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其の四百六十五 想い
しおりを挟む迷い家の招きに応じた一夜。
温かな囲炉裏にて、贅をつくした山海の珍味に舌鼓をうち、ほかほかのご飯をお腹いっぱいに食べた。
銅鑼はいつものごとく旺盛な食欲をみせ、お櫃のご飯ではとても足りずに、竈門の釜にて焚かれていた分まで、ぺろりとたいらげる。
おみつもいつもはよく食べて二膳ぐらいなのに、四膳もおかわりした。
どの料理も美味しかったのだけれども、特にお米が美味しくて、噛むほどに口の中に幸せが広がる。咀嚼するほどに身の内に英気が充ちていく。それに不思議とお腹が膨れて帯びがきつくならないものだから、ついつい箸が進む。
自覚はなかったが体が食べ物を欲していたのだ。
どうやら慣れぬ空の旅で、おもいのほかに消耗していたらしい。
不思議といえば、食事の合間にもちょいちょい奇妙なことが起こる。
空になった小鉢や椀が、いつの間にやらどこぞに失せている。
そのくせ心の内で「美味しい、もう少し欲しいかも」とか考えていた品には、おかわりがされている。
湯飲みの茶も減っていたのが、いつのまにやら追加が注がれている。
銅鑼に乞われて大鍋の中身をよそおうとすれば、さっと椀やおたまが用意されている。
うっかり汁物を撥ねさせて、床に粗相をしてしまったら、これまたほんの少し目を離しているうちに、さっと拭かれている。
まるで姿の見えない女中が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているかのようだ。
しこたま飲み食いして、すっかり満腹になった銅鑼とおみつ。
ちょっとだらしないけれども、おみつは両足を投げ出しては、ふくらはぎの辺りを手揉みしながらくつろぐ。
銅鑼は猫らしくのんべんだらり、横になっては「げふっ」と曖気(おくび)を零す。
そうして膨れた腹を休ませていたら、ほどなくして……。
かっぽーん。
聞こえてきたのは湯屋で馴染みの音だ。
どうやら迷い家には風呂もあるらしい。
「しっかり浸かって、体の疲れをとってこい」
お先にどうぞと銅鑼に勧められたので、おみつは風呂場へと向かった。
風呂場は家の奥にある渡り廊下を越えた別棟にあった。
杉の木が薫る風呂は、銅鑼が黒銀虎の姿になっても、余裕で手足を伸ばせるほど。
おみつなら、それこそ泳げるだろう。もちろんそんなはしたない真似はしないけど。
浴槽になみなみと新しい湯が溜められている。
それを独り占めできるのだから、なんと贅沢なことか。
◇
たっぷり湯を堪能したおみつ、脱衣所には卸したての浴衣まで用意されており、ありがたく使わせてもらうことにする。
なお脱いだはずの自分の着物は失せていた。おそらくは旅の汚れを落としてくれているのだろう。
「でも、洗った着物がたった一晩でかわくのかしらん?」
首を傾げるも、ここは普通の家ではない。
きっと何とかするのだろうと、おみつは、もう驚かないことにした。
おみつが母家に戻ってくると、すでに居間の隣室に寝床の用意がされてあった。
蒲団は錦糸をあしらった厚手にて、まるで大店の娘が輿入れする時に、親から持たされる嫁入り道具のような贅沢な品。
軽くて雲のごときふわふわした感触に、おみつは「おぉー」と感嘆する。
そんなおみつを横目に銅鑼はのそりと起き上がると、急に大真面目な顔となり言った。
「いまならまだ人の世に戻れるぞ。引き返すならここしかねえ」
すべてを忘れて、ただの町娘として生きる。
妖らとのかかわりを断ち、九坂家とも縁を切り、門前通りでも評判の茶屋の看板娘として暮らし、いい人を見つけ、所帯を持ち、子を成し、ゆくゆくは孫の顔でも拝めれば、人の一生としては御の字、十分に上出来であろう。
ここまで来ておいていまさら……なのではない。
ここまで来たからこそ、あえて問わねばならぬ。
もちろん藤士郎を救いたい。狐侍を助けたいと願っている者は大勢いる。各々の立場で懸命に動いている。ついには地獄秘蔵の仙桃までも引き出した。
さりとて、それはひとりの町娘を危険にさらしていいということではない。その命を犠牲にしていいということではない。
もしもおみつの身に何かあれば、祖父はきっと生きてはいけまい。
藤士郎とてそうだ。自分を救うためにおみつの身に何かあったら、たぶん己を許せずに、その喉を小太刀で掻っ切ることであろう。あれはそういう男だ。
いまこの時が、人の世と妖の世との境目……。
だから銅鑼は問う。
するとそんな真剣な銅鑼に対して、おみつは意外なことにくすりと笑みを浮かべた。
「茶屋なんかの商いをしていると、いろんなお客様がみえられます。毎日、賑やかにあくせくやって楽しいのですけど、それでも自然と目についてくることがあるんです」
そこで「ふぅ」とひと息ついてから、おみつは言った。
「他人さまの厭な面が……」
言葉遣いや態度が横柄だったり、こちらが年寄りと小娘だと知った上で居丈高に振る舞ったり、なかには乱暴を働く者までいる。
もちろん、そんなのはほんのごく一部だ。
でも、そんなごく一部の者らが吐いた言葉が棘となり、心のしこりとなって、しんしんと降り積もっていく
まっとうに生きている者が、まっとうに生きていない者から理不尽に罵倒されたり、嫌がらせをされたり。
そんなおかしな話が商いの道には溢れている。
しょうがない、我慢のしどころ、誰もが通る道と先人たちは言うけれど……。
たまらなく虚しくなることがある。
すべてをうっちゃってどこかに逃げ出してしまいたくなる時がある。
「でもそんな時にかぎって、藤士郎さまは茶屋にあらわれるんですよ。もちろん、たまたまなのでしょうけど。
いつも変わらずひょうひょうとして、少し背を丸めてちょっと頼りなさげで、なのに何かあればいの一番で駆けつけてくれて、助けてくれて。
他の威張ってばかりのお武家たちよりも、よほどすごいんだからもっと誇ればいいのに、柄じゃないからと町娘相手にもへこへこ頭を下げる。ちょっとはにかんだ笑みをみせる。
そんな藤士郎さまに会うと、不思議と自分の中にあったもやもやした厭なものが消えてしまうんです。
だからわたしは――」
なんてことはない。
おみつはとうに覚悟を決めている。
銅鑼は「やれやれ、おれとしたことが……こいつはとんだ野暮天だったな」とばつが悪そうに顔を前足でくしくし。
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