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其の四百五十三 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 黒き異形
しおりを挟むその気になればひと息に距離を詰められるものを、ゆっくりとした歩みなのはわざとだ。
もったいつけ、見せつけるかのような仕草は、獲物を存分に怖がらせるため……。
相手が怯え慄くほどに、まるでこれを喜ぶかのようにして周囲の炎が揺らめき色めき立つ。
おみつのもとへ人面炎馬が闊歩していく。
させじと立ち塞がった河童らであったが、人面炎馬が吐く紅蓮の息により、たちまち蹴散らされてしまった。
この時、すでに意識を取り戻していたおみつは、少しでも迫る怪異から離れようと後退るも、辺りを占拠している火勢によりどこにも逃げられない。
追い詰められた獲物が必死に逃げ惑う。
その姿を人面炎馬がにへらと笑う。
が、すぐにその表情が不快げに変わった。
小娘がこちらをきっとにらみ返してきたからである。
「あ、あんたなんて怖くもなんともないんだから」
声を震わせながらも、おみつは啖呵を切った。ただの強がり、だが彼女もまた生粋の江戸っ子にて、ここにきて負けん気がかま首をもたげる。
そんな小娘の態度に人面炎馬は、むかっ。
矮小で非力な人間のくせに生意気な……。
つい怒りのままに人面炎馬は小娘を踏み潰そうと右の前足を振りあげた。
だが、振りあげた蹄をすぐに引っ込めた。そんなことをしてはもったいない、と考えをあらためたからである。
そこで変わりにぬうっと醜怪な顔を近づけては、「ふんっ」と鼻息をひとつくれてやる。
続けておみつの肩を張ったのは、人面炎馬の尾っぽであった。
撫でるような軽いもの、戯れの一撃、それでもおみつにとっては強いものにて、「きゃっ」と倒されてしまう。
地面に転がり痛みにて「うぅ」とうめくおみつを、人面炎馬はさらに小突き回そうとした。
が――その身が急にぐらりと傾いだ。
何が起こったのかわからない人面炎馬は、まるで他人事であるかのようにして、ゆっくりと傾いていく世界を眺めている。その視界の隅を黒い何かが一瞬、横切ったような気がした。
炎の壁をものともせずに駆け寄り、すっかりおみつに夢中になっていた人面炎馬の右の前後二本の足を切り裂いたのは狐侍であった。
だがしかし容姿がこれまでとは一変していた。
赤い双眸にて、まるで鴉のように全身が漆黒に包まれている。けれども羽毛のようなそれは、よくよく見てみれば鱗のようなものであった。
異形化……。
河童の丸薬による副作用である。
通常はここまで劇的な変化は起こらない。せいぜい体の一部に異変が生じる程度にて、それも放っておけば、じきにかさぶたのごとく剥がれて消える。
なのにこんな現象を引き起こしているのは、過去に受けた傷のせいだ。
かつて八王子の黒狐の女怪に不覚をとって、背後から貫かれたさいに体内にまぎれ込み、心臓へと定着した成分のせいで、藤士郎の肉体は河童の丸薬に対して異常なほどの親和性を持つようになってしまった。
ようは、ありえない域にて馴染むということ。
そのせいで、ただでさえ人間にとっては効能が高過ぎる妖の薬が、いっそうの強さでもって狐侍の身の内を駆け巡ることになる。
滾る血、早鐘を打つ鼓動、増す筋力や俊敏性、感覚が磨き込まれた刃のごとく鋭利になる。
薬の作用で一時的に超人的な力を得て無双状態となる。
しかしその時間はほんのわずかだ。精神的、肉体的な負担も大きく、使用後にはもれなく反動によってろくに動けなくなる。酷い時には数刻どころか、数日寝込むことも。
代償は他にもあった。
それが異形化だ。
繰り返し薬を飲むことで、それは着実に進行していく。「人に戻れなくなるぞ」と銅鑼にも言われていた。
それでも藤士郎は大切な存在を守るために、使う決断をする。
かくして狐侍は、黒き何かと成りにけり。
異形となった狐侍は人面炎馬を切り倒す。
それを横目にぐったりしているおみつを抱きかかえると、ひらりと飛び上がった。
軽々の炎の壁を越えて、いったん外へと。
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