違えば、同じ側に足を踏み入れかねない危険が絶えずついてまわっている。
ゆめゆめ気をつけねばとふたりが自戒したところで、呼び鈴を押す。
ジリリリリリリリ……
愛想のない機械のベル音が鳴り響いているのが、外にいるふたりのところにまで丸聞こえ。これだと、近所のお宅が「おや、うちにお客かしら」と勘違いしそうである。
すると案の定であった。
トリ婆宅からは返事がなかった代わりに、背後のドアがガチャリと開く。
反応したのは向かいの部屋に住む隣人であった。
「は~い、どちらさま~」
不用心にもいきなり玄関扉を開けた隣人は、やや福福しい容姿をしたお爺さんであった。寝ぐせ頭に眠い目をこすりながらあらわれる。
欠伸まじりのお爺さんは、見知らぬ小学生の女子たちにきょとんとしながらも、すぐに自分の勘違いを察して、「あちゃあ、またやっちまったかぁ」と己の額(ひたい)を手でぴしゃり。
麟と美空はせっかくだからと、かくかくしかじか。
事情を聞いたお爺さんは、階段の踊り場へと目をやり「うわっ、本当だ!」といまさらながらに、鳥だらけの状況に驚く。
なんでもこのお爺さんは警備の仕事についており、夜勤のときは早朝のまだ陽があがる前ぐらいの帰宅となるので、異変にちっとも気がつかなかったとのこと。
そんなお爺さんは、トリ婆の家の様子をちらりとするなり舌打ちする。
「ちっ、またかよ。この前、きれいに掃除したばっかりなのに。ったく、隠れてこそこそとしょうもないマネをしくさりやがって」
何度もイタズラをされており、その都度、すぐにキレイにしているのだが、犯人も意地になっているのか、キレイにすればするほどに、よりエスカレートするイタチごっこになっているんだとか。
でも……
「ヘンだな」とお爺さんは首を傾げた。
そうなのだ。
いつも気がついたら、すぐに掃除している。
なのに今日に限って放置されている。
この界隈は昔馴染みばかりが住んでおり、もしも旅行とかで何日も家を留守にする時などには、ご近所さんにひと声かけてから出かけるのが常だ。
でも、そんな話は聞いてない。
「………………まさか!」
血相を変えたお爺さんはつっかけを履くなり、麟と美空を押しのけては隣宅の玄関扉を、ドンドンドン。
だが、やはり応答はナシ。
そこでお爺さんは、扉にある郵便受けの蓋を外から押し開け、室内の様子をのぞくなり、「えらいこっちゃ!」と大慌てする。
玄関先の廊下にて、スリッパが不自然に脱ぎちらかされており、買い物カゴもひっくり返っては中身が散乱している。さらにその奥に見えたのは二本の足のソックス姿だ。投げ出されるようにして倒れたままで、ピクリともしていなかった。
◇
倒れているところを発見されたトリ婆は、隣人のお爺さんが付き添い救急車で緊急搬送されていった。
すわ、一大事と泡を喰った麟たちであったが、救急隊員によれば命に別状はないという。
トリ婆、なんでも買い物からの帰宅直後にギックリ腰にて悶絶、体勢を崩したところをすってんころりん、頭を打ってそのまま昏倒していたそうな。
遠ざかる救急車を見送った麟と美空は「ふぅ、あせったぁ」「やれやれね」と安堵の吐息を零すも、その時になって気がついた。
いつの間にやら、四十五棟にたむろしていた鳥たちの姿が消えてしまっていることに……
「そっか……でも今回のことって、やっぱり鶴の恩返しみたいな話だったのかしらん」
麟は頭をポリポリかいては、首をひねっている。
「かもしれないわね。でも、そうなると不思議なのは、襲われたクラスの子なのよねえ。嘘をついているようにはおもえなかったけど」
美空は腕組みにて、さっきまで鳥たちがたむろしていた団地の屋根の方を見上げる。
すると一羽だけカラスが残っており、こっちを見ていた。
「うん。あの子、ずっと生き物係をやっているし、鳥好きなのは本当だとおもう」
「……だとしたら、もしかしたらあの子の勘違いだったのかも」
「勘違い?」
「そう、勘違い。登校中にいきなりバサバサ襲われたって言ってたけど、そのわりにはスリ傷ひとつしていなかったでしょう? だから、ひょっとしたら必死に助けを求めていたのかも」
「あー、鳥好きのあの子なら察してくれるとおもったのかぁ」
「まぁ、気持ちはわからなくもないけど、いきなり複数でバサバサやられたら、誰だってビビるわよ」
「だよねー」
かくして、とりあえず大事には至らなくて良かったものの、本当のところは誰にもわからない。
人間は人間の理屈と都合で動くし、鳥は鳥の理屈と都合で動く。
鳥にエサをやることに対しての是非に端を発した今回の騒動。
そこから浮き彫りにされたのは、日常のすぐそばに潜む善意の仮面をかぶった悪意だ。
現代の魔女狩り……
でも、その一方で手を差し伸べる人たちもいる。昔ながらの義理人情もまだまだ捨てたもんじゃない。
あちらを立てればこちらが立たず、算数の計算みたいにこれはという正解もない。
どれを選び、どれを切り捨てるのか。
社会はいろんなことがこんがらがっており、複雑怪奇でややこしい。
そのことをあらためて思い知った麟と美空は家路についた。
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