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其の四百四十九 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 駆ける
しおりを挟むおみつの身に危険が迫っている。
血相を変えた藤士郎が、光差す方へと駆けていく。
足下をのびた一本の光線に導かれ、向かった先には小さな丸鏡があった。鏡面が眩いばかりに輝いている。
銅鑼はそこへ飛び込めと言うけれど、とてもではないが自身と大きさが釣り合わない。長身痩躯をいくら縮めたところで、頭の先ほどしか入れそうにないのだが……。
「ええいっ、ままよ!」
藤士郎は意を決し、鏡へと目がけて突っ込んだ。
すると不思議なことに、小さな鏡の中へとするする己の身が吸い込まれていくではないか!
珍奇な現象に理解が追いつかない。頭が混乱する。
かとおもえば――。
景色が一変した。
鏡の世界がふつりと消えた。
かわりに鼻孔をくすぐったのは馴染みの水の匂い。
頬を撫でるのは隅田川沿いの江戸の風である。
この地で産湯を浸かり生まれ育った身だからこそ、藤士郎にはすぐにわかった。
ちらりと左方向に目をやれば、雷門に宝蔵門、聖観世音菩薩像を祀る大本堂、奥山や五重の塔などの姿がある――ここは浅草だ。
けれども次の瞬間のことである。
がくんと視界が下がった。かとおもえば、その身が落下をはじめたもので藤士郎は「げっ!」
こちらとあちらを結ぶ饕餮の移動鏡。
抜けた先はなんと空の上!
いきなり宙に放り出されたもので藤士郎は慌てる。
でも、落下はすぐに止まった。
銅鑼だ。でっぷり猫の姿から本来の有翼の黒銀虎の姿へと変わっては、藤士郎のうしろ襟をひょいとくわえて翼をばさり。
まるで親猫が子猫を運ぶかのようにして、銅鑼は今戸橋の上空を飛び、隅田川を越える。
対岸へとついたところで、進路を北へ。
そのまま川沿いをさかのぼり、鐘ヶ淵へと向かう。
だがしかし、ここで急に飛ぶ勢いが落ちた。高度も下がっている。
らしくない……。
いつもの銅鑼であれば、この程度の距離なんぞはひとっ飛びである。
訝しんだ藤士郎がどうにか首を捻って、銅鑼に目をやれば、その原因がすぐにわかった。
黒銀虎は全身に傷を負っており、自慢の翼もぼろぼろ。ところどころ羽根が焦げたり、抜け落ちたりしており、破れ傘のようだ。肩を上下させており、息をするのも苦しそう。
かつて見たことのない姿であった。
いつもひょうひょうとしては、立ちはだかる難事をするりとあしらってきた大妖・窮奇が、そんな姿を晒している。
それすなわち、それだけ凄まじい戦いを経て、ここにいるということ。
「ど、銅鑼……」
大丈夫なのかい?
そう言葉をかけようとした藤士郎であったが、銅鑼にじろりとにらまれて黙り込むしかなった。
◇
饕餮と銅鑼のがんばりもあって、ついに先を飛ぶ人面妖火の背を捉えた。
このままいけば、どうにか鐘ヶ淵の手前で追いつける。
かとおもわれたのだけれども、せっかく縮まった距離がじょじょに開き始めた。
飛行速度がみるみる落ちていく。苦しいのを我慢し、銅鑼は意地だけで飛んでいたものの、いよいよ体のほうがいけなくなってきたらしい。
そしてついに高度を維持できなくなって、なかば不時着するかのようにして地面へと降りた。
「ぐっ、ここまでか……。先に行け藤士郎! おれは少し休んでから向かう」
「わかった」
疲労困憊にて倒れ込んだ銅鑼を残し、藤士郎は駆け出した。向かうは鐘ヶ淵の川沿いにある雑木林の中に建つ一軒家だ。
目指す場所の周辺には民家の姿はない。
世俗から離れており、とても閑静なところ。
あの一軒家はもとからいわくつきの家にて、それが焚書の術に使用されてからは、一帯に充ちる妖気がより濃さを増した。
そのためなのか、日中でもどこか薄ら寒い気配が漂うようになり、寄りつく者がますます減ってしまったという。
(おみつちゃん……どうか無事でいておくれ)
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矢となり駆けて、ついに雑木林の中へと入った。
あとは林の小路(こみち)を通り抜けるだけ。
しかしあとほんの少しというところで、前方から女の悲鳴があがった。
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