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其の四百五十六 消えた狐侍
しおりを挟む千両首なんぞを掲げたことにより、多数の不逞牢人や破落戸を市中に招き寄せた。
これにより市中の治安が著しく悪化する。
それがやがて江戸を揺るがす。昼夜を問わずの物騒な追いかけっこ、徒党を組んでは町中での大喧嘩に、お店から火まで出した科(とが)により、札差の千曲屋に奉行所の手が入った。
他にも訊きたいことが山とある。さしもの千曲屋も年貢の納め時、詮議の末に店主の千曲屋文左衛門には厳しい沙汰が下されるだろう。
と、江戸雀たちの間ではもっぱらの噂である。
しかしながら、千両首にされて、悪趣味な首狩り賭博の贄にされた者のその後についてを、知る者はほとんどいない。
◇
鐘ヶ淵で暴れた人面炎馬は橈骨の残滓……。
元よりかなり弱体化していたとはいえ、人にとって脅威なのはかわらない。
そんな化け物がよりにもよって、おみつに目をつけた。
おみつを守り戦うことになった藤士郎は、このままでは勝てないと悟り、ある決断を下す。
河童の秘薬を飲むことで、一時的に超人と化すこと。
だが、これは禁じ手であった。
この薬は飲むほどにじょじょに藤士郎の心身を蝕み、人を人外の領域へと引きずり込む。飲み続ければ戻れなくなる。
だから「もう使うな」と銅鑼からも注意を受けていた。
でも、藤士郎は飲んだ。
大切な人を守りたかったからだ。
黒い異形と化した藤士郎は、同じく変じた愛刀の烏丸を手に人面炎馬を討ち破り、戦いを制す。
けれどもついに人外の身から戻れなくなった。
挙句には守るべき者をみずから傷つけるところであった。
寸前のところで駆けつけた銅鑼が止めてくれたから大事には至らなかったが、際どいところであった。
そして藤士郎はみなの前から姿を消した――。
あの夜からすでに七日が過ぎようとしているが、藤士郎の行方はようとして知れない。
当主不在の伯天流道場は、まるで火が消えたかのよう。
ただでさえ辛気臭い貧乏道場が、いっそう陰鬱な影をまとっている。
でも、そんなところに足繁く通う若い娘の姿があった。
おみつである。
茶屋の看板娘は仕事の合間をぬっては、団子の土産を手に通う。もちろん姿を消した藤士郎の身を案じてだ。
いまやおみつは藤士郎や九坂家の秘密を知っており、巷ではやれ「化け物屋敷」だの「薄気味悪い」とか囁かれ、江戸剣術界から蛇蝎のごとく嫌われている場所も何のその。
当初こそは戸惑いはしたものの、すぐに馴染んだ。
おみつは猫又、河童、有翼の黒銀虎、家憑き幽霊、鏡の中に映る九坂家の先代などを前にして。
「そりゃあ、正直なところ驚きはしましたけど。でもまぁ、ねえ。ほら、うちも伊達に知念寺の門前通りで、長らく商いをしているわけじゃありませんから。この程度の不思議で腰を抜かしてちゃあ、あの界隈ではとてもやっていけませんから」
と、言ってのけたほど。
さすがである。若いながらにずいぶんと胆が据わっている。
幽霊の身である自分を見ても動じない。しっかりした娘さんを、藤士郎の母志乃もすっかり気に入ってしまい「ぜひうちの息子の嫁に」と言い出すほど。
ふたりには武士と町人という身分差はあるが、そこはそれ、やりようはいくらでもあるからどうとでもなる。
ただし、問題は肝心の放蕩息子の消息がわからぬこと。
では、銅鑼たちがただじっと手をこまねいていたのかというと、さにあらず。
妖や人に動物、あらゆる伝手を頼っては、その行方を探していた。
いまは有力な情報が届くのを、じっと待ちながら力を蓄えているところである。
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