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169 黒銀の王
しおりを挟むはるか遠くの空に浮かぶのは黒い霧のような何か。
それを求めて駆け続けた水色オオカミの子ども。
ですが追いつくまえに陽が暮れてしまい、遠目に見えていたその姿がどんどんと藍色の空に混じってゆき、じき完全に夜のしじまへと溶け込んでしまい、まるで見えなくなってしまいました。
月のない夜。
それゆえに地上は漆黒の平野と化しましたが、空には元気にまたたく星たちのきらめき。
月明りがないからこそ、輝ける者たちもいる。
星の海を見上げながら、トボトボと歩き続けたルク。
ふと、その足が止まりました。
前方になにやら得体のしれない、とてつもなくおおきな気配を感じたからです。
闇の中から何者かが、こちらをじっと見つめている。
よくよく目を凝らしてみると、前方の暗闇の中に二つの紅い点があるのがわかりました。
とてもちいさな、ほんとうにちいさな点々。だけれども明確なる意志がこめられている双眸。
まるで射抜かれたかのように、それからルクは自身の茜色の瞳をそらすことができません。
互いに視線をからめることしばし。
ゆっくりと闇の中から浮かびあがってきたのは、一匹のムシでした。
人間の子どもの手の平におさまりそうな縦長のカラダは、すすけてくすんだ銀色。短い触覚の生えた顔は四角く、その上半分ほどもあるおおきな真紅の瞳。口元にはちらりと頑強そうな牙がのぞき、節だらけの手足はきっとどの木々の枝の先よりも細い。それこそ幼子の指先によるたわむれですら、たやすく折れてしまうことでしょう。
そんなか弱く、ちいさな、一匹のムシだというのに、ルクは圧倒されていました。
チカラにではありません。それならば水色オオカミのほうがずっと強い。
カラダの大きさでもありません。それもまた水色オオカミのほうがずっと大きい。
なのにかなわない……。
そう感じさせるものが、目の前の相手からは発せられていたのです。
「ずっと背後からせまる何者かの気配は察していた。我は黒銀(くろがね)、イナゴを統べる王なり。冬のよき日の空のようにふしぎな毛の色、その身に強きチカラを宿すオオカミよ。いったい我らに何用か?」
イナゴ、それはムシたちの仲間。細い足でピョンと高く跳ね、芸術的な模様のうすい羽で万里をも征くバッタの一種。
その王であると名乗った黒銀。
「ボクは水色オオカミのルク。あなたたちのあとを追ったのは、どうしてもききたいことがあったから」
ルクが名乗りかえし、用件を伝えると、黒銀はカチカチとアゴを鳴らし、じつに愉快そうな声をたてました。
「ほほぅ。だれもが忌み嫌う我らのもとを、わざわざたずねてくるとはな。ずいぶんと酔狂なことよ。だがよかろう。行軍もちょうどひと休みをしていたところでな。よい余興になるわ。我が自ら相手をしてやろう。ただし言葉はよくよく選べ。でないと命の保障はできぬからな」
王の言葉が終わるやいなや、周囲に次々と浮かんでいったのは紅い点。
ポツポツと灯ったかとおもったら、いっきに波のごとくザザザと広がり増えていく。
数百、数千、数万……、いいえ、きっともっとずっと多い。
まるで地上に満天の星空が出現したかのよう。
見渡す限りの闇の平原に浮かび上がる紅い星々。それらが、すべて彼が率いる民たち。
もしも水色オオカミの子どもが、王に無礼なマネをしでかしたら、きっとこれらすべてがおそいかかってくる。
圧倒的数の暴力。
そんなものがすぐそばに気配を消してひそんでいたことに、おののかずにはいられないルク。
自慢の鼻はまるで利かず、竜の谷で得た瞳も反応しませんし、まったく気づけませんでした。こんなことは初めてです。
なんともおそろしくて、シッポどころか全身の毛が逆立つのをおさえられそうにありません。
そんな水色オオカミの子どもの様子を見て、カカカとアゴを打ち鳴らす黒銀の王。
「みなの者、もうそのへんでかんべんしてやれ。客人が困っておるわ」
とたんに潮が引いて行くように消えていく紅い点。
じきにふたたび真っ暗闇となってしまいました。
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